表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
熱の居場所 ―ある研究者の記録―  作者: カワカン
第三部 創発 (Emergence)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/30

第21話 最初の一歩

 三年後――。


 春。


 研究室の窓から、新緑がキャンパスを包んでいた。


 あの日から三年。


 木村は博士号を取得し、大学の助教として研究室に残っていた。


 学生たちは研究室へ入るなり、


「木村先生、おはようございます。」


と声をかけてくる。


 木村も笑顔で返した。


「おはよう。」


 その呼び方にも、ようやく慣れてきた。


 研究室の一角には、相変わらず教授が新聞を広げている。


 木村を見るなり、いつもの穏やかな口調で言った。


「木村さん、おはようございます。」


「おはようございます。」


 三年前と変わらない呼び方だった。


 立場は変わっても、教授にとって木村は変わらず「木村さん」なのだ。


 その時だった。


 研究室の電話が鳴る。


 木村が受話器を取る。


「はい、○○大学熱エネルギー研究室です。」


 電話の向こうから、共同研究先の担当者の少し弾んだ声が聞こえた。


「木村先生、お待たせしました。」


「正式に決まりました。」


「実証事業、採択です。」


 一瞬、時間が止まったように感じた。


「……本当ですか。」


「はい。」


「国、自治体、企業、すべて承認されました。」


「来月、記者会見です。」


 電話を切る。


 木村はまだ受話器を持ったまま立ち尽くしていた。


 教授は新聞から目を離さずに尋ねる。


「決まりましたか。」


 木村はゆっくりとうなずく。


「実証事業が始まります。」


「私たちのシステムが、実際の街で動きます。」


 教授は新聞を閉じ、小さく笑った。


「ようやく研究室を卒業できますね。」


 木村は少し首をかしげた。


「卒業ですか。」


「ええ。」


「ここまでは、研究室の中だけの研究でした。」


「これからは社会が実験室になります。」


 木村は窓の外を見た。


 キャンパスの向こうには街並みが広がっている。


 あの街のどこかで、自分たちが何年も積み重ねてきたシミュレーションが、本物の設備として動き始める。


 論文の図だった配管が。


 画面の中だけだった熱の流れが。


 人々の暮らしを支える現実になる。


 胸の奥で、小さく鼓動が高鳴った。


 研究は終わったのではない。


 ようやく、始まろうとしていた。



記者会見当日。


 県庁の大会議室には、多くの報道陣が集まっていた。


 テレビカメラが並び、新聞各社の記者がノートパソコンを開いている。


 受付の前には、


「AIデータセンター排熱利用実証事業 共同記者発表」


と書かれた看板が掲げられていた。


 大学。


 自治体。


 電力会社。


 データセンター事業者。


 熱供給事業者。


 関係者が次々と会場へ入っていく。


 木村はスーツの襟を整えながら、小さく息を吐いた。


「こんなに大きな会見になるとは思いませんでした。」


 隣を歩く教授は穏やかに笑う。


「社会へ出る研究とは、そういうものです。」


「研究室では、論文を読んでくれる人は限られています。」


「しかし社会では、多くの人が影響を受けます。」


 壇上には関係機関の代表者が並ぶ。


 木村は大学代表として端の席に座った。


 司会者がマイクを取る。


「本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。」


「本実証事業は、AIデータセンターから発生する排熱を地域へ供給する、国内初の取り組みとなります。」


 スクリーンに一枚の完成予想図が映し出された。


 データセンター。


 地下に延びる熱配管。


 蓄熱槽。


 病院。


 公共施設。


 住宅街。


 そして街全体を結ぶ一本のネットワーク。


 木村は思わず画面を見つめた。


 三年前。


 研究室のホワイトボードに描いた一本の線。


 あの時は、ただの構想だった。


 それが今は、工事図面となり、設備となり、街へと広がろうとしている。


 司会者の声が続く。


「本事業では、AIの稼働予測を活用し、排熱を効率的に回収・蓄熱・供給する新しいエネルギー運用を目指します。」


 木村は資料を静かに閉じた。


 ここに書かれている内容は、自分たちが何百回もシミュレーションを繰り返し、企業と議論を重ね、失敗を積み重ねながらたどり着いた答えだった。


 その研究が、今日から一つの街で動き始める。


 それは論文の採択よりも、学会発表よりも、ずっと重みのある瞬間だった。




司会者が一礼する。


「それでは、質疑応答に移ります。」


 一斉に記者たちの手が挙がった。


「○○新聞です。」


「AIは今後さらに電力を消費すると言われています。この計画だけで対応できるのでしょうか。」


 会場の視線が木村へ集まる。


 木村はマイクを手に取り、ゆっくりと言葉を選んだ。


「このシステムだけで、すべてを解決できるとは考えていません。」


「しかし、これまで捨てられていた熱を地域で活用することで、新たなエネルギーを生み出さずに済む場面は確実に増えます。」


「私たちは、エネルギーを増やす研究ではなく、使い方を変える研究をしています。」


 記者たちは一斉にメモを取る。


 別の記者が質問した。


「熱の供給は安定するのでしょうか。AIの稼働は日によって変わりますよね。」


 木村はスクリーンに映るフロー図を指した。


「そのために需要予測があります。」


「AIがどの時間帯に稼働し、どれだけ排熱が発生するかを予測し、蓄熱槽へ一時的に蓄えます。」


「供給と需要を切り離すことで、安定した熱供給が可能になります。」


 質問は技術だけでは終わらなかった。


「この計画は、一つの地域だけで終わるのでしょうか。」


 木村は少しだけ考え、静かに答えた。


「私たちは、この街のためだけに研究してきたわけではありません。」


「ここで得られた成果は、他の都市でも活用できると考えています。」


「もちろん、それぞれの地域には違った課題があります。」


「だからこそ、この実証実験が次の研究の出発点になるはずです。」


 教授はその言葉を聞き、小さくうなずいた。


 質疑応答が終わり、会見は無事に終了した。


 控室へ戻る途中、木村は窓の外を見た。


 工事が始まる予定地が遠くに見える。


 まだ何も建っていない更地。


 だが数か月後には、地下へ配管が敷かれ、蓄熱槽が据え付けられ、データセンターから流れてきた熱が街を温める。


 教授が静かに隣へ立つ。


「木村さん。」


「はい。」


「今日は研究の成果を説明しました。」


「次は、研究の成果が社会から評価されます。」


 木村はその言葉を胸の中で繰り返した。


 論文の査読者は研究者だった。


 しかし、これから評価するのは街で暮らす人々だ。


 その評価こそが、この研究の本当の答えになるのかもしれない



実証事業開始の日。


 早朝。


 まだ朝霧の残る街で、関係者が制御室へ集まっていた。


 壁一面の大型モニターには、システム全体の状態が表示されている。


 データセンター。


 蓄熱槽。


 地域熱供給設備。


 病院。


 公共施設。


 すべてが一本のネットワークとして結ばれていた。


 運転責任者が時計を見る。


「予定時刻です。」


 会場の空気が張りつめる。


「システム起動。」


 静かな操作音。


 モニターの表示が次々と緑色へ変わっていく。


 データセンターから送られてくる運転情報。


 予測排熱量。


 蓄熱槽の受け入れ開始。


 熱交換器、起動。


 循環ポンプ、起動。


 配管内の流量がゆっくりと立ち上がる。


 木村は食い入るように画面を見つめていた。


 三年前。


 研究室で何度も動かしたシミュレーション。


 画面の中だけだった数字が、今、現実の設備として動いている。


「熱供給、開始します。」


 担当者がスイッチを押す。


 数秒後。


 病院側のモニターに表示が切り替わる。


地域熱供給 受熱開始


 施設担当者の無線が入る。


『受熱を確認しました。』


『温水系統、正常です。』


 続いて公共施設。


『こちらも正常。』


 さらに住宅地区。


『異常ありません。』


 制御室にいた全員が、思わず顔を見合わせた。


 誰かが小さく拍手を始める。


 その拍手は少しずつ広がり、部屋全体を包んだ。


 木村は窓の外を見る。


 街はいつもと何も変わらない朝だった。


 通勤する人。


 登校する子どもたち。


 誰も、この瞬間に新しい仕組みが動き始めたことを知らない。


 教授が静かに隣へ来た。


「どうですか。」


 木村は笑みを浮かべながら答える。


「何も変わっていないように見えます。」


「ええ。」


 教授もうなずいた。


「社会を支える技術とは、そういうものです。」


「特別な日ではなく、いつもの日常を守る。」


「それが一番難しく、一番価値があります。」


 木村は再びモニターへ視線を戻した。


 そこには、一本の熱の流れが静かに描かれている。


 その線は、研究室で描いた一本の線と同じだった。


 違うのは、もうシミュレーションではないということ。


 人々の暮らしを、本当に支えているということだった。


 木村は小さくつぶやく。


「ようやく……ここまで来た。」


 教授は首を横に振り、穏やかに微笑んだ。


「いいえ。」


「ここからですよ。」


 木村はその言葉の意味を、まだ完全には理解できなかった。


 だが、この実証実験が終着点ではなく、新しい研究の始まりであることだけは、はっきりと感じていた。




実証事業の開始から半年。


 木村は久しぶりに現地を訪れていた。


 冬の朝。


 街路樹は葉を落とし、冷たい風が吹いている。


 病院の前では、患者や見舞客が何事もないように出入りしていた。


 公共施設では子どもたちが元気に走り回っている。


 その地下では、データセンターから送られた熱が静かに街を巡っていた。


 誰も気付かない。


 だが、確かに人々の暮らしを支えている。


 木村は制御室へ向かった。


 大型モニターには、この半年間の運転データが表示されている。


 安定稼働率。


 熱利用率。


 ボイラー起動回数。


 どの数値も、研究室で予測した範囲に収まっていた。


 担当者が笑顔で声をかける。


「木村先生。」


「現場では、このシステムが当たり前になりました。」


「もう誰も特別な設備だとは思っていません。」


 木村は画面を見つめながら、小さく笑う。


「それが、一番うれしいですね。」


 研究は、目立つためにあるのではない。


 社会に溶け込み、当たり前になることが、本当の成功なのだ。


 帰り道。


 教授と並んで街を歩く。


 夕暮れの光が住宅街を照らしていた。


 教授がぽつりと言う。


「木村さん。」


「はい。」


「研究は成功しましたか。」


 木村は少し考えた。


 実証実験は成功した。


 設備も安定している。


 街も問題なく動いている。


 それでも、首を横に振った。


「まだ成功とは言えません。」


「この仕組みが、もっと多くの街で使われるようになって初めて、本当に成功したと言えると思います。」


 教授は満足そうにうなずいた。


「その答えが聞けて安心しました。」


「研究に終わりはありません。」


「一つの答えは、次の問いの始まりです。」


 二人は立ち止まり、街を見渡した。


 遠くにはデータセンター。


 その熱が、見えない配管を通って街へ流れていく。


 木村は思った。


 熱は、ただ移動しているだけではない。


 人と人をつなぎ。


 企業と地域をつなぎ。


 研究と社会をつないでいる。


 あの日、研究室のホワイトボードに描いた一本の線は、今、本当に街の中を流れていた。


共同研究 No.10


『研究は、社会で使われて初めて価値を持つ。』


『そして、その価値は次の研究への問いを生み続ける。』


 木村は研究ノートを静かに閉じる。


 だが、その日の夕方、一本の電話が研究室へ入る。


「木村先生でしょうか。」


「実証事業の話を伺いました。」


「ぜひ、私たちの街でも検討したいのですが。」


 木村は窓の外を見た。


 夕焼けの向こうには、まだ数え切れないほどの街がある。


 研究は終わったのではない。


 ようやく、一歩を踏み出したばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ