2部第2話
居酒屋でのバイトが終わり店を出ると、電信柱の陰に人影がある。
深く被ったニットの帽子に歯科医のような大きなマスク、黒縁のめがね。今日も見守ってくれている。
僕が店を出ても、彼は決して近寄って来てくれない。どうせ同じ場所に、彼の家に行くのだから、一緒に歩いて行きたいのだけど、彼が頑として受け入れてくれないのだ。僕が近寄ると、彼は人間離れした驚異の運動能力で逃走する。
なので、店を出て僕が一番にすることは、彼に携帯でメールを打つことだ。
『To:紫苑さん
Sub:今日もお疲れ様です。
本文:いつも待っててくれてありがとうございます。今日もお弁当おいしかったです。一緒に食べた友人に羨ましがられました。ありがとうございます。』
送信。
僕はあまり絵文字や顔文字を使わない。というか、僕の携帯は古すぎてほとんど絵文字や顔文字なんてないのだ。
対する紫苑さんは絵文字が得意らしい。打つのも得意らしく、すぐに返信がくる。
『From:紫苑さん
Sub:お疲れ様=です===
本文:樹を待っている=は全然=待っている長さなんて感じません==
=喜んでもらえて=です==
それにしても樹と=を一緒に食べるなんて、そのお友達が羨ましい===』
おそらく絵文字の嵐なんだろうなぁ、とはわかる。けれど、僕の携帯には暗号解読機能がついていないので、せっかくの紫苑さんからのメールは「=」だらけになる。
こうなってしまうことを本当は教えた方がいいのだろうけど、こんなに一生懸命絵文字を入れてくれるひとに使うなとは言い出し難かった。
よって、僕は前後の文脈から絵文字を推測する。
語尾の「=」はあんまり気にしない。問題は文中に入り込んだ、絵文字化した言葉の意味だ。目的語に絵文字が入っているとなかなか大変になる。今回はそこそこ意味がわかったからよかった。
『To:紫苑さん
Sub:ご飯
本文:それなら一緒に食べましょう。』
返信は神速だった。
『From:紫苑さん
Sub:Re:
本文:====』
う。本文全部が絵文字ときたか。これじゃ返事がわからないな。
振り返って離れて後を付いてくる紫苑さんを見れば、遠くの電信柱の陰で首を全力で横に振っていた。言葉をつけると、『ダメダメダメ!』というところか。むぅ。このデレガンめ。
紫苑さんはプロ級の料理の腕を、惜しみなく僕に使ってくれる。昼はお弁当、夜は温かい食事を作ってくれて、泊まった日の翌日には必ず朝ごはんまでお世話になっている。
食べさせてくれるが、その食卓に紫苑さんが一緒にいたことは一度もない。いつでも逃走できるところ、たいていダイニングの入口で、双眼鏡を構えて食事をする僕を見ている。ときには写真を撮りながら。さながら野鳥の気分を味わえる。
『To:紫苑さん
Sub:残念
本文:すぐ近くにいるのに一緒にご飯が食べられないのは悲しいです。僕と一緒に食べるのは嫌ですか。大好きな紫苑さんと一緒に食べたら、もっともっとご飯がおいしいのに。』
送信して数秒の後、背後5メートル強のところから奇声が聞こえた。ぎょっとして振り返れば、電信柱にしがみついて紫苑さんが悶えていた。
もしかして具合が悪いのか、と近寄ろうとしたら、悶えながら瞬時に逃走モーションに入った。前々から思っていたけど、どういう運動神経してるんだろう。
「紫苑さん! そっちに行っていいですか!」
離れているので、ちょっと大きめの声で許可を求めた。
「死にまするッ 来たら我輩死にまするッ!」
そんな元気に叫ばれると死にそうには見えないんだけど。
と思ったのだけど、よく見れば紫苑さんの足元にポタリポタリと赤い雫が落ちている。どうやら鼻からの出血のようだ。
もしかして、電信柱にぶつけたんじゃ。
「鼻血大丈夫ですか?」
今度は躊躇うことなく慌てて近寄ると。
「た、た、た、樹ッ ぎゃあぁぁぁぁぁッ」
近寄る僕の脇を光のように走り去った。
そんな殺人鬼にでも遭ったかのような絶叫をしなくても。
呆然とした後、叫びっぷりがおもしろくて、気付けば吹き出していた。
おそらくあのまま自宅まで駆け抜けて行くだろうから、彼の家に行けば会えるだろう。ただひとつ心配なのは、あの出血で走って大丈夫なのかということ。
紫苑さんが駆けて行った後のコンクリートの地面を見れば、等間隔で点々と血痕が落ちていた。ちょっと事件性を疑うような出来映えだ。通報されたら嫌だな。
肩掛けのカバンには、飲み残しのペットボトルのお茶が入っている。とりあえず血痕の上にペットボトルのお茶を掛け、血痕を薄めながら後を追った。