見るだけ
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それでは、どうぞお楽しみください。
「連れていって」
俺がそう言うと、ゼノはパンを食べる手を止めた。
「断る」
翌朝。
昨日言われた通り、俺は訓練をしていない。
正確には、朝の走り込みをしようとして宿を出たところでゼノに見つかり、部屋へ戻された。
だから今は食堂にいる。
「戦わない」
「駄目だ」
「見るだけ」
「駄目だ」
「遠くから」
「駄目だ」
三回断られた。
ゼノは何事もなかったように食事を再開する。
「オーガを知らない」
「だから?」
「知らない相手から逃げるのは難しい」
ゼノの手が止まった。
少し考えてから、俺を見る。
「続けろ」
「大きさも、速さも、攻撃方法も知らない。会ってから考えたら遅いかもしれない」
昨日のゴブリンとの戦いでも、一体の位置を見失っただけで槍を受けた。
オーガがそれより強いなら、初めて会った瞬間に判断を間違える可能性がある。
「だから一度見たい」
ゼノはしばらく俺を見ていた。
「筋は通ってるな」
「じゃあ」
「今日は休め」
違った。
「明日だ」
顔を上げる。
「明日、状況に問題がなければ連れていく。ただし俺の指示には絶対に従え。戦うなと言ったら戦うな。逃げろと言ったら理由を聞く前に逃げろ」
「分かった」
「それと今日は休め」
「分かった」
「剣も振るな」
「……分かった」
「今、間があったな」
気のせいだ。
◇
休むというのは難しい。
身体を動かさないだけなら簡単だった。
でも、その時間にできたはずのことを考えてしまう。
剣を千回は振れる。
走れる。
魔力操作もできる。
昨日失敗した対多数の動きも試したい。
ベッドに横になっていても、頭の中では身体が動いていた。
最初のゴブリンを倒す。木を使って二体目を分断する。三体目を予測して避ける。
問題は五体目。
槍を持った個体の位置を忘れた。
なぜ忘れた?
四体目を倒すことに意識を使いすぎたからだ。
なら、目の前の敵だけに集中しない。
でも、それでは目の前への反応が遅れる。
俺は天井を見ながら何度も昨日の林を思い返した。
木の位置。七体の武器。最初の配置。走る速度。
そこで、ふと思った。
位置そのものを覚える必要があるのか?
相手は動く。
最初に右にいたからといって、次も右にいるとは限らない。
必要なのは、位置ではなく――。
扉が開いた。
「やっぱり何かやってる」
リナだった。
栗色の髪を一つに結び、いつもの薄茶色の外套を着ている。その後ろからディルも顔を出した。
「寝てるだけ」
「顔が寝てねえぞ」
ディルが言う。
二人はギルドで俺が休養を命じられたと聞いたらしい。
「何考えてたの?」
「昨日の七体」
「休んでないじゃん」
「身体は休んでる」
リナが何か言いたそうな顔をしたが、諦めたらしい。
二人が部屋へ入ってくる。
俺は身体を起こした。
「ちょうどいい」
「嫌な予感するな」
「動いてほしい」
「休めって言われただろ」
「俺は動かない」
ディルとリナに部屋の中を歩いてもらう。
狭いので、武器は使わない。
俺はベッドに座ったまま二人を見る。
「適当に動いて」
「本当にこれだけ?」
「うん」
ディルが右へ歩き、リナが左へ動く。
目で追う。
簡単だ。
「もっと速く」
二人の速度が上がる。
まだ分かる。
「途中で方向を変えて」
ディルが急に反転し、リナがベッドの足元を横切った。
視線を二人へ交互に向ける。
追える。
でも。
「見ないでやってみる」
「は?」
俺は正面の壁を見る。
二人の足音がする。
右。
左。
床板の音。
ディルの方が重い。
リナは軽い。
一度目は分かった。
二度目。
ディルが右。
リナが――。
「そこ」
左を指す。
「外れ」
リナの声は右からした。
振り返る。
二人とも右側にいる。
「なんで?」
「途中で止まった」
ディルが答える。
なるほど。
音だけでは足りない。
「もう一回」
「休養って何だっけな」
ディルが呟いた。
◇
翌朝、脇腹の傷はまだ残っていた。
血は出ない。走っても大丈夫そうだったが、強く身体を捻ると少し痛む。
ゼノは傷を確認してから言った。
「行くぞ」
俺たちは北東へ向かった。
今回はリナとディルはいない。
同行するのはゼノと俺、それから二人の冒険者だった。
一人は大柄な男で、背中に大剣を背負っている。名前はグレン。三十代くらいで、短く刈った焦げ茶色の髪と太い首を持ち、革鎧の上からでも分かるほど腕が太い。
もう一人はセラという女だった。二十代後半ほどで、淡い金髪を肩の辺りで切り揃え、青灰色の目をしている。深緑の外套をまとい、背中には弓と矢筒があった。
二人とも俺より遥かに経験がある。
「本当に連れてくのか?」
歩きながらグレンが聞いた。
「見るだけだ」
ゼノが答える。
「戦わせない」
「まあ、お前がいるなら俺が心配することでもねえか」
俺は三人の歩き方を見る。
速い。
俺に合わせているはずなのに、無駄がない。
特にゼノは山にいた頃と同じだった。石や根を避けるために歩幅を変えているように見えない。それでも一度も踏まない。
俺は真似する。
石。
根。
窪み。
十数分続けたところでゼノが言った。
「今日はそれを覚えに来たんじゃないぞ」
ばれた。
◇
旧石橋を越え、さらに北へ進んだ。
以前ゴブリンを見つけた場所よりずっと奥だ。
途中から空気が変わった。
静かだった。
鳥が少ない。
ゼノが片手を上げる。
全員が止まる。
セラが膝をつき、地面を見る。
「新しい」
俺も見る。
足跡。
大きい。
人間のものではない。
俺の足なら二つ近く入りそうだった。
「オーク?」
「そうだ」
セラが答える。
ここでは彼女が知っている。だから俺も、その名前を使える。
足跡は複数ある。
北から南。
昨日まで聞いていた通りだ。
そこからさらに進んだところで、ゼノが再び止まった。
「ここから声を出すな」
頷く。
森の中を進む。
やがて前方が少し明るくなった。
崖。
その手前で伏せる。
ゼノが指で下を示した。
俺はゆっくり顔を出す。
最初に見えたのはオークだった。
大きい。
人間より一回り以上大きく、太い腕を持つ。緑がかった灰色の肌。粗末な革を身体に巻き、手には斧や棍棒を持っていた。
七体いる。
でも。
俺の目は、その奥で止まった。
さらに大きなものがいた。
二メートルどころじゃない。
オークより頭一つ以上高く、身体の厚みもまるで違う。赤褐色の肌。乱れた黒髪の下から太い眉が張り出し、その奥の小さな黄色い目が周囲を睨んでいる。腰には獣皮を巻き、右手には俺の身体ほどもありそうな太い棍棒を持っていた。
「あれが?」
ゼノを見る。
小さく頷いた。
オーガ。
俺はもう一度見る。
遅そうに見える。
身体が大きい。
武器も重い。
だったら、近づいて――。
オーガが動いた。
一歩。
次の瞬間には、近くにあった木の前にいた。
速い。
俺が想像したより、ずっと。
棍棒が振られる。
木に当たった。
鈍い音。
幹が折れた。
俺は黙ったまま、それを見る。
もし俺なら。
避ける。
いや。
どこへ?
横。
棍棒が長い。
後ろ。
踏み込みが速い。
懐。
あの腕で掴まれたら?
考える。
何度考えても、危ない。
ホーンウルフと戦ったときに似ている。
違う。
あのときは戦ってから分かった。
今回は戦う前に分かる。
今の俺では無理だ。
そのとき、オーガが顔を上げた。
こちらを見た気がした。
「下がるぞ」
ゼノが囁く。
理由を聞く前に身体を動かした。
来た道を戻る。
走らない。
音を立てない。
十分以上離れてから、ゼノが止まった。
「どうだった」
俺は少し考えた。
「戦いたくない」
グレンが吹き出した。
「賢いな、坊主」
「勝てないから」
「普通はあれ見たら、それで十分なんだよ」
でも。
俺はもう一度考える。
「ゼノなら?」
「勝てる」
やっぱり。
「一人で?」
「ああ」
「何体?」
「何の話だ」
「オーガ」
ゼノが嫌そうな顔をした。
「数えるな」
「十体なら?」
「レオン」
「五体」
「やめろ」
グレンが笑っている。
セラまで口元を押さえていた。
でも知りたい。
一体でも今の俺には勝てない。
それをゼノは一人で倒せる。
この差はどこにある?
筋力。
速度。
剣。
経験。
観察。
全部。
まだ遠い。
でも、遠さが分かった。
それだけでも来た意味はあった。
◇
帰り道。
先頭を歩いていたセラが突然止まった。
「待って」
全員が止まる。
彼女は地面にしゃがみ、草を指で分けた。
血。
少量。
そこから数歩先にもある。
「オークか?」
グレンが聞く。
「たぶん。でも変ね」
「何が?」
「向き」
血痕は北へ続いている。
オークたちは北から南へ逃げていた。
なのに、これは逆。
ゼノが地面を見る。
しばらくして、森の奥へ視線を向けた。
「戻ってる」
「何が?」
俺が聞く。
「一部のオークが北へ戻ったらしい」
分からない。
オーガから逃げて南へ来た。
それなのに戻る。
ゼノは立ち上がった。
「急ぐぞ」
「調べないの?」
「今日はお前がいる」
それだけだった。
俺がいるから行けない。
悔しい。
でも、さっきオーガを見た。
だから言えなかった。
俺がついていけば、ゼノたちは俺を守らなければならない。
強くなるために来ているのに、弱いせいで邪魔になる。
「分かった」
帰る。
それが今の俺にできる判断だった。
◇
町へ戻ったあと、俺は訓練場の端に座っていた。
今日は戦わない。
ゼノとの約束ではなく、傷がまだ治っていないからだ。
中央では冒険者たちが模擬戦をしている。
二人。
その向こうに三人。
さらに奥にも人がいる。
俺は一つの試合だけを見るのをやめた。
全体を見る。
右で剣がぶつかる。
左では槍。
奥を一人が走る。
全部を細かく見ると、何も分からなくなる。
だから情報を減らす。
誰がどこにいる。
どちらを向いている。
次にどこへ動きそうか。
それだけ。
しばらくして目を閉じる。
音を聞く。
木剣。
足音。
声。
もう一度目を開ける。
位置が変わっている。
予想と比べる。
外れ。
また見る。
予想。
確認。
外れ。
繰り返す。
百回目がいつだったかは数えていなかった。
日が傾き始めた頃。
不意に、妙な感覚があった。
右側の模擬戦を見ているのに、左側から走ってくる冒険者がいることが分かった。
見たわけではない。
足音だけでもない。
少し前までいた場所。
身体の向き。
走る先。
それらが頭の中で繋がっていた。
振り返る。
いた。
予想した場所を男が横切った。
《観察の習熟度が上昇しました》
続けて表示が現れる。
《複数対象の位置把握経験を確認》
《視覚外対象への位置予測を確認》
《地形・対象・移動経路を用いた継続的な状況判断を確認》
少し間があった。
《関連技能の習熟が不足しています》
《新規技能の獲得条件を満たしていません》
まだ足りない。
でも。
前より表示が増えた。
近づいている。
何に?
それは分からない。
「レオン」
振り返る。
ゼノがいた。
「帰るぞ」
「あと少し」
「傷」
脇腹を見る。
「見てるだけ」
「お前の場合、そのうち『見るのは身体を使ってないから睡眠中もできる』とか言い出しそうだな」
考える。
できるだろうか。
「考えるな」
「まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
立ち上がる。
歩きながら、今日見たオーガを思い出した。
強かった。
今の俺では勝てない。
七体のゴブリンに勝った次の日に、一体でも勝てそうにない相手を見た。
前なら悔しかった。
今も悔しい。
でも、それだけじゃない。
少し嬉しい。
まだ強くなれる理由がある。
「ゼノ」
「なんだ」
「オーガに勝つには、何年かかる?」
「知らん」
「一年?」
「知らん」
「二年?」
「俺に聞くな」
「じゃあ――」
ゼノが立ち止まった。
俺も止まる。
「レオン」
灰色の目が俺を見る。
「何年かかるかを考えるな」
「なんで?」
「一年で届かなかったら、やめるのか?」
「やめない」
「十年なら?」
「やる」
「なら同じだ」
ゼノは再び歩き始める。
俺はその背中を見る。
確かに。
何年でも同じだ。
今日できることをやる。
明日もやる。
その次も。
ただ、一つだけ問題がある。
脇腹に触れる。
まだ治っていない。
鍛えたいのに、鍛えられない時間がある。
努力しても越えられなかった才能の壁とは違う。
今度の壁は、もっと単純だった。
俺の身体は。
俺が望むほど、長く動いてくれない。
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