07 ノコギリの鳴る音 前編
場面が色々と切り替わります。
「もう、あの娘に関わるな。あれは――神々を裏切り、世界から呪われた女だ」
「………え」
この人は何を言っているのだろう……。あの娘? 誰のこと? 世界から呪われている? その言葉に一瞬先ほどまでの光景が頭に浮かんだけど、頭を振って振り払う。
そんな私に彼は少し悲しそうな顔をして、何か言いたげに一歩踏み出し――
「くっ、」
彼は一瞬で数メートルも跳び下がり、私ではない場所を睨み付けた。
そこには、一頭の真っ白な蝶がふわりと舞っていた。普通の蝶じゃない……。ただただ白い平坦な光を切り抜いたような白い蝶は、瞬きした瞬間にふと消えてしまった。
……何だったんだろう。でも……どこかで見たような気もする。
「――――――」
「え……」
何か微かに聞こえた気がしてそちらを向くと、あの彼が遠くから悲しい群青色の瞳で私を見て、そのままどこかへ去って行った。
結局、彼にお礼も言えなかった……。そしてあの時彼から聞こえた言葉がどうしてかとても心に残った。
『――カメリア――』…と、彼はそう言っていた。
「――そうだ。ハナちゃんを捜さなきゃ」
大事なことを思い出して、私は立ち上がり走るように繁華街の大通りへと戻る。
いつもと変わらない街。足早に通り過ぎる仕事中の男性。店先の商品に群がる海外の観光客。たあいのない話をしながら笑顔で歩く女性達。
何も変わらないはずなのに、どこか不気味なものを感じて、そこから逃げるように走りながらハナちゃんを捜していると、遠くで煌めくような綺麗な黒髪が目に飛び込んできた。
「ハナちゃんっ!」
声を出すのに慣れていない私の声は届かない。
ハナちゃんは急ぐように通りを曲がり、走り出した私が曲がり角まで追いつくと、そこで見えたのは黒塗りの高級車に乗り込むハナちゃんの姿だった。
***
私は歩道橋の上から、まだ迷ってるような椿を急き立てるように大きく腕を振る。
でも私が派手な動きをしたのは椿に見せる為だけじゃない。椿がようやく走り出しても、私は歩道橋の上で跳びは得るようにして彼等の注意を私に引きつけた。
突然追いかけてきたあの大学生らしき三人組。普通でも警戒するところだけど、私はあの三人を見た瞬間、彼等が『憑かれている』と分かった。
だって、あの人達の耳とか襟元にあの“黒い虫”がいたんだよ……。
あの黒い虫はどこにでも居る。でも普通の人には見つけられない。見えてもただの虫かと興味をなくし、捜しても見つからない。
物陰で黒く蠢くモノ――人々が零した想いの欠片の集合体。だから人の欲望が溢れる街には必ずアレがいる。
でもアレは基本的には無害で、集まっても夜の墓場なんかで怖い感情を揺らしたり、ギャンブル場で熱中させたり、良く言う『場の雰囲気に流される』程度の事しかできない、本当に儚い存在だ。
でもあの三人にはそれが大量にこびり付いていた。異様なくらい……。
全員誘い出すつもりだったけど、ついてきたのは二人か。椿、大丈夫かな。あの子、泣いていないといいけど。
椿のほうへ行かないようにギリギリまで引きつけたいけど、私も【力】がほとんど回復していないから無茶は出来ない。本当に普通の子供と一緒です。
「それでも日本の子供より動けるつもりだけ、どっ」
歩道橋の階段を降りる途中で、ショートカットの為に手摺りを越えて飛び降りる。
ドンッ。
「は?」
飛び降りようとした瞬間、また誰かに背中を押された。え、なんで? 周りに誰も居ないのは確認したよ!? しかも真下に尖った折れた枝!?
私は頭から落ちる途中で咄嗟に歩道橋の手摺りを蹴り、低木を飛び越えて路上消火栓の上に着地する。
「あっぶなっ」
結構ギリギリで心臓に悪い。振り返ってみても歩道橋の階段に人影はなく、奇妙なアクションをした私に、通行人は誰も興味を示さず流れていく。
「………」
誰かに狙われている。個人じゃない? どれだけの敵が紛れているの? まるで街中から悪意を向けられているようで寒気がするけど、あの二人が追いついてきたので私も逃走を再開した。
人混みをかき分けて逃げながら心を落ち着かせる。【力】も少しずつだけど回復しているのか、少しだけ身体が軽く感じた。
「っ!」
人混みの中、私は知らない誰かから伸ばされた手を屈んで躱す。
確認もしない。ここが紛争地帯や危険地帯だと割り切ってしまえば、どうせ味方など居ないのだから。
正直言って、椿には途中でタクシーでも拾うと言ったけど、この状況でタクシーなんて拾えるの? 私もここに居る全員がおかしくなっているとは思わないけど、私の姿が見えていない可能性がある。
「うっ」
突然また、あの“黒い虫”たちの気配を感じた。
あいつらはどこにでも居るけど、街路樹や自販機の影に異様なほど湧き出している。
この先に何かあるの? それとも何か近づいて来るの? 例えば……
「……死体とか」
口から漏れた想像に自分でも気分が悪くなる。
こんな都会の真ん中で“それはない”と思いながらも、とりあえずこの場から早く離れようと、追ってくる二人を気にしながらも通りを曲がって全力で駆け出した。
ビュンッ。
「うわっ!?」
すれ違おうとしていた男性が、いきなり持っていた鞄を私へ振り下ろした。
瞬時に速度を上げた私の髪を数本引き千切り、そのまま抜けようとした人混みの横手から複数の手が綿に向かって伸ばされる。
ギョッとしたけど硬直なんてしてあげない。伸ばされる複数の手をギリギリで躱しながらチラリと見ると、その人達の襟元にはやはりあの“黒い虫”がびっちりとこびり付いていた。
これは拙いかな、と思ったその時――
キュッと微かにタイヤが軋む音に顔を向けると、黒塗りの高級車のドアが開き、裕福そうなおじさんが焦ったように私のほうへ手を伸ばしていた。
「そこの君っ、早く乗りなさいっ!」
***
「あの生意気な若造めっ」
揺れもなく音も無く走る黒い高級車の後部座席で、その男、陣衛は憤りを堪えられないように強く床を踏みならす。
「…………」
そんな主の様子に運転手の御堂は溜息交じりに小さく息を吐いた。
御堂は専属の運転手ではない。普段は陣衛の秘書の一人であったが、護衛を兼任するようになってから良い様に使われている自覚がある。
御堂は幼い頃から優秀で、家は一般家庭だったが良い大学に行かせてもらい、恵まれた体躯もあって、友人達より頭一つ飛び抜けていたと自負する彼は、有名企業に就職することも出来た。
優秀な自分はいずれ経済界で上り詰めてみせる。そう思い上がっていた御堂の希望は数年で打ち砕かれた。
人とは生まれた時から順位が決まっている。だから、このような愚かな男の部下をして、良いように使われるしかないのだと、社会の厳しさを思い知らされた。
黙っていようかと思ったが、内にある燻る感情が、二代目と言うだけで自分の上についた愚かな男へ言葉を放たせた。
「受け取って貰えただけ上等でしょう」
「貴様は黙ってろ、御堂っ! 勝手に口を開くなっ!」
「……申し訳ございません」
「この車を使うのはこれで最後だっ! 次から別のを用意しろっ!」
「はい」
この国には、政財界の上層部、そのごく一部しか知らない秘密がある。
東京の地下には巨大な空洞があり、そこにはあるモノが祀られ、この国に繁栄をもたらすものと信じられていた。政財界を支配する老人達は、いつかそれが自分に恩恵をもたらしてくれることを待ち続けている。
数年前に亡くなった陣衛の父もそれを信じる者の一人で、定期的に行われる会合では幹部の一人であったらしい。
死に間際の父より遺産としてその事実を知った陣衛は、後を継いで会合の幹部になるべく赴いたが、老人達にまだ若造と侮られ、地下に降りることを許されなかった。
それより数年経ち、父が行っていたように定期的に『お布施』と『供物』をしているが状況は何も変わらなかった。
それが与えてくれる“恩恵”が何か、御堂は聞かされていない。
だが、それを先代から聞いた陣衛は、まるで取り憑かれたようにお布施と供物を捧げて、何か焦っているのか、今日も危険を冒してまで『供物』を捧げに行き、地下に降りたいと願い出た陣衛だったが、それは一人の青年にあっさりと退けられた。
群青色の瞳をした若者――名を村雨。
陣衛どころか御堂よりも若く見えるその青年は会合で高い発言権を持つらしく、陣衛に会ってはくれたが、供物しか受け取って貰えなかった。
「御堂っ、次の供物はどうなっておるっ!」
「はっ。数週間後には入荷の予定です。しばらく時間は掛かります」
「遅いっ、何とかしろ」
「ですが、あまり短期間だと怪しまれます。今回のような危険な真似は……」
「それを何とかするのが貴様の仕事だろう、御堂っ!」
関東では供物を見つけるのはとても困難になっていた。最近では警察も警戒を強化をはじめ、“若い娘の連続行方不明事件”を捜査している。
そんな供物の一体を先ほどまでトランクに入れていた。夜の街で偶々見つけたのを処理して荷物として積んでいたが、陣衛でなくてもそんなモノを載せた車には乗っていたくはないだろう。
だがそれを御堂が言っても、愚かな主は聞く耳を持たないことは分かっている。
「でしたら……」
先ほど、とある有名女学院の制服を着た少女がいた。確か陣衛の娘も通っている女学院で、供物というのなら良い家柄の娘が相応しいかと思ったが、そんな子供を拐かせば尚更次がやりにくくなるだろう。だとすれば――
御堂の視界に、外国人らしき少女が誰かから逃げるように走っている姿が映る。
「あのような外国人の観光客なら宜しいのでは?」
***
「ハナちゃんっ!」
ハナちゃんを乗せた車が流れるように走り去っていく。
その車に乗ってはダメっ! 私には視えた。あの黒い車……後ろのトランクの隙間から、あの“黒く蠢くモノ”が溢れるように零れていた。
そこから感じたのは強い“悪意”と“絶望”……。
何故か分からないけど……私はその車から“死”の匂いを感じた。
「きゃっ!?」
急に髪を引っ張られて振り返ると、そこにはあの三人組の一人が、私の髪を掴んだまま虚ろな眼で笑っていた。
「ひっ」
そいつの耳や口の中から“黒く蠢くモノ”が溢れ出ているのを見てゾッとする。
この人……取り憑かれてる。私がそいつの手から髪を引き抜こうとすると、後ろから誰かに腕をつかまれた。
三人組の残りの二人だ。一人が私の腕を捻り上げると、あの青年に倒された太った男が笑いながら小ぶりのナイフを取り出した。
「だ、誰かっ、助け、」
中学生を男三人が道で取り囲み、ナイフまで取り出しているのに、通行人達はまるでそれが見えていないかのように通り過ぎていく。
ザクッ。
「え…」
首に感じた微かな痛み。太った男のナイフが私の首元を掠り、髪の一房が顎の辺りで切られて男の手に残されていた。
「えいっ!」
私は後ろから手を掴んでいた男から頭突きをするようにして抜け出し、そのまま逃げ出した。
髪を切られたのも斬りつけられたのもショックだったけど、何故かその一瞬に動くことが出来た。
手で触れた首のヌルリとした血の感触と、髪を切られた事実に涙が滲む。
でも今は泣いてる場合じゃない。ハナちゃんを追わないと……助けないとっ!
ドンッ。
「きゃあっ!」
突然人混みから誰かに突き飛ばされて、ビルの壁に肩をぶつける。誰がやったかのか分からない。そのわずかに足を止めた私の背を誰かが蹴飛ばした。
膝を打ち付けて血が流れる。でも立ち止まってはダメだ。あの三人がまた追いかけてくるのを見て、私は裏路地のほうへ逃げ込んだ。
その裏路地には沢山の服屋さんがあった。道の先はL字に曲がり、そちらに逃げればハナちゃんから離れると思った私は、L字の隅にあったお店に飛び込み、二階まで駆け上がると二階の窓から出て、その奥のビルへと飛び移ろうと考えた。
ベランダになった二階部分から、隣のビルにあった非常階段の手摺りに手を伸ばす。もう少し……あと少しで手が届きそうになると。
ガンッ。
中身の入ったままの缶珈琲が私の額に当たり、私はバランスを崩して向こう側に落ちていった。
「……ぅ、く、」
二階から一階の地面に背中から落ちた私は、少しの間、息が出来なくなった。
「ひっく…」
泣きそうになるのを堪えて立ち上がる。右目に何かが入って乱暴に拭うと額からも血が流れていた。
頭が……ふらふらする。でも、しゃがんだらダメ。泣いたらダメ。立ち止まったら、ハナちゃんを助けられなくなる。
誰も居ない裏道を血塗れの私がふらつきながら歩いていると――
ドンッ。
「きゃっ!」
また誰かから突き飛ばされて私が転がると、複数の手が私の髪や腕を掴んで私を引きずり、近くにあった車庫らしき場所に連れ込まれた。
あの大学生三人組……。それどころか同じような年頃の人達が10人ほど集まり、歪な笑みで私を見下ろしながら近づいて来る。
「きゃあああああああああああっ!」
数人がかりで押さえ込まれ、制服の胸元が引き裂かれ、悲鳴をあげた私の首を複数の手が強く締め上げる。
――――私、ここで死ぬの? 私が何をしたというの?
ごめんね……ハナちゃん。助けたかったけど……。お願い……死なないで。
こんなの――――嫌だ。
こんなの間違ってる。こんな世界、狂ってるっ! 私もハナちゃんも、ただ生きていただけなのに。
誰か……誰か、ハナちゃんを助けてっ!
ああ……また助けられなかった。……また救えなかった。
こんな世界、嫌いだ。
許せない。絶対に許さない。“あの人”を傷つける全てを、許さないっ!!
《―――――――そうだ―――――――》
どこからか……心の奥底から響くような【声】が聞こえた。
《―――――――解放しろ―――――――》
《―――――――掴み取れ―――――――》
《――――お前の強さは―――――その怒りの中にある――――――》
私の目の前の世界が銀色に染まり、近くでキリキリ…と、ノコギリの刃が鳴る音が聞こえた気がした。
***
「くるよ、くるよっ!」
「巫女様っ!?」
東京の地下深く、古い洋館風の建物で、一人の幼い少女――巫女が“何か”に怯えるように激しく泣き叫んでいた。
何が来るというのか? 何を恐れているのか? ただ怖い夢を見たというレベルではなく、あまりにも激しい狂乱ぶりに、お付きの女性達はただ巫女を抱きしめることしか出来ず、混乱していった。
「くるよっ!!!」
思いのほか長くなりましたが、後編は本日中に更新します。
次回、後編。
惨殺ホラーシーンが入りますのでご注意ください。