2部第3話
豪勢な坂東邸に着くと、門の脇にあるピンポンを押してスピーカーからの応答を待った。実家にいたときにはなかった行動で、僕もずいぶん東京に馴染んだものだと感慨に耽る。
向こうじゃ玄関のドアを開けてから中に向かって「おばちゃーん!」と叫ぶのが常識だ。それがこちらでは非常識になるのだと教えてくれたのは友人だった。彼のアパートのドアを開けて呼ぼうとしたら、そこには青汁を飲む素っ裸の友人がいた。懇々と説教されたっけ。
『よォ、樹! 久しぶりだな。入って来いよ』
僕が名乗る前に、明るい声がピンポンのスピーカーから聞こえた。紫苑さんと同じ声だけど、この口調と雰囲気は蘇芳さんだ。どうやらこのピンポンにはカメラまでついているらしく、あまりのハイテクさに最初はすごく驚いた。実は今もときどきぎょっとしてる。
玄関のドアに近寄ると、向こうから開いた。蘇芳さんが開けてくれたのだ。
「お久しぶりです、蘇芳さん」
「ああ、久しぶり。さっき紫苑が鼻血垂れ流して帰って来たぜ。なんかあったか?」
にやにやしながら聞いてきた。やっぱり紫苑さんは帰ってきていたようだ。
「それがよくわからないんですが、もしかしたら電信柱に鼻をぶつけたのかもしれません」
さっきの出来事やメールの内容を話すと、蘇芳さんは世紀の美貌とまで言われるほどの顔をぐちゃぐちゃに歪めて爆笑した。
「ぎゃはははははっ 紫苑ちょーキモッ! ちょーウゼー!」
双子の弟をとことんこき下ろした。どうしてそうなるのか理解できない。
「別にキモくもうざくもないですけど。紫苑さん大丈夫なんですか」
「大丈夫! 鼻から赤い変態汁が出ただけだ!」
変態汁?
「それはなにか病気なんですか」
「ぎゃははははっ、病気!」
真剣に心配になって問い詰めると、蘇芳さんは壁にへばりついてばんばん叩きながら笑い崩れた。むしろ蘇芳さんの方が病気かもしれない。
「うるさい、蘇芳!」
笑いの発作が止まらない蘇芳さんの背中に、鍋のフタが投げ付けられた。投げたのはおたまを構えた紫苑さんだ。その両鼻にティッシュが詰められている。
「痛ぇ! なにすんだ、キモ男が!」
「うるさいからうるさいと言ったのである! 下品、下劣、AV男優!」
「いつになく強気じゃねぇか! メールに興奮して鼻血出すような変態がよォ!」
その言葉に反応したのか、突然紫苑さんが奇声を発した。
「うひゃひゃひゃひゃッ メール! あのメールは永久保存でありますぞォ!! マイスウィートエンジェルちゃぁぁぁん!」
自分の体を抱きしめて叫ぶ。大変元気だ。大丈夫そうかな。
「紫苑さん、具合はどうですか」
尋ねると、紫苑さんの動きが自分を抱きしめたままぴたりと固まった。機械のようにギギギと顔が上がり、視線が僕を捉える。
「……た、樹」
「はい」
どうやら僕の存在に気付いていなかったらしい。へぇ。紫苑さんて、僕が見ていないときは蘇芳さんとこんな言い合いするんだ。いつもは蘇芳さんに言われ放題みたいな感じだけど。そんな紫苑さんも新鮮で、嬉しくなった。
再び錆びたブリキのオモチャみたいに今度は蘇芳さんを見る。
「蘇芳。キサマ、あの女が来たと言ったのは嘘なりか」
「うん。嘘。来たのはそこの樹くんだよ。唯子が来るのはもうちょっと後」
蘇芳さんは、どうやら僕が押したピンポンの音を、蘇芳さんのマネージャーである嘉瀬唯子さんであると紫苑さんに偽って伝えたようだ。どうしてそんなことをしたのかわからないけど。
紫苑さんの凍てついた顔での詰問に、にっこり愛嬌たっぷり答えた。メディアでは見られない坂東蘇芳の顔だ。蘇芳さんはこういう顔の方が生き生きしていて魅力的だと個人的には思う。
しん、と静まる玄関先。いったいなんの沈黙なんだろう。わからないけれど、それを破る勇気はちょっと僕にはない。
沈黙を破ったのは、紫苑さんの絶叫だった。
「う、嘘でありますッ 冗談でありますッ メールを保存なんてそんな馬鹿な、あははははッ すぐに削除するでありますぞォッ!」
「え。いや、別に削除しなくてもいいんじゃないですか。なんのメールかわかりませんが、大事なメールなら保存しておいた方がいいと思いますけど」
「い、いいのでありますかッ!?」
ものすごい勢いで聞かれ、とりあえず頷いてみた。え、だってメールでしょ。いい、んだよね。表情がぱあぁぁぁと明るくなる紫苑さんに、よしとすることにした。
「樹が変態に優しくてよかったなぁ。じゃ紫苑、メシにしよう、メシ! マジでそろそろ唯子が来る」
そう無理矢理まとめ、どこか別の世界に飛んでしまっている紫苑さんの背中を押してダイニングの中に押し込む。その後ろ手で僕に「こいこい」と手招きした。




