01 菜の花 ①
もう一人の主人公です。時代は現代になります。
三年前……西欧にある、とある小さな田舎町の昼下がり。
誰も居ない、一面に広がる菜の花畑の丘の上。
柔らかな日差しの中をそよ風が吹いて……
その【少女】は唐突に、この世界に出現した。
少女は隠れていたのでも空から落ちてきたのでもない。何も無い【無】から、少女は唐突なまでにこの世界に生み出された。
簡素な作りの生成りのワンピースだけを纏った、まだ十歳ほどの素足の女の子。
黒水晶のような艶やかな黒髪を風に靡かせながら、そっと静かに開いた緋色の瞳が、周囲の菜の花畑を炎のように映して……
ぐぐぅ~~~~~~~~~~~~~~~~~~……
雰囲気を台無しにする腹の虫に、少女は今初めて空腹だったことに気付いてお腹を押さえながら、不思議そうに自分の小さな手足を見つめた。
その緋色の瞳が何かを捜すように辺りを見回し、丘の向こうに見える小さな田舎町を見つけて、嬉しそうに両手を挙げた。
「ごはんだっ」
少女の瞳に不安の色はない。
少女には何も無い。自分の名前さえも知らない。
少女はこの世界に生まれ落ちた瞬間から、自分が“独り”だと知っていた。
けれど、言葉や常識などの必要最低限の知識は、初めから“知って”いた。周りの状況もその知識も“今”知った。
少女は自分の緋色の瞳でジッと見つめるだけで、モノの【本質】を【視る】ことが出来ると、産まれた赤子が自然と泣き出すようにそれを知り、遠くに見える町の騒ぎが、“収穫祭”であることも視ただけで理解した。
自分が“誰”か、自分でも分からない。
迷子でも記憶喪失でもなく、自分を知っている人はこの世界に誰も居ないことを少女は理解していた。
それでも素足のまま軽い足取りで町へと向かう少女の顔に不安や悲壮感はなく、それどころか、その瞳は活き活きとして笑顔さえ浮かんでいる。
それは少女自身の性格もあるのだろうが、まるで慣れているかのような奇妙な前向きさは、少女に普通の子供とは違った行動を取らせた。
“生きる”ことへの貪欲なまでの渇望。
それ故に少女は……
「おじさん、お肉と野菜焼いたの、おかわりっ」
「嬢ちゃん、良い食いっぷりだなぁ。こっちの腸詰めも美味いぞっ」
何気ない顔で祭りの中に混ざり、適当にお喋りをしながらモリモリとタダ飯を食らっている少女を、大人達は『どこの家の子だろう……?』と思いながらも、その食べっぷりに喜び、料理を振る舞っていた。
「だって美味しいんだもん。この野菜も甘いねぇ」
「おおっ、うちで取れた野菜だ、美味いだろっ」
「おやまあ可愛い子だねっ、うちの麦で作ったパンも食べなさい」
「うちのチーズも美味いぞっ、食ってみな」
可愛らしい見た目でニコニコと好き嫌いなく頬張る少女に、お酒の入った大人達が次々と声を掛けた。
あっさりとした服装の少女に、女性達が自分の家から程度の良いお古を持ち寄り、少女を着せ替え人形にして、服や物を与えていった。
その後も率先して料理の片付けなどをして手伝う少女に、気を良くしてお小遣いをあげていた老婦人が、少女に名前を尋ねると。
「……えっとぉ」
少女は自分にいつまでも名前がないことを不便に感じて、こう答える。
「あの丘に咲く、黄色い“花”と同じ名前だよ」
その“花”を意味する“言葉”が、少女が選んだ自分の“名前”。
その“名前”だけを持って、少女は独り旅に出る。
旅に必要な物はすべて、優しい町の人から貰った。
「自分のことが分からないのなら、それを捜せばいいじゃない」
そんな短絡的な発想だったが、ジッとしていても何も得られないと、少女は本能的に気付いていたのかも知れない。
出発は、西欧にある小さな田舎町。
旅の目的は“自分”を知ること。知らない“何か”を見つけること。
これから様々な国を渡る、本当の意味での“自分探し”の旅。
持っているモノは自分の“名前”だけ。
それから三年が経ち……
色々な国で少女はその国の言語で自分の名を名乗り、これから向かうその国で、彼女は“菜の花”と名乗ることになる。
***
見上げると目眩がするほどの高く青い空……。潮の匂いと波の音に顔を向けると、見渡す限りの青い海原が広がっていた。
「おーい、ハナちゃーんっ。あまり端っこにいると落ちるよーっ」
「はーい」
船縁でボーッとしていた私に船員のおじさんが声を掛けて、私は返事をしながらにこやかに手を振った。
あ、そうそう、ハナちゃんとは私のことです。
自己紹介の時に日本語で“菜の花”と名乗ったら、“菜の花ちゃん”はなげぇ、と理不尽なことを言われまして“ハナちゃん”呼びが定着してしまいました。
うん。なんとなく可愛くて良いかもしれない。
それとお察しの通り、私は現在、海の上……大きなお船に乗っております。
運良く船乗りさんと知り合えて良かったぁ。
ベトナムの宿屋の女将さんが、いわゆる船長さんの現地の奥さん的な人だったらしくて、台湾行きの船を紹介してくれたんですよぉ。
…………………。
うん。現実逃避は止めよう。
現在の私は台湾行きの船ではなくて、日本国籍の貨物船に乗っている。
何故こうなったのかと申しますと、そんなに深くもない訳と色々な偶然が起きたせいだと思っておりますです。
まず私はこの三年間、一人旅を続けてきました。
10歳の子供が一人旅なんて無理だと思うかも知れませんが、覚悟さえ決めれば意外と何とかなっちゃうんですよ。
木の上で野宿もしたし、川で水浴びしながら洗濯もした。
どうしようもなくお腹が空いて、畑から失敬したジャガイモを生で食べてお腹を痛くしたのも、今から思うと良い思い出です。……農家のおじさん、ごめんなさい。
それと子供一人だと、結構家に泊めてくれる人がいる。
たま~に、監禁されそうになったり、売り飛ばされそうになったりもしたけど、私は元気です。
西欧から東欧に入り、偶に紛争地帯も抜けて、東南アジアに入り、三年掛けてベトナムまで辿り着いた。
この旅で何が大変かと言うと、国境を越えることだった。
何しろ私には【戸籍】もなければ【国籍】もない。したがってパスポートも無いので100%不法入国です。
東欧で夜中にこっそり国境を渡ろうとしたら、威嚇射撃とかもされましたよ。
こんな生活をしているとごく稀に、あの時、迷子の記憶喪失の振りをしていれば、どっかの施設とかには入れて、戸籍と屋根と壁を得られたかもなぁ……なんて思わなくもない。
えっと……話が逸れた。
私が日本の船に乗っている理由なんですが、パスポートも無い私が日本の船なんかに乗れる訳ありません。
ベトナムから乗ったのは、台湾に向かう大型客船で、ちゃんと私はコンテナの中に入って大人しく密航していました。
ベトナムと台湾は直線距離ならそこそこ近いのですけど、これは客船なのでぐるりと東回りでパラオやフィリピンにも寄っちゃうコースだった。
かなりの長旅になりそうで、途中の港で降りようかと何度も思ったんだけど、頑張って乗っていたら海賊に襲われた。
……今時でも、居るとことには居るんですね、海賊。
とは言っても骸骨の旗を掲げていたりする訳じゃなくて、普通に某国の武装漁船とかだったりしたんですが、そんな問題にはならなかった。
問題にならなかったことが問題だった。
あっさりと近くの国から海軍か海上警備隊が駆けつけて、あっさり蹴散らしてくれたんだけど、ついでに船の中を調査するとか言い始めやがった。
まぁ、普通は困らない。
困るのは、こっそり密輸しようとしていた船員と、密航者の私くらいです。
そこで私は考えた。時間は夜。海賊騒ぎで慌てた船員が救命ボートを降ろす準備をしていた。そうなると答えは一つ。
ちなみに、その解答は不正解だった。
一人救命ボートで、持ち込んだ保存食を囓りつつ、海に漂流する私。
行き当たりばったりの計画性ゼロな性格が、こんな所で自分を追い込むことになろうとは……と、無駄に長くなった髪の毛で魚釣りでも出来ないかと、のんびり後悔していた時、神様は私を見放していないのだと気付いた。
近づいてくる大型貨物船。あっさりと保護される私。
訝しげに、何故漂流している? 保護者はどうしたのか尋ねる船長さんに、私は、
『えっと…、パパに会いに行くのっ!』
と日本語で話して、日本名で名乗ったら、あっさり誤解してくれた。
私の顔立ちが無国籍っぽいのも誤解された要因だと思う。それと日本がネイティブ並に話せたのも大きい。大抵の国の言語は、【瞳】で視ただけで理解できるから、この力ってとっても便利。
要するに船員さん達は、日本人がどこかの外国で子供を作り、その子がお父さんに会いに海に出て遭難したのだと思ってくれたらしい。
私が不安になるほどお人好しが国民性なのか、船員のおじさんが、若いのに苦労したんだね……と、涙ぐんで詳しいことは聞かないでくれたのです。
……わ、私は悪くないもん。
ちょっと心が痛いだけです。
そんな思い違いと言うか心のすれ違いがあって、私は日本の船に乗っているのです。
毎日出てくるご飯が美味しい。毎日温かいお風呂に入れるの幸せ。
何かお手伝いしようかと申し出てみても、やんわりと断られてお客様扱いされたあげくに、お菓子まで貰っちゃった。
今までの旅のことを思い出すと……
「……日本って平和な国なんだなぁ」
その時、何かを知らせるような汽笛が鳴り響き、船首のほうから『見えてきたぞ~』って声が聞こえてきた。
甲板に出ていた人達が船首に向かい、私もそこに向かうと船員のお兄さんが良く見える場所を譲ってくれる。
ずっと遠くに見える黒い線。あれが……
「日本……」
これから向かう国。私が次に降り立つ場所。
*
「何か困ったことがあったら連絡しなさい」
「は、はいっ」
日本に到着してさあ上陸だっ、と思ったら、船長さんに呼び止められて貨物室にあった自動車に乗せられ、どこかの建物に入ったら地下に降りて長い通路を歩いて、若干不安になってきた頃、気がついたらお日様の下に出ていました。
なんか簡単に(密)入国出来ちゃいましたっ。
最悪は日本の土を踏む前に警察に引き渡される可能性も考えていたんだけど、もしかしたら船長さんは最初から全部分かっていて連れてきてくれたのかも。
「………良いのかなぁ」
凄く嬉しいけど、私のせいで船長さんが困ったことにならないと良いなぁ。ちょっと真面目にお祈りしておこう。特に神様は信じていないけど。
船長さんから最後に渡された封筒の中を見てみると、大きなお札が数枚入っていた。
思わず船長さんの居た方角を拝んでから、私は背を向けて歩き出す。
船長さんは心配だけど、まずは自分のことを心配しないといけない。簡単に言うと、今夜の宿とご飯の確保。これはどこに国に着いても最初にすることは変わらない。
「それと……」
私は荷物の中から一冊の小さな本を取り出して眺める。
旅の目的は“自分探し”ではあるんだけど、途中から旅の目的が一つ増えていた。
この本はルーマニアで一晩泊めてくれた親切なお婆ちゃんから貰った本で、半分以上は白紙だったけど、色々な国の言葉で様々な国の物語が書かれていた。
きっと見知らぬ誰かから、知らない誰かに引き継がれて、書き足されてきた手書きの本。私の【瞳】でも著者が誰かは視えなかったけど、私もこの本に何かを書いてみたくなった。
「この国では、どんな物語が拾えるかなぁ」
*
日本上陸して、二日目にして試練に突入。
「しょっぱいなぁ……」
街路樹の根元に座り込んで、うらぶれたジャパニーズサラリーマンの如く極甘缶入り汁粉を飲みながら呟く私に、通行人が奇異の視線を向けていく。
昨日の経緯から説明すると、どこの国でもしたように住み込みが出来て給仕が出来る適当な飲食店なんかを探していたんだけど、片っ端から断られた。
どうやら住所不定の身元も不確かな子供は、この国では働けないみたいです。
なにやら“保護者”とらやが居ないと、働くどころかホテルにさえ泊まることも出来なくて、野宿でもするかと夜中の公園で肉まん食べていたら、通報されたようで警官がやってきた。
どうやら私の持っている“情報”は、現実より数十年も昔のものらしい。
私の【瞳】は、“視た”ものの【真実】を視る事が出来る。
視える【真実】とは、そのモノの【在り方】であり、その存在がその存在であるための【根本】である。
……とは言え、完璧ではない。
今回は【日本の貨物船】を“視た”時に、建造時である『数十年前の日本の常識』が流れ込んできたようで、そうかと想えば【木の椅子】を視ると、『木を切り倒す、木こりのおっちゃんの良い笑顔』が視えることもある。
めっちゃ安定しない。しかも、めっさ疲れる。
身体の中にある、何かしらの【力】が消費されるみたいで、小難しいモノを視ようとすると、立ち上がれなくなるほど疲れる場合があるのですよ。
まぁ、今はそれはいいとして。
「……どうしよ」
都会だからいけないのかな? 田舎に行けばまた違うのかも知れないけど、徒歩だとどのくらい掛かるかしら?
「……ん?」
これからどうしようかと考えていると、自分が周りから妙に視線を集めていることに気がついた。
……もしかして目立ってる?
まぁ、普通の人は木の根元に座ったりしないか。……と思って立ち上がってみたら、余計に注目された。
何故だろう……と考えて近くのお店の商品を見る振りして、ショーウィンドウを鏡代わりに全身を映してみる。
昨夜はお金を入れてボタンを押すだけで鍵が出てきて泊まれる便利な宿に泊まれたので、お風呂にも入れて髪もお肌もピッカピカ。
服もベトナムでおばちゃんから貰った真っ白なアオザイだし、ここはこの国でも外国人観光客が多い繁華街なので、私の黒水晶のような髪も、紅い瞳も目立たないはず。
うん。おかしな事は何も無いな。
なんか周囲から『コスプレ』とか『サツエイ』とかの単語が聞こえてくるけど、正直意味が分からない。
「あれ……?」
硝子に映る私を見つめる視線の中に、何か“違和感”を感じた。
誰かが明確な意志を持って私を見ている。
どこ…? 誰? その視線の瞳は、捜すまでもなく私の視界に飛び込んできた。硝子に映る道路の向こう側。そこから一人の男性が私を見つめていた。
なんだろ……普通の人とどこか違う。
日本人じゃない。……でも、どこの国の人かと聞かれても答えられない、人種さえも定かではない無国籍っぽい顔立ちの青年。
明るい色の髪。深い群青色の瞳。上着さえも脱いでいる人が多いこの暖かな陽気にハーフコートを纏ったその人は、周りの人達とは比べものにならないほど、【存在感】が違いすぎた。
「……ッ!?」
無意識に【瞳】で彼を“視て”しまった。
人間のような小難しい【物】を見ても、疲れるばかりでまともな情報が得られることは少ないから、私は他人に【瞳】の力を使わない。
以前一度だけ“自分”を視たことがあったけど、その時も立ち上がれなくなるほど疲れたのに何の情報も得られなかった。
それなのに私は、彼を“視て”しまった。
「っ!」
私は次の瞬間、全速力で駆け出していた。
やばい、やばいやばいやばいやばいっ! なんで、なんでなんでなんでなんでっ! 全身に冷水を掛けられたように悪寒がして私は全力で逃走を始めた。
視えたのは、表層心理のほんの少しだけ。
でも私は、彼の中に明確な【決意】のようなものと、あきらかに私だけに向けられた明確な【殺意】を感じた。
「ニッポンって平和な国じゃなかったのっ!?」