02 菜の花 ②
本日二話目になります。
繁華街の人混みを縫うように、走りにくいアオザイで荷物を抱えたまま私は走る。
私の見た目は十二~三歳の細身の身体だけど、伊達に子供一人で危険地域や紛争地帯を旅してきた訳でなく、どんな状況でも即座に全力疾走することが出来た。
自慢じゃないけど、深い森の中を二頭の猟犬と一晩中追いかけっこして逃げ切ったこともある。……本気で死ぬかと思ったけど。
だから逃げ足だけは絶大な自信がある。……なのに、
「まだ追ってくるっ!?」
あの“青年”が追いかけてくる。
背後から追いかけてくる彼の気配をひしひしと感じることが出来た。
この三年の旅で、死ぬような思いは何度か経験したけど、もはや隠そうともしない、明確に自分だけに向けられた骨に染みこむような薄ら寒い【殺気】に混乱する。
「なんでなんでっ!? 何で追いかけてくるの!? 誰かと間違えているの!? タイの賭けポーカーで身ぐるみ剥いだおっちゃんの手の者かっ!」
いや、あれは私は悪くないもんっ!
そんなことより、どうして猟犬から逃げ切れる私の脚力に付いてこれるのっ!?
「…………ふぅ」
ひとしきり混乱して、ちょっと落ち着いた。
そして思い出した。私の目的……それは“自分”を見つけること。そして“生き抜く”ことだ。
だから私は、自分に向けられる明確な“殺意”と、逃げ切れないかも知れない今のこの状況に、“生きる”ことに躊躇しない覚悟を決めた。
私は今までの旅の思い出が詰まった荷物を躊躇無く投げ捨て、走りにくいアオザイの裾を裂く。
体力配分は考えない。身体に掛かる負担も気にしない。他人に掛かる迷惑さえも考慮しない本気の全力疾走。
「生き残りさえすれば……私の勝ちだっ!」
元から戦う力なんて無いし、それどころか何も持っていない。
何も持ってない者の強みは、どんな状況でも、全てを失ったとしても、生きてさえいればそれで勝ちなのだ。
私は人通りの多い繁華街を離れて、入り組んだ裏道や路地を選んで通り抜けると、人気の少ない住宅地へと迷い込む。
「塀が高いなぁ……」
のんびりしているように見えるけど現在全力疾走中。さすがに息が切れてきたけど、ここら辺は高級住宅地なのかやたら塀が高くて乗り越えられそうにない。
「……あれ?」
どんなに引き離そうとしても、一定の距離を置いて後を追ってくる青年の気配が徐々に横にずれ始めた。
私の位置を見失っている? もしかして諦めてくれたのかな?
普通に人間では私の脚力に付いてはこれない。
私は普通じゃない。この【瞳】のことを差し引いても、自分が普通の人間とは思えないことが出来る。
私の【瞳】で視える【真実】とは、その存在の“在り方”である。
“在り方”とは存在する理由であり、それは“存在感”として感じることが出来る。
程度の差はあっても、なんとなく『存在感』を感じることは出来るでしょ?
存在感のある人は、人の注目を集めて、人から想いを引き寄せる。
他人に想われて『認識』されること人や物は存在感は増し、さらに人々の想いを引き寄せる。
スポーツ選手は人々からの声援を受けて記録を伸ばす。
芸術家は他人から認められることで素晴らしい作品を作り出す。
有名な映画俳優は常に誰かの視線を集め、さらに光り輝いていく。
他人から認識され想われることは、その人の【力】となる。
もしその【力】を認識して、意図的に使えるとしたら……?
私の【瞳】は、その【力】の存在と使い方を教えてくれた。私はその力を意図的に身体に上乗せすることで、一時的に高い身体能力を得ることが出来た。
私が彼に注目し、危険だと感じたのは、彼の“存在感”が強すぎたせいだ。だから私と同じように、ある程度離れても私の“存在感”を感じることが出来るのではないかと思っていたけど、気のせいだったかな?
「……ん?」
青年の気配――存在感がまた強くなった。
また追ってくる? やっぱり私の存在感を感じられるの? だったら、どうして途中で横に逸れたの?
「それどころじゃないっ」
また私は逃走を再開する。あれ? さっきよりも距離が近づいている? もしかして近道を使われたのか。うわ、本格的にピンチっ!
気のせいか、青年の殺気が背中に感じられるような気がする。青年が私と同じように【力】を身体に上乗せする方法を知っていたら、脚力だけでは逃げ切れないかも。
でも諦めない。
まだ身体は動く。諦めも絶望もしない。
「小難しいことは死んでから考えるっ!」
とは言え、このままではジリ貧だ。さっきよりも確実に距離を詰められてる。
こんな高級住宅地だと、発展途上国の貧民街のように開いている窓から勝手に侵入して逃走経路に使うような真似は出来ない。
さてどうしようかと考えながら走っていると、自分が走っている道の先が高い塀に阻まれた袋小路だと気付いた。
……もしかして、誘導された?
あの横に逸れたのはこのためだったのか……。青年はこの辺りの地理を把握し、ここに私を追い込みたかったみたい。……そこまで恨まれる覚えはないんだけど。
でも今更引き返せない。引き返したら確実に青年に捕まる。
「……あはは」
思わず乾いた笑いが漏れる。
でも諦めるもんかっ! 周囲は高い塀に囲まれ、突き当たりの道はコンクリートのような壁で塞がれている。
私は袋小路の奥へ向かって走りながら、残り少ない体力が削られるのを承知で【瞳】の力を使った。
…………………っ!
いや、『鉄鉱石を掘るブラジルのおっちゃんの良い笑顔』が見たい訳じゃない。……良し視えてきた。
炭水化物……樹脂……石灰……亜鉛……鉄……
私が視たのは突き当たりの壁。あの壁は住宅の塀じゃなく後から建てられた物で、鉄骨にコンクリートパネルが横張りされている物だった。
パネルなら……必ず繋ぎ目が存在する。
私はその壁に向けて、さらに速度を上げて突っ走る。この速度で突っ込んでも壁を壊すどころか私が瀕死になりそうだけど、私が突っ込む理由は壊す為じゃない。
「ていっ!」
ガッ、と私は速度を保ったままミュールの爪先をパネルの繋ぎ目の隙間に叩きつけ、その勢いのまま壁を駆け上がり、途中で上の繋ぎ目に指を掛けて、全身のバネを使って4メートルの壁を乗り越えた。
やった……やったよ! 成功しましたっ!
勢い余って壁の上に飛び上がっちゃったけど、私は空中で前転するように逆さまになってようやく背後を振り返る。
「……あっ」
そこでようやく追いついたらしい青年と目が合った。
壁を乗り越える私の姿に青年は一瞬目を見開き、その後で静かに目を細める。
………あれ?
何か随分と色々考えているけど、なかなか私の身体が向こう側に落ちない。
私の目の前で、私の汗がゆっくりと宙を舞っている。……もしかして意識が加速している? 事故等の“危険”に遭った瞬間、走馬灯のように景色がゆっくりに見えることがあるらしいけど……。
青年がゆっくりと――多分、とんでもない速さで右手をハーフコートの内側に入れ、抜き出したその手には、鉄色の棒のような物が握られていた。
私は……それが何か知っている。危険地帯や紛争地帯でも見たことがある。
ドォオオオオオンッ!!!
雷のような轟音が響き、その瞬間、私の身体が吹き飛ばされた。
……あ、これ死んだ。
衝撃が胸元から背中へと突き抜け、空中で大量の血と肉片が撒き散らされる。
身体が四散しないだけマシかも。【力】で強化していなかったら、私の小さい身体なんて粉々になっていたかもしれない。
……狙撃銃にも使えるような、狩猟用の大型ライフル。
でも……結果は一緒か。即死してないことが不思議なくらい、この傷では私は助からない。
壁の向こう側に落ちながら私は空を見上げ、血飛沫に赤く染まる視界が徐々に暗くなっていく中で、私は最後に想う。
私の人生、ここで終わりっ!?
次回タイトル 『 椿 』