自分の仕事
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それでは、どうぞお楽しみください。
翌朝、左腕の傷はほとんど痛まなくなっていた。
それでも剣には触らなかった。治療師から言われた二日間の禁止期間は今日までで、明日の診察で許可が出るまでは振らないと決めている。
以前なら、痛くないなら少しくらい動かしてもいいのではないかと考えていただろう。今もそう思わないわけではないが、一度それをやって傷を開いた結果が左腕に残っている。
朝食を終え、ゼノとギルドへ向かう。
今日は北の森へ入る予定はない。昨日確認されたストーンベアと、南へ移動している可能性がある魔物について、ギルド側で対応を決める日だった。
受付へ着くと、フィナの前にはすでに何枚もの報告書と地図が広げられていた。
「ちょうどよかったです」
フィナが俺たちを見る。
「ゼノさんには昨日の調査報告について確認したいことがあります。レオン君も、もし時間があれば少し手伝ってもらえますか?」
「俺も?」
「はい。戦う仕事ではありませんが」
「やる」
ゼノが横から俺を見る。
「即答だな」
「必要なんでしょ?」
フィナが頷いた。
「そのためにお願いしています」
それならやる。
◇
通されたのは、受付の奥にある会議室だった。
中央の大きな机にはアルネリア北部の地図が広げられ、周囲には昨日までの報告書が並べられている。フィナのほかにギルド職員が二人おり、しばらくすると昨日ストーンベアの調査へ参加した冒険者も一人入ってきた。
最初に確認したのは、これまでに得られた情報だった。
北東の森でBランク相当のストーンベア成体一頭を確認。本来の生息域よりかなり南にいるが、現時点では人間を積極的に襲った形跡はない。
その南側では、若いアイアンベアの痕跡が確認されている。
さらに南では、グレイファングの目撃が増えていた。
村周辺で少なくとも四体。うち二体は俺とダリオが倒し、二体が北へ逃げた可能性が高い。その後、調査隊が七体と遭遇し、俺も夜の森で二体を倒している。
ただし、同じ個体を別の場所で確認している可能性があるため、全部を足して頭数を出すことはできない。
「まず確認したいのは、南下が継続しているかどうかです」
フィナが新しい報告書を机へ置く。
「今朝、北街道を利用した商人から追加報告がありました。昨日の夕方、街道から西へ少し入った場所でグレイファングらしき二頭を目撃したそうです」
地図上に印が増える。
俺はその位置を見る。
以前の村よりアルネリアに近い。
「ここまで来てる?」
「目撃が正しければ、ですが」
フィナは断定しない。
「荷馬が怯えたため、その商人は接近せずに引き返しています。灰色の大型狼だったという証言から可能性は高いですが、討伐や詳細確認はされていません」
俺はこれまでの印を見る。
一つずつなら、ただ魔物が見つかっただけに見える。
でも地図にすると違った。
北側にストーンベア。
その南に若いアイアンベア。
さらに南側に複数のグレイファング。
最近の報告ほど、街道や村に近い場所が増えている。
「南に動いてるように見える」
俺が言うと、フィナが頷いた。
「ギルドもその可能性が高いと判断し始めています。ただし、原因がストーンベアだと確定したわけではありません」
「分かってる」
そこはもう間違えない。
「でも、原因が分からなくても、南に来てるなら先にそっちを見た方がいい」
「そうですね」
フィナが別の紙を出す。
「そのため、今日は討伐よりも警戒範囲の設定を優先します」
地図上の街道と集落に印が置かれていく。
北へ向かう街道。
俺がリクを助けた村。
そのさらに東にある小さな農村。
街道沿いの休憩所。
魔物が南下を続けた場合、人間と接触する可能性が高い場所だった。
「全部守るの?」
俺が聞く。
「できません」
フィナはすぐに答えた。
「だから優先順位を決めます」
その言葉が少し引っかかった。
守る場所を選ぶ。
つまり、後回しになる場所もある。
「人が少ないところは捨てる?」
「そういう意味ではありません」
フィナは地図を指す。
「危険度と、避難の難しさと、こちらが使える人数を考えます。たとえばこの農村は人口が少なく、森からも近いですが、住民を一時的に街道側へ移動させやすい。反対にこちらの宿場は人が多く、急な避難が難しいので、先に警戒人員を配置する必要があります」
守ることにも順番がある。
誰かを見捨てるためではなく、できるだけ多く守るために選ぶ。
俺は地図を見ながら考えた。
「この村は?」
リクのいる村を指す。
「警戒対象です。ただ、昨日の時点で柵の補強と夜間警戒を始めています」
「冒険者は?」
「今日から二名を常駐させます」
少し安心した。
俺が行かなくても、誰かがいる。
それでいい。
◇
その後は、過去数週間の目撃報告を地図へ整理する作業になった。
俺が役に立ったのは、実際に歩いた場所だった。
以前の村までの道、グレイファングが鹿を食べていた場所、俺とダリオが分かれた位置、二体が村へ入った方向、セラナを見つけた夜に通った沢と岩場。自分で確認した地形については、報告書の文章より細かく説明できる。
ただし、夜に通った経路には曖昧な部分もあった。
「この辺りは?」
職員に聞かれる。
「多分、ここを通った」
「多分?」
「暗くて、沢から一回離れたあと少し迷ったから」
以前なら何とか思い出そうとしたかもしれない。
今は、分からない部分まで埋めない。
職員はその場所だけ薄い線で記録した。
「それで構いません。確実な情報と推測が分かれている方が助かります」
そういうものらしい。
作業を続けるうちに、俺は一つ気になる場所を見つけた。
「ここ、何もない?」
地図の中央より少し西を指す。
目撃情報の印が周囲にあるのに、そこだけ空白になっている。
フィナが確認する。
「古い狩猟道ですね。現在はほとんど使われていません」
「人がいないから報告もない?」
「その可能性はあります」
つまり、魔物がいないとは限らない。
見ている人がいないだけかもしれない。
俺はその周辺を見る。
北から南へ移動するとしたら、森の中を通る道の一つになる。
「ここを通ったら、どこに出る?」
職員が地図を辿る。
「南西へ抜ければ北街道ですね。東へ外れれば、例の村から一キロほど西に出ます」
俺は考える。
グレイファングが道を使うかは知らない。
そもそも人間の狩猟道を選ぶ必要もない。
「確認した方がいい?」
俺が聞くと、ゼノが初めて口を挟んだ。
「理由は?」
「目撃がないから安全だと思ってたら危ない。でも、本当に何もいないかもしれない」
「それで?」
「近くを巡回する人がいるなら、ついでに見てもらう」
ゼノはフィナを見る。
「悪くない」
フィナも頷いた。
「西側巡回班の経路を少し変更すれば確認できます。追加の人員も必要ありません」
職員が巡回経路を書き直す。
俺はその線を見る。
戦っていない。
森にも行っていない。
それでも一つ、確認する場所が増えた。
少し不思議な感じがした。
◇
昼を過ぎるころには、ひとまず警戒計画が決まった。
ストーンベアについては追加の観察を行い、積極的な南下や人への接近が確認された場合に討伐隊を組む。それまでは無理に刺激しない。
同時に、南側では街道と村の巡回を増やす。
グレイファングを発見した場合、少数なら討伐し、群れなら位置と移動方向を報告する。
若いアイアンベアも同様だった。
「原因を倒すより先に、被害を減らす」
俺が言う。
フィナが少し考えてから答えた。
「原因がまだ分からないからこそ、ですね」
その方が正確だった。
会議が終わると、ゼノと一緒に部屋を出る。
「役に立った?」
俺が聞く。
「ああ」
短い。
「どれくらい?」
「何だその質問は」
「戦ったときは倒した数で分かるから」
ゼノが足を止める。
「お前、前に俺が言ったこと忘れたか」
少し考える。
倒した数だけで判断するな。結果を見ろ。
村で言われた言葉だった。
「覚えてる」
「なら数で測ろうとするな」
「でも分かりにくい」
「慣れろ」
難しい。
それでも、今日決めた巡回で誰かが早く魔物を見つければ、被害を防げるかもしれない。
俺が剣を振らなくても。
◇
午後、ギルドへ一人の冒険者が戻ってきた。
西側を確認していた巡回班だった。
フィナが報告を受ける。
俺は離れた場所にいたが、途中でこちらを呼ばれた。
「レオン君」
机へ近づく。
「今朝話していた古い狩猟道ですが、痕跡が見つかりました」
胸が少し高鳴る。
「グレイファング?」
「おそらく」
冒険者が答える。
三十代くらいの男で、短い黒髪に革鎧を着ている。
「足跡が複数あった。新しい。少なくとも昨日か今日だと思う」
「何体?」
「重なってて正確には分からん。三体以上はいると思うが、五体いてもおかしくない」
群れだ。
「どっちに向かってる?」
「南西」
地図を見る。
その先には北街道がある。
フィナがすぐに別の職員を呼ぶ。
「北街道の巡回班へ連絡を。宿場にも警戒を出してください」
部屋の空気が変わる。
俺は地図を見る。
自分が気づいた空白。
そこに本当にグレイファングがいた。
嬉しいと思いかけて、すぐに違うと気づく。
当たったことを喜ぶ場面ではない。
魔物が人のいる方へ向かっている。
「討伐する?」
「明朝、確認班を出します」
フィナが答える。
「今からでは?」
「日没までの時間を考えると、森の中で群れを追うのは危険です。代わりに街道側の警戒を増やします」
また待つ。
でも今度は、前とは違った。
何もしないわけではない。
夜の間に人のいる場所を守り、明るくなってから森へ入る。
「明日、俺は?」
聞いてから、自分の左腕を見る。
治療師の診察は明日の朝だ。
フィナではなくゼノが答えた。
「治療師が許可したら考える」
「必要なら?」
「ああ」
「必要じゃなかったら?」
「留守番だ」
「分かった」
自分でも驚くくらい普通に答えられた。
ゼノも少しだけ俺を見る。
何も言わなかった。
◇
夕方、治療室へセラナの様子を見に行った。
今日の出来事を話すと、セラナは少し笑った。
「今日は森に入らなかったのね」
「入ってない」
「偉い偉い」
子供扱いされている気がする。
実際、九歳だから間違ってはいない。
「でもグレイファング見つけた」
「ギルドの中で?」
「場所を見つけた」
地図の空白に気づいた話をする。
セラナは最後まで聞いてから、少し考えた。
「それ、結構大事な仕事したんじゃない?」
「一匹も倒してない」
「倒すの好きなの?」
「別に」
「じゃあいいじゃない」
簡単に言われた。
「冒険者って、魔物倒す仕事じゃないの?」
「それも仕事。でも護衛も調査も採取も救助もあるし、危険を見つけて報告するだけの仕事だってある」
セラナは包帯の巻かれた右脚を見る。
「私なんか今回、調査で失敗して救助された側だしね」
「でも三体の死体を見つけた」
「そうね」
「ストーンベアの痕跡も」
「そう」
「じゃあ失敗だけじゃない」
セラナが一瞬黙った。
「……あんた、たまにいいこと言うわね」
「たまに?」
「普段は馬鹿だから」
夜の森のことだと思う。
否定しない。
◇
宿へ戻ると、俺は剣を壁へ立てかけた。
今日も振らなかった。
二日間。
以前なら、二日も剣を振れないことばかり考えていたと思う。
でもこの二日で、北の森の地図を覚え、報告を整理し、巡回経路の空白に気づいた。
その結果、グレイファングの痕跡が見つかった。
剣術の習熟度は増えていない。
身体も強くなっていない。
《戦域把握 Lv3》も上がっていない。
それでも、今日の俺は昨日まで知らなかったことを知っている。
強くなることと、役に立つことは同じではない。
戦えることと、戦う必要があることも同じではない。
明日、治療師から許可が出れば剣を持てる。
そしてグレイファングの確認班が北街道へ向かう。
自分が選ばれるかはまだ分からない。
以前なら、連れていってほしいと思っていた。
今も行きたい気持ちはある。
でも、それだけでは決めない。
必要なら行く。
必要でなければ、別の仕事をする。
俺はベッドへ入った。
明日の朝、自分がどこに立つことになるのかはまだ分からない。
それでも今度は、勝手に場所を決めるつもりはなかった。
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