【競演】 路面電車と花の町
かつて、この町には小さな路面電車が走っていました。
注 あくまでもフィクションです。史実・事実と異なる部分が多いです。ご容赦ください。
出発の汽笛が鳴った。
ぼくは帽子の下の耳を澄ませて、懐かしい音に聞き入った。
花巻駅の一番線ホームには大勢のお見送り人と写真機を携えた人々でごった返している。
歓声と鉄の塊がゆっくりと動き出す音がして、蒸気機関車は釜石を目指して走り出してゆく。
風の中に、石炭の燃える匂いを感じながら薄荷色の跨線橋の欄干から飛び降りると、そのままゆるやかな坂道をくだっていく。すぐに古めかしい瓦屋根が左手に見えてくる。
木造二階建ての建物と公園、それに雨よけのついた大きな金網。
材木町公園。
移築された昭和の初めに建てられた旧町役場と滑り台やブランコといった最小限の遊具に、一台だけのバスケットゴール。公園の周りを桜の木がぐるりと囲み、芝生が緑に光っている。
石のベンチに座る年輩の女性は、編み物をする鍵ばりを動かしながら、小さく歌をくちずさんでいる。ほかには幼い子を連れた母子が何組か。ボール遊びをしたりジャングルジムのまわりで鬼ごっこをしたりしている。
髪を頭のてっぺんで結った小さな女の子が、ぼくを不思議そうにじっと見ている。
ぼくの格好が珍しかったのかな。こんなにいい天気なのに、黒い帽子と黒いマントなんか着てるから。
でも、ほくが笑って手をふると、にこっと笑い返して母親のところへ走っていった。
見渡すと、土曜日の午前とは思えないほど静かさだ。
町の中心地にも近いのに。ここは市の再開発から取り残されたようで、昔どおりのたたずまいだ。
ぼくは芝生のうえをゆっくりと歩いて、金網の前に行った。
大きな鳥かごのような鉄の格子の向こうには、一両の電車が保管されていた。
うえ半分は玉子色、下半分はえんじ色。笑っちゃうほどの、幅の狭い車体。そういえば、正面から見ると細長くて馬づら、横から見ると薄くてハモニカとか言われていたっけ。
車体には花をかたどったマークと「デハ3」と書かれてある。
――おーい。
ぼくは電車に声をかけた。
返事がない。もう一度、息を吸ったときに返事があった。
――おう、おう。誰かとおもえば、高田くんでねえか。
ぼくは、帽子を取ると、電車に――彼に向かってお辞儀をした。
「お久しぶりです」
「おう。まめしくってらったか」
元気にしていたか、と彼が聞いた。いまはもう聞くことも少なくなった地元の言葉に気持ちがほっこりした。
「さっき、蒸気機関車を見てきたんだ。懐かしかったよ。きみもあの隣に並んでいたらいいのに、って思った」
電車は、からからと笑った。
「そいつは無理ってもんだな。おれはここに一人分のレールをもらってからもう四十年? 五十年? 誰からもお呼びはかからねぇ。会いに来る奴もめったにいねえし」
ほお、と電車はため息をつく。
「そったなとこさいないで、中に入ればいい。扉は開いてっから」
ぼくはまた一礼すると、金網へと手を伸ばす。
すうっとぼく一人分だけ、金網が消える。そのまま進んで、ついでに電車の木の引き戸をすり抜けてステップに足をかけ車内へ入った。
うっすらとホコリがつもった緑色のビロード張りの座席、運転手席にちかい場所へそっと腰かけた。
細かい塵が窓からの光のなかで舞っている。
「向こう側にも人が座ったら、膝がぶつかりそうだよ」
「なんせ線路の幅が狭くてな。なに、今日は貸し切りだおん。ゆっくりしてってけで」
窓から外を見ると、さっきの女の子が、ぽかんと口をあけてぼくを見あげていた。ぼくは唇に人差し指をあてて、内緒だよと手ぶりで伝えた。首を傾げながらも、女の子はまた友だちとかけっこを始めた。
「今日はいい天気だ。桜はおわったけんど、緑が映える時期だ。でも珍しいな。こったな日は高田くんなら、海のほうサ行ったっていい。高い山サ遅い桜を見に行ったっていがべ」
「きのう綾織の小峠から汽車の煙を見たら、きみに会いたくなったんだ」
「ほお、そうかぁ?」
これといった話しはなかったんだ。ただ長い冬が終わって、ちぢこまっていた体が春の夕暮れに暖かい風に吹かれてほぐれてくると、なんだかさびしくなって昔の友だちの顔を見たくなったんだ。
そう打ち明けるのは、ちょっと気恥ずかしくてぼくは黙った。
「んだか。でば昔話でも聞いていくか?」
「うん、聞かせて。どれくらい前の話し? 光太郎先生を乗せた話しなら何回も聞いたよ」
ははは、んだっけか? と彼は笑った。
「おれが仕事を終わるぺっこばり前のことかな、短けぇ話っこだ」
「うん」
「若い運転士が、いだったんだ」
――それは、四十数年前の雪がようやく消えたころのお話だ。
彼は静かに話しはじめた。
「はぁるが きぃたー はぁるが キぃたー」
ときおり音程をふらつかせながら、幼い女の子が小さな包みを膝にのせた若い母親の隣で歌っていた。
昼近い車内は乗客もまばらで、みな眠そうな顔をして座っていた。
「やぁまにきぃたー さぁとにきーたー ノミもーきたぁ」
あっけらかんと歌いあげる女の子に車内から小さく笑いが起きた。運転士の青年も吹き出した。
「ゆきちゃん、ノミもじゃなくて、野にもよ」
色の白い長い髪を後ろ結んだ母親が恥ずかしげに娘に教えたけれど、とうの本人はきょとんとしている。
「えー、だっておとうさんがおしえてくれたんだよ」
そう答えると、母親の困り顔とは反対に車内はあたたかい笑顔であふれた。
線路の左側には田んぼがつづき、右側の車道を車が白い排気ガスを吐き出しながら何台も電車を追い越していく。
花巻電鉄の路線は二本あったけれど、南温泉郷への鉛線は二年前にすでに廃線。花巻駅から花巻温泉への路線だけが残っていた。始発から終点まで片道三十分ほどの短い線路が電車の最後の仕事場だった。
ここ十年で自動車がずいぶん増えた。
電車自身も、一両・二両でノロノロと進む自分はもう時代遅れの乗り物だと思っていた。
けれど、もう満員のお客さんを運ぶなんてことは、特別なとき以外なくなっていても、毎日お客さんを乗せて走れるのはとても嬉しいことだった。
「こっちの電車も、そろそろ止めるって聞いたけど」
そんな話しを乗客たちもするようになっていた。
その日の運転士は藤井という、高校を卒業して入社六年目の若者だった。体の線の細い、まだまだ「若造」といえるような風貌だった。彼は慎重に運転しながら、それでも乗客たちの会話を聞いていた。
特に、『電鉄はもうすぐ廃線』と聞くと、制帽のしたの眉をぎゅっと寄せて苦しそうな顔をしていた。
それはあながち、嘘ではなかったから……。
電車は、駅のそばに住んでいる藤井が子どものころから毎日駅に来るくらい電車好きだということを知っていたから、藤井の胸の内も分かっていた。
「おかあさん、きょうはネコいるかな」
「まだ寒いから、いないかもね。さ、そろそろ降りるから。がんばって歩こうね」
うーん、と女の子は口をへの字に曲げて足をぶらぶらさせた。母親は女の子のマフラーをまき直した。
「ミルキー買ってあげるから」
そう言われて、女の子の目はきらきらと光った。
親子は去年の秋、雪がふる前あたりから、路線の中間の瀬川駅から頻繁に乗るようになった。母親はいつも風呂敷包みを持っていた。形からして、それは重箱だったり、あるいは衣類だったりするようだ。
「おとうさん、バラえんまつりまでに、たいいんする?」
母親はちょっと困ったような顔をして首をかしげて髪を直した。長い髪には、ばらの形の髪留めがあった。
「じゃあ、はなまきまつり?」
「うん、そうだね。九月のお祭りまでには退院できるかも」
やったぁ、と女の子はうれしそうに笑った。
電車は花巻駅へついた。国鉄の線路の西側、花巻電鉄のホームに着くと女の子は母親と手をつないで降りていった。
「ありがとうございました」
頭を下げる藤井と母親は一言だけ挨拶をかわした。
「……それだけ?」
「なんの。話しはこれがらさ」
窓の外には、元気に遊ぶ子どもとベンチで編み物をするご婦人。電車の昔話はのんびりと続いた。
五月の連休に、電車は色とりどりの紙の花で飾られ線路を走った。年に数回だけ走る花電車はまだまだ人気があった。
車で温泉にいくひとが多くなったけれど、花電車には大勢の人が乗ってくれた。みんなにこにこ笑って、乗ってきた。温泉でゆっくりして花巻温泉ご自慢のバラ園の温室で早咲きのバラを見て一日楽しんでくれた。
そんな時も、あの母子は風呂敷包みを持って込み合う電車で花巻駅まで乗っていく。
母親の顔色が心なしか悪くなっていくようで、藤井も気にかけていたようだ。
酒もたばこもやらない藤井は、みんなからケチだとか言われていたけど、給料日の帰りにはいつも家におみやげを買って帰るような青年だった。
自分には古本屋から買った文庫本を一冊ポケットに入れて。でも最近、昼休みに広げているのは自動車の教則本であることが多くなった。
車内にバラ園の本格的な開園を知らせるチラシが貼られる季節になるころ、あの親子を見かけなくなった。
無人駅の瀬川駅が近づくと、藤井はいつも目をこらしていた。
雨の中、車内には宣伝のために飾られた赤いバラの切り花の香りがしていた。
そういえば、あの子はバラ園まつりの話しをしていた。父親も退院して三人で見に行ったのだろうか。
藤井は時おり、思い悩むようになっていた。
新しく花巻温泉と花巻電鉄を買った社長が、赤字の電鉄を廃止したいということが社員にも伝わっていたから。
電車も老いぼれ、直したり新しく買うことはお金の無駄だと判断されたのだろう。
悲しいけれど、時の流れに小さな電車は押し流されていくしかなかった。
藤井は田んぼの水鏡にうつる電車をときおり寂しげに見ていた。
「退院したのかな。お見舞いの必要がなくなって、電車に乗らなくなったとか?」
「そうじゃなかったようだった」
降るような蝉の声が響くなかを電車が走るようになったころ、あの母親が花巻温泉から乗るようになった。乗り込んで来るお客さんに朝の挨拶をしていた藤井は、彼女がタラップを登って来たとき、声が詰まった。彼女は不思議そうに藤井を見たが、覚えているはずもない。朝の混雑時だ。すぐに後ろからせかされて電車の奥に行ってしまった。
「どうして、乗る駅が変わったのかな」
「何か、あったんだべな」
母親はいつも息をきらして電車に乗ってきた。女の子の姿が見えないのは、どこかにあずけて来ているからかも知れない。
「さっちゃん」
女性は呼ばれて振り向いた。ぎゅうぎゅうの車内を、女性と同年輩のワンピース姿の婦人がもぞもぞと動いて移動した。
「引っ越したって聞いてびっくりしたわ」
「お葬式のときにはお手伝いしてもらってありがとう。温泉の寮に入れさせて貰ったから」
「ああ、旦那さまバラ園勤めだったもんね。……大変だったね。ゆきちゃんは元気?」
「なんとか保育所へ入れたから、がんばって働かなきゃ」
そんな会話が切れ切れに聞こえてきた。
藤井は必死の顔で前を見ていた。電車の運転で、もしもがあったら取り返しがつかない。けれど、彼女「さっちゃん」さんたちの話しも聞きたかったようで、ひどく真剣な顔になってた。
さっちゃんさんは、花巻駅で降りていった。
藤井はお客さまにいつもどおり丁寧にあいさつをしていたけど、どこか上の空だった。
降りた、ということはまた乗るのだ。その単純な事実が嬉しかったようだ。
「……お父さんは亡くなったんだね」
「うん。藤井もなあ、父親をはやくに亡くしたらしくてなあ。会社に入ってすぐの春に、母親と一緒に鉛線に乗さってな。温泉さ連れてったっけ。初めで給料が出だがらって。藤井とよく似た線の細いひとだったな」
母親、さっちゃんはいつも息をきらして発車ぎりぎりの電車に乗ってきた。女の子を、保育所にあずけてから来ているからかも知れない。駅前に自転車を停めていたから。
あれから時おり、あのご婦人とかわされる会話から、さっちゃんは朝晩は温泉で雑用をし、日中は町場で事務員をしているということを藤井は知った。
「父親が亡くなって、母親一人で子を育てるんだぉん。働いて、働いて……さ」
「うん」
「藤井も似たような自分の母親の姿を思い出したりしてたんだなあ、きっと」
だからといって、藤井から声をかけるなんてこともなく、ひと月ふた月が過ぎた。
田んぼの稲は黄色になり、こうべを垂れはじめていた。トンボが青く澄んだ空を飛ぶようになった。夜に市内のあちこちから、祭り囃子が聞こえてきた。秋祭りが近いからだ。
花巻祭りは県下でも有名な秋祭りだ。豪華絢爛な山車が町ごとに出され、お稚児さん姿の女の子たちが山車の前に何列もつけられた小さな太鼓を叩きながら町中を練り歩く。哀愁を漂わせる雅やかなお囃子は九月の初旬の三日間、鳴り渡る。花巻に住むひとたちが、なにより楽しみにしているお祭りだ。
電車も増便されて、祭りのお客さんをたくさん乗せた。
二日目の晩に、さっちゃん母子が花巻駅から乗ってきた。娘のゆきちゃんは、朝顔もようのゆかたを着て可愛らしくしていたけれど、疲れたのかぐずっていた。
「おひめさまのカッコしたい」
「お祭りに出られるのは、町に住んでいる子だけなの」
運転していた藤井は大勢のお客さんの中から、たぶん二人の声を慎重に聞き分けていたと思う。
お祭りに出る女の子たちは、お雛さまのような金の冠を頭にのせて、鼻筋に白粉をすうっとぬって唇に紅をさして、ほんとうに愛らしかった。ゆきちゃんが羨ましがるのもよく分かる。
ゆきちゃんの茶色がかった髪には桃色のリボンがつけられていたけど、もっとキラキラ光る髪飾りが欲しかったのかもしれない。
ゆきちゃんは、お母さんの腰にぎゅっとつかまり口をとがられせていた。お母さんはなだめるように、ゆきちゃんの背中をとんとんと優しく叩いてた。
祭り帰りのお客さんには、親子連れもたくさんいた。父親のうでの中で眠っている子どももいた。二人は黙って混んだ電車の通路に立っていたけれど、お互い何を思っていたんだろう。
亡くなったお父さんのことかも知れない。ゆきちゃんは、車内にふわりと浮かんだウサギの風船をじっと見ていた。
終点の花巻温泉駅に着いたとき、お母さんはゆきちゃんを抱っこして降りていった。二人が人なみに紛れて駅舎から出ていくのを藤井はずっと見送っていた。
つぎの日、運転席の藤井の横には、ウサギの風船がふわふわと浮かんでいた。
お祭りの最終日、乗客は祭りの余韻に浸るように、はしゃぐようなでもどこか淋しいような。
藤井は、思い切ったことをしたものだと電車は思った。
たしかにその日の朝に、ふだんどおり通勤するさっちゃんを花巻駅の改札で見たからといって、自分が運転する下り電車に乗ってくれるとは限らない。
「前の晩のことをずっと考えていたんだべな。だがら、風船買ったんだな」
「それって、もしかして?」
ぼくは運転席のほうへ身を乗り出した。
「んだ」
天は藤井に味方した。
いつもより少し早めにさっちゃんは帰りの電車に乗ってきた。きっと温泉が祭り客で忙しいんだろ。反対に町場はお祭りに出ることで忙しい人が多いから、仕事は早あがりになったんだ。
終点に着いて、降りていくさっちゃんに初めて藤井は声をかけた。
「も、持っていってください」
赤いウサギの風船に負けないくらい、顔を赤くしていた。さっちゃんは、ぽかんとした。
それはそうだろう。顔見知りとはいえ、それ以上のつながりはないのだから。戸惑うさっちゃんに、藤井は言った。
「娘さんに」
声は震えていた。
「いただく理由がありませんが」
やんわりと断るさっちゃんに、藤井は風船をさしだしたまま、顔を伏せた。
「子どもだったとき、風船が欲しくて。……でも、母にいえませんでした。たった一人でぼくを育てている母には」
さっちゃんの目が見開かれ、細い指で口元をおさえた。
「持っていてください」
藤井は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
さっちゃんは、すっと手を伸ばして風船を受け取った。
藤井が顔をあげると、もういちど言った。
ありがとうございます、と。ほほえんでくれた。
「娘が喜びます」
「よかった」
「んだぁ。見てるこっちが動転したどもな。藤井、がんばったなーって思ったった」
「じゃあ、その後は二人は仲良くなれたんだね」
「そったに、かんたんにはいがねぇサ」
風船の出来事から、さっちゃんは電車で藤井に会うと、きちんと顔を見て挨拶をしてくれるようになった。朝に夕にさっちゃんに会えると藤井はいつも笑顔だった。たまの日曜日にさっちゃん親子が電車に乗ってくるとゆきちゃんも、
「こんにちは」
っていってくれるようになった。
秋はあっという間にすぎて、稲は刈り取られ吐く息が白くなる季節になった。
相変わらず、さっちゃんは時間ぎりぎりで乗車してきた。日に日に冷たくなる早朝の風にさらされて、頬は赤く、定期を見せる指先は荒れてきていた。
それを目にするたびに藤井のほうが痛そうな顔をした。
なにか力になりたいと、藤井が思うのは自然なことだったんだろう。
そんなある日。
「藤井!」
夕方、回送電車を掃除していた藤井は、血相をかえて走ってきた同僚から呼ばれて飛び出して行った。
箒とちり取りを投げ出して。
その晩は冷え込んで初雪が降った。
藤井はそれから一週間、出勤しなかった。
「藤井さん……」
「うん、母親がきゅうに亡くなったみてぇだ。あんまり丈夫な人でもながったんだべな」
藤井の休憩時間の読書が教則本から文庫本に戻った。
でも、いつにもまして無口になった。
花巻温泉と電鉄の両方をもつ社長が、年あけ二月に電車を廃線にすると決めたから、もっともと言えばもっともなことだったが。
電鉄の社員は、次の就職先のことであれこれと悩んでいた。藤井は車の免許をとったらしく、廃線になったらバス会社に再就職するのかと電車は思っていた。
藤井のさっちゃんへ向けるまなざしは、いよいよ苦しげになった。
母親を亡くしてどこか、気持ちの歯止めが効かなくなってしまったんだろう。
ある日の、最終便にさっちゃんが乗ってきた。
「結婚してください」
居眠りしていて、最後の乗客になったさっちゃんに、藤井はいきなり求婚した。
「ほんと、いきなりだね」
「いぎなりさぁ。んでも言わずにはいられねがったんだな」
さっちゃんは、びっくりしすぎたのか、声も出なかった。ただ目を見開いて藤井を見つめていた。
「どうか、結婚してください」
藤井は真顔でもう一度、さっちゃんに言った。
「幸せにします」
藤井は真剣すぎて、怖いくらいだった。
さっちゃんは、体のこわばりをとるように、大きくため息をついてうつむいた。
「もうしわけありません」
さっちゃんの声は小さかった。
「できません。私には子どもがいます。あなたより年上です」
「そんなこと、構いません。ぼくは、あなたが……」
首を左右にふって、藤井の言葉をさっちゃんはさえぎった。
「……去年の今日、あの人は生きていました」
藤井の体がびくんと動いた。
「病院から外泊を許されると、すぐに職場へ行って春に咲くばらの世話をしていました」
藤井はさっちゃんのばらの髪どめを見つめていた。それはきっと亡くなった旦那さんからの贈り物だろう。
「……」
「たぶん、何年たっても、五年十年たっても忘れられないです。あの人と過ごした日々を。短くても一緒に過ごした家族三人の暮らしを。なんども思い返すでしょう。『あのとき、あの人は生きていた』」
藤井の両手はぎゅっと拳になった。
「でも……」
藤井は何か言おうとしたが、先にさっちゃんが顔をあげ語気を強めていった。
「そ、それに、あの人が亡くなって、まだ一年も経ってないのに……私をそんなに軽い女だと思っていたんですか!?」
さっちゃんは勢いよく立ち上がると、電車から駆け下りていった。
藤井はなすすべもなく、薄暗い電車のなかでひとり立ちすくんでいた。
「……ああ……」
「焦ったんだべな」
「じゃあ、これで終わりなんだ」
聞いているぼくのほうが、しゅんとしおれてしまった。
「もう少しな」
それから藤井はしばらく会社を休んだ。
出勤しなかった理由は、どうやらバスの運転手になるための講習会に行っているためらしかった。
そうこうしているうちに、暦は十二月になった。廃線まで残りの日数がわずかになっていった。
何度か雪が降り、田んぼは雪で覆われた。電車は最後の冬を走っていた。
片道十七キロと少し。少ないお客さんを乗せて。雪煙りをあげて。
久しぶりにさっちゃんと藤井は電車で一緒になったけど、二人とも目を合わせなかった。
さっちゃんは、どこか怒ったような顔で、藤井は抜け殻のような顔で。
クリスマスの少し前に、藤井が運転する電車が花巻温泉駅に着くと、改札口にゆきちゃんがいた。
まだ最終までには数本あったけれど外は冬の陽がとうに落ちて真っ暗で、幼い子が一人で出歩くには物騒な時間だった。
藤井は気になったんだろう。電車から降りると改札口まで行った。
ゆきちゃんはお客さんの中にお母さんを探していたんだ。ホームに誰もいなくなると、唇をきゅっと噛みしめて下を向いた。
「ゆきちゃん」
藤井の呼びかけに、ゆきちゃんが顔をあげた。はなの先が赤かった。
「ふじいさん、おかあさんは?」
「ごめん、分からない。でも次で来るかも……」
そう言ったところで藤井にだって確信はなく、気まずげに言葉尻を濁した。
「……ふじいさん、でんしゃなくなるの?」
藤井の眉が歪んだ。
「でんしゃ、おとうさんとのった。ゆうえんちにいったよ」
「うん。志戸平の遊楽園だね」
以前に廃止になった鉛線の途中にある温泉地だ。花巻温泉とは反対側の山の中にあって、小さいながら遊園地と動物園がある。
「あっちの電車はもうずいぶん前になくなったんだ」
そして、間もなく花巻温泉線も廃止になる。
「みんな、なくなるんだ」
ゆきちゃんの言葉には幼い子らしからぬ、さびしさがふくまれていた。
改札口を挟んで二人はうつむいた。
不意に藤井が顔をあげて、はっきりと言った。
「なくならない、なくならないよ。お父さんの思い出も電車のことも、ゆきちゃんが覚えていたなら、なくならないんだ」
ゆきちゃんは藤井をきょとんとした顔でみあげた。
藤井はと言えば、大人のくせに半分泣きそうな顔をしていた。
自分でもどうすることもできないと思ったのか、藤井はゆきちゃんの頭を二・三回なでると、ホームの端に走って行って、もう振り返らなかった。
「口にして分かったんだべなあ」
「何が?」
「さっちゃんの気持ちサ。忘れられるはずがないってことサ。藤井も両親と電車さ乗ったぉん。いろったな思い出があるべ。そいづ思い出して、気持ちがいっぱいになったんだぇ」
クリスマスも年末年始も藤井は仕事をした。
家族や恋人もいない藤井は、自分から仕事を引き受けたらしい。
ただ、運転の業務より駅での仕事を中心にしていた。会社をたたむ日も近いから、体力のある片付けの人手が必要だったから。
そうやって、藤井は裏方に回った。
さっちゃんとも会わずに。さっちゃんは、電車に藤井がいないと、悔しいようなほっとしたような変な顔をした。
ほったらかしにされた女の子の顔になってた。
廃線が近づくと、それを惜しむお客さんが連日たくさん来るようになった。
写真機を持った人が路線のあちこちにいて、記念撮影していた。
二月十六日。
数日前から急に暖かくなって田んぼの雪が消えて春のようになった。
電車は、紙の花で飾られて最後の花電車になった。
沿線では地元の人たちが手を振り、ラストランのお客さんで車内は満員だった。
運転士は、藤井だった。
藤井は慈しむように、電車を動かした。
前を見据えて、最後の最後をすべて覚えておくように。
やがて電車は終点の花巻温泉駅に到着した。
ホームには大勢の人であふれていた。
地元の園児もお見送りに来ていた。
藤井たち職員は、ホームに並ぶと園児から花束を受け取った。
「ながいあいだ、ありがとうございました」
こどもたちのお礼の言葉の後に、いあわせた皆から盛大な拍手が起こった。
藤井は園児の中に、ゆきちゃんをみつけていた。そして人垣の中にいる、さっちゃんも。
花束は、色鮮やかなばらだった。
同系列の会社の花巻温泉からの心尽くしの贈り物だったんだろう。色とりどりのばらは、藤井の腕のなかで甘く香った。
フラッシュがたかれ、記念の写真が何枚も撮られ、いままでの苦労をねぎらう声がかけられた。
藤井はさっちゃんを探すように、背伸びして人波を見つめていた。
仕事に戻るのだろう。さっちゃんの長い髪と背中が見えた。
藤井はその後ろ姿を、ただ見送る。
藤井、藤井。
電車は自分をもどかしく感じた。子どものころから電車が大好きで、自分を大切にしてくれた藤井に何もできないのが。
電車は必死の思いで、ベルをならした。
りん!
無人の電車からのベル音にみなが電車を振り返った。
藤井の視線とさっちゃんの視線が一瞬、交わされた。
藤井は一歩、踏み出した。
ばらの花束を抱え、人混みをかき分け。
駆けろ、駆けつけろ。
きっと想いは、届くから……。
昼の日差しが小さな車内を黄色に染めた。ぼくは、今聞いたお話がまるで目の前で映された幻燈のようで、それの終わりを静かにみつめた。
「それから、ふたりはどうなったの」
「わがらね。だっておれは、その日で終わりだったおん」
電車は拍子抜けするくらい、あっさりとしていた。
「ま、ほかにもいろいろとあったけどさ。おれの最後の最後のときだもの。藤井は電車が大好ぎでいでくれだがら」
「よくベルが鳴らせたね」
「ま、気合いたべな」
かかかっと電車が笑う。
「外はいい天気だ。田植えも終わって、なんぼきれいだべな」
「うん。線路だったところには、道沿いに花壇が作られててきれいだよ。どこも花であふれている」
公園の桜は終わったけれど、電車の横のツツジは満開になろうとしている。
ぼくは、電車のタラップを降りて外へ出た。
桜の木陰のベンチで編み物をしていた婦人のところへ、若い男女が歩いてきた。
「お母さん、お待たせ」
女の人が声をかけると、ご婦人は笑顔で答えて編み物を片づけた始めた。
「もう、気が早いんだから。生まれるのはまだ先だよ」
女性のワンピースのお腹は少し膨らんで見えた。隣の男性がカバンを担いで手をつないでいる。
「なーに、すぐに産まれるのよ。ちゃんと準備しておかないとね」
立ち上がると、ご婦人は娘さんのおなかに手を当てて、優しくほほえんだ。
「女の子なら、お祭りに出られるわね」
「ほんと、お母さんはお祭りが好きだもんね。私は毎年三日間出されてヘトヘトだったわよ」
あきれるように娘さんが言う。
「あら、お母さんは出られて有頂天だったのに。おばあちゃんがおじいちゃんと再婚してくれたおかげで、お姫さまになれて」
え? とぼくは電車を振り返って見た。
「もう、お母さんはそればっかり」
そういわれても、ご婦人はにこにこしている。
「和也さん、私のおじいちゃんはこの電車の運転士だったのよ」
と、娘さんは電車を指さした。
「バス会社に勤める前ですか?」
和也さんは娘さんの旦那さまだろう。背の高い穏やかな表情の人だ。
「そうなの。それでね、子持ちだったおばあちゃんが好きになってプロポーズしたのよ」
「へえ、すてきですね」
ぼくはますます目を丸くする。
「でもね、プロポーズの言葉が傑作で」
母子は顔を見合わせて笑った。
「なんて言ったんですか?」
和也さんが二人にたずねた。娘さんはクスクスと笑いをこらえて教えた。
「『ぼくを助けてください』って」
「わたしの目の前でよ」
ご婦人も一緒に笑った。
「『ぼくを助けてください。ぼくもあなたを助けます。一生懸命働きます。どうかそばにいてください』って自分が貰ったバラの花束を差し出して。もう、必死すぎよね」
でも、とご婦人は続けた。
「でも、幸子おばあちゃんには響いたのね。それから一年くらいして私が小学校にあがるときに結婚したのよ。温泉から駅前に引っ越して。おかげで私はあこがれのお祭りに出られたの」
「……きみ」
ぼくは電車に声をかけた。
「ん?」
「彼女、ゆきちゃんじゃないの?」
ふふふっと電車は歌うように笑った。
「たまーに、来るんだ。たまに来て、のんびりしてく。それだけだ。でも、孫が産まれたら、もっと来るかもな。散歩とかに。駅前に住んでらがら」
電車はそらとぼけて話した。
電車のイタズラがちょっとカチンときたけど、ぼくは物語の続きを聞けてほっとした。
「ぼくだけが知っておくには、もったいないお話しだね」
「なに。忘れてくれてかまわねぇのさ。おれは覚えてるから……それでいいんだ」
でも、きっと藤井さんの家では伝えられていくんだ。
藤井さんとさっちゃんの、小さな小さな物語として。
「ぼくの話を聞いてくれるひとは、もういないよ」
かしわばやしの青い夕方や十一月の山の風のなかに、ぼくらの姿を見て物語を綴ってくれたひとはいない。
「そうかい?」
「嘉助も一郎も、みんないない。ぼくだけ残ってしまった」
うん、と電車がこたえた。
「さっきがら、あの子、高田くんのこと見でら」
振り向くと、公園に来た時に目が合った女の子がぼくのことをじっと見つめていた。
「見える人には見える。伝わる人には伝わる。あの子が大きくなったら、今日のごどを書くかも知れねぇじゃ」
ぼくは女の子に手を振ってみた。
おずおずと、手を振り返す。周りの子が不思議そうにぼくのいるあたりを一緒に見る。
でも、見えているのは、あの子ただ一人らしかった。
「な、分かるやつには分かる」
ぼくの胸が熱くなる。
「また来てもいいかな?」
「いつでも来い。おれはいつでもここさいるがら、又三郎」
うん、とぼくはうなずいて二三歩駆けて宙に飛びあがる。ガラスの梯子を駆けあがると、公園には一度だけ強い風が吹いた。
女の子が手をふる。
ゆきちゃん親子は車へと乗るところだ。
ぼくはマントに風をはらんで、高く飛ぶ。
花巻電鉄の線路があった道は、自転車道路としてそのまま残っている。空から見るとそれは、花巻温泉に続いている。
色とりどりの花に囲まれた、小さな町。
あの道を、いまも細長い電車がごとごとと走っているような気がした。
終わり
参考資料
RML176 花巻電鉄(上)(中)(下)
ネコパブリッシング/出版