09 あなたは――誰?
この物語は、私の他作品の設定を一部流用しています。世界観の繋がりはありません。
ビュゥウ――――――ッ! と風の音が耳を過ぎる。
都心の高層ビル群を見下ろす、上空数百メートルの空の中、菜の花を取り戻した椿は重力に引かれて落下しながら、銀の瞳で睥睨するように辺りを見た。
伝説の殺戮鬼でも空を飛べる訳ではない。
徐々に速度を増すようにビルの間を斜めに落ちしていく椿は、気を失ったままの菜の花に鉄のリボンを巻き付けていった。
何重にも何重にも菜の花の姿が見えなくなるまで厳重に巻き付けると、椿は菜の花を抱きしめ、残した2本のリボンを高速で横切っていく周囲のビルに巻き付けた。
バキンッ! ビキンッ!
巻き付けた手摺りや枠が荷重に耐えられずにあっさり砕ける。
それでも椿は何度もリボンを繰り出して少しでも速度を抑えようとするが、あまり効果が無いと瞬時に判断した椿は、リボンを最大にまで硬化させ左右に放ち、ブレーキ代わりにビル群を斜めに切り払うようにして、最後に自分の身体をクッションにするように菜の花を包み、そのまま背の低いビルの屋上へと轟音を立てて突き刺さった。
***
東京の地下深くに広がる、とある“モノ”を祀った大空洞。
その存在をする者は日本の政財界、その中枢にある者に限定され、一般の人間は例えマスコミであろうと知る者は居ない。
戦前からあり、大正時代に整えられたその場所は、地下とは思えない当時の洋館風な豪華な装飾を保っていたが、そこに戻ってきた村雨は、場にそぐわない薄汚れた白衣の男に出迎えられた。
「やぁ、シクヴァルっ!」
「……この国では“村雨”だ。何事だ、ニコラス」
シクヴァル――ロシア語で、英語では『スコール』。日本語では『豪雨』または『村雨』とも言う。
村雨をそう呼んだその男――ニコラスは、村雨がかつての伝手を使い、オブザーバーとして日本に呼び寄せたロシアの神学者だった。
だがニコラスの研究は真っ当な神ではない。良く言えば世界の僻地に残る神々の研究となるが、ニコラスが研究しているのは、この世界には存在しないはずの“異界の神”なのだ。
「おっと、すまないね、ムラサメ。僕は人の名前を覚えるのが苦手でねっ。神様の名前だったら、“六大神”の名前だってすらすら言えるんだが――」
「無駄話で呼び止めたのか?」
機嫌が悪そうに村雨がやけに流暢な日本語を遮ると、ニコラスは軽く肩を竦める。
「えっと、なんだったかな? ああそうだっ、地下の存在は順調に目覚めはじめているよ。あれらを見てごらん」
「…………」
村雨の不機嫌さをまったく意に介さず、ニコラスはホールを掃除する一人の少女を指し示す。
「……彼女は?」
「見覚えがないだろう? それはそうさ。彼女は一週間ほど前に“供物”として捧げられた女の子だからね。それがもう動けるようになってる。しかも簡単な指示まで理解できる知性まで持ってるんだっ! 本当に“あの方”は素晴らしいねっ!」
「そうか……」
この地下で働いている人間は、村雨やニコラスのような協力者と、巫女やその周りを世話する厳選された職員のみで、その他に生きている人間は一人も居ない。
「素晴らしいよっ、ムラサメっ! 君の計画通り、三百年前に消えてしまった【時神】に代わる新たな六大神の一柱になれるかも知れないっ! そんな計画に関われるなんて、僕は本当に幸せ――」
「ニコラス」
興に乗って話していたニコラスの声が村雨の静かな一言で止まる。
「俺は、この国の繁栄の為に“あの方”の目覚めを促しているだけだ。余計なことは口にするな」
「……悪かったよ」
「間諜の類は入り込めないが、誤解されるような発言は止めろ」
「わかった。大いなる“六大神”にかけて、この話はしないと誓おうっ」
「……今は五大神だ」
「そうだったね。それじゃあ、神学者らしく公平に、僕は【黒髪の少女】に誓おうじゃないかっ! はははっ」
「…………」
反省の色も無く笑うニコラスに、村雨はさらに眉間の皺を強くする。
ニコラスのような異端の神学者達だけでなく、世界の各地には【黒髪の少女】と呼ばれる存在が残した“バイブル”が存在して尊ばれていた。
一般的な聖書のような神を讃えた経典ではなく、三千年前に記されたとされるその本には、重大な『神々の秘密』が記されているとされ、その内容を重要視しながらも、世界の首脳陣はけして信者達に知られてはいけないものとして、禁書として厳重に保管されている。
ニコラスのような神学者なら咽から手が出るほど欲する物だが、ニコラスはその一部を写本した物しか見たことがなく、歯がゆい思いをしている。
それほどまでに危険な代物なのだ。――神々が著者に呪いを掛けるほどに。
「あ、そうそう、思い出したよっ! 巫女サマがムラサメのことを呼んでたよっ」
「…………」
呆れたような憤るような微妙な気持ちで村雨が巫女の部屋に向かうと、巫女の世話係をしている女性が部屋の外で村雨を待っていた。
「ああ、お待ちしておりました、村雨様っ」
「巫女様がどう為された?」
「それが……突然、とても怯えられて。巫女様は村雨様をお呼びになっております」
「分かった」
村雨が小走りに部屋の中に入ると、泣いていたような巫女が素早く村雨を見つけて、駆け寄って抱きついてきた。
「ムラサメっ、ムラサメっ!」
「どうなさいました、巫女様」
怯えたように声を出す巫女に、村雨が優しくその背を叩く。
「あの子がおびえているっ! くる、って。アレが来るってっ!」
巫女には聞こえないはずの“声”が聞こえる。
複数の神職の家系から特に優れた者達の血を合わせて生まれた巫女は、生まれた時から地下にある存在の声を聴いて、慰める為だけにここに居る。
その巫女を不憫に思いながらも、そのような存在が生まれるように示唆してきた村雨は、深い親愛を持って巫女に接する。
「巫女様、その声はまだ聞こえますか?」
「……ううん。もう聞こえない」
泣いていた巫女がシュンとするように眉が八の字に下がる。
「その子は怯えて泣いていたのです。怖がる必要は無いのですよ。巫女様を頼られているのですから」
「ミコに……救えるか?」
「ええ、あなたなら大丈夫ですよ。それでも怖いのなら、私がやっつけてきましょう」
その村雨の言葉に巫女の顔が明るくなった。
「そうかっ、ムラサメはつよいなっ」
笑顔になった巫女を抱き直し、クッションには降ろさず村雨が抱いたままソファに腰を下ろす。
「怖い夢でも見ましたか?」
「うむ……怖い夢だった。でもかなしい夢だった。……ミコのところにも“椿切り姫”がくるか?」
「いいえ、椿切り姫は悪い子の所にしか来ませんよ。巫女様は良い子ですから」
「……ほんとうか?」
「ええ、本当ですとも」
「うん」
それでも不安げに抱きついてくる巫女を優しく撫でながら、村雨は誓うようにその言葉を口にする。
「もう、“椿切り姫”も“黒髪の少女”も現れませんから……二度と」
***
目が覚め――ル。ひカり――が眩シい。
わタしは、何を――してタ?
ガゴン……。何か…頭蓋骨が組み合わされたような音がして、私の意識が覚醒する。
「…ぐ…ぁ…」
声が出ない。全身に激痛が走る。見える空の雲が……右目と左目でズレて見える。
息が……苦しい。息が出来ない。息を吸おうとすると、全身の血が勢いよく身体中を駆け巡るのが分かり、潰れていた胸が膨らんで口から勢いよく血を吐き抱きだした。
「げふ、ごほっ」
全身が痛い。身体が動かない。ゴキッと頭の中で音がすると、右目と左目のズレがなくなった。
ギチ…ギチ…と、首の骨を合わせるように横を向くと、ひしゃげた鉄の扉と砕かれたコンクリートと大量の血があった。
そうだ……私は空から落ちて――
「ハナ…ちゃ…こふっ」
肺に溜まっていた血がまた口から溢れる。でもそれよりも――ハナちゃんは? 懸命に首を動かすと、少し離れていた場所にハナちゃんが倒れているのが見えた。
「…ハ…ナ…」
彼女に手を伸ばそうとして私は自分の腕が折れているのに気付く。
折れてるなんて生やさしくない。骨が砕けている。指も無事な部分がほとんどない。でも――その腕に血が流れ込むような感覚がすると、ひしゃげていた筋肉が膨らみ、折れた骨を正常な位置に戻していく。
身体が――勝手に修復されていく。不気味なほどの早さで。
多分、さっきまでは本当に頭蓋骨がズレて、肺も潰れていた。
あの高さから人を抱えて落ちたのに死ぬこともなく、それどころか身体が元の状態に戻ろうと足掻いている。
私は――なんなの? さっきまでの事は、まるで夢の中にいたようにハッキリとしないけど、それでも人を殺していたような記憶があった。
私は何者なのか?――それを思い出そうとすると、誰かが止めろと、遙か昔に聴いた優しい声がそれを止める。
「くっ、はっ」
私が全身に力を込めて身体を起こすと、全身から血が噴き出した。
それと同時に血と筋肉が傷を塞ごうと震え、立ち上がろうとして付いた腕の関節が砕けて、また修復されていく。
それでも私はじっとしていられなかった。ハナちゃんの無事を確かめたかった。
ハナちゃん――菜の花。あなたがいないのなら私が生きている意味が無い。
治りきっていない脚がまた折れて、私は這いずるようにハナちゃんに近づく。
まだ彼女は倒れたまま動かない。見た目は怪我一つしていないけど、私はそれを確かめるまで止まらない。
あと三メートル。少しの距離が、手を伸ばしても届かない空のように遠い。
目が霞む。血を流しすぎている。
もう少しなのに……。
「ハナ…ちゃん…」
その瞬間、ハナちゃんの姿が消えた。
「……ぇ」
ううん、消えたんじゃない。彼女はいつの間にか立ち上がり、私を側からそっと見下ろしていた。
夜空のように煌めく黒髪がふわりと風に靡き、仄かに輝くような紅い瞳が慈愛に満ちて優しくを私を映す。
本当にハナちゃんなの……? まるで別人のような大人びた笑みを浮かべて、そっと私の前に膝を付いた彼女は、静かに私の頬に両手を添えて――
ふっ、と私の血塗れの額に唇で触れた。
「っ!?」
膨大な力の奔流が暴風のように荒れると、私の身体が……破れた制服も切られた髪も傷一つ無く元の状態に戻っていた。
「ハナちゃんっ!」
ふらりと倒れるハナちゃんを私が咄嗟に受け止めると、少し青い顔をした彼女はまた気を失って私の腕の中で静かに眠っていた。
「…………」
あなたは――“何者”なの?
区切りがいいので今回はここまでです。
少しずつ物語内で情報が開示されていきます。




