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熱の居場所 ―ある研究者の記録―  作者: カワカン
第一部 越境 (Crossing Disciplines)

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第2話 境界

 教授室を出てから一週間が過ぎた。


 木村は以前と変わらず大学で講義を行い、研究室では学生たちと議論を重ね、企業との共同研究にも追われる日々を送っていた。


 生活は忙しかった。


 だが、心のどこかには、あの日データセンターで見た光景が残り続けていた。


 何千台ものGPUが並ぶサーバールーム。


 絶え間なく回り続ける冷却設備。


 そして、監視室の大型モニターに表示されていた数字。


 演算性能。


 GPU使用率。


 消費電力。


 設備電力。


 そのときは気にも留めなかった数字が、なぜか頭から離れない。


「先生。」


 ゼミ生の高橋が資料を持って研究室へ入ってきた。


「共同研究の解析結果がまとまりました。」


「ありがとう。」


 木村は資料を受け取り、机の上へ広げる。


 東亜デジタルシステムズとの共同研究は順調だった。


 AIモデルの学習効率を改善し、GPUの使用率を最適化する。


 演算速度を維持しながら消費電力を抑える。


 企業側も大学側も満足できる成果が少しずつ積み重なっていた。


「先生、このアルゴリズムなら推論速度が約八パーセント改善しています。」


「GPUごとの負荷もかなり均一になりました。」


「学会発表にも十分使えそうです。」


 学生たちは楽しそうに結果を報告する。


 木村も資料に目を通しながら、素直にうなずいた。


「よくできている。」


「このまま精度検証まで進めよう。」


 研究室に安堵した空気が流れる。


 論文になる。


 企業との共同研究も成功する。


 研究者としては理想的な流れだった。


 だが、木村の視線は、資料の一角で止まった。


 GPU消費電力。


 サーバー消費電力。


 その横に小さく記載された設備電力。


 数値そのものは小さい。


 研究結果にも直接関係しない。


 学生たちは誰一人として気にしていなかった。


「先生?」


 高橋が不思議そうに尋ねる。


「何か気になるところがありますか。」


 木村は資料を高橋へ向けた。


「この設備電力だ。」


 高橋は少し考え込む。


「設備電力……ですか。」


「ああ。」


「冷却設備やポンプ、空調設備が使う電力だ。」


「でも、それって設備管理の人たちが見る数字ですよね。」


 近くで作業していた学生も会話に加わる。


「僕たちはAIですし。」


「空調設備は設備工学じゃないですか。」


「環境工学の先生なら詳しそうですけど。」


 誰も木村の考えを否定しているわけではない。


 研究分野が違う。


 ただ、それだけだった。


 木村も、その感覚はよく理解していた。


 AI研究者はAIを研究する。


 設備工学の研究者は冷却設備を研究する。


 環境工学の研究者はエネルギー利用を研究する。


 大学では、それが当たり前だった。


「確かに、その通りだ。」


 木村は静かに立ち上がる。


 ホワイトボードの前へ歩き、マーカーを手に取った。


 まず、大きく「AI」と書く。


 少し離れた場所へ「冷却設備」。


 さらに下へ「環境」。


 三つの言葉は自然と離れて並んだ。


「AIが進歩する。」


 一本の矢印を書く。


 AI。


 ↓


 電力。


「電力を使えば熱が出る。」


 さらに矢印を加える。


 電力。


 ↓


 熱。


「その熱を冷却設備が処理する。」


 熱。


 ↓


 冷却設備。


 学生たちは黙ってホワイトボードを見つめていた。


「先生。」


 高橋が口を開く。


「これって、AIの研究なんですか。」


 木村は少し考えた。


「私にも、まだ分からない。」


 それが正直な答えだった。


「AIの話でもある。」


「設備工学の話でもある。」


「環境工学の話でもある。」


 木村はマーカーを置き、学生たちを見回した。


「だからこそ、どの分野の論文を読めばいいのか分からない。」


 その言葉に、研究室は静まり返る。


 AIならAIの論文を読む。


 設備工学なら設備工学の論文を読む。


 環境工学なら環境工学の論文を読む。


 それは研究者として当然のことだ。


 しかし、自分が見つめている問いは、そのどれか一つでは答えが見つからない気がしていた。


「まずは調べてみよう。」


 木村はパソコンの前へ座る。


「本当に別々の問題なのか。」


「それとも、もう誰かが全部つないでいるのか。」


 検索画面を開く。


 キーボードへ手を置き、最初の言葉を入力した。


 **PUE(Power Usage Effectiveness)**


 エンターキーを押す。


 画面いっぱいに検索結果が表示される。


 木村は、その最初の論文を静かに開いた。





 検索結果には、国内外の学術論文や企業の技術資料が次々と表示された。


 木村は最初に、AI分野ではよく知られた国際会議の論文を開いた。


 最新GPUのアーキテクチャ。


 大規模言語モデルの学習効率。


 分散処理。


 推論高速化。


 消費電力を抑えるアルゴリズム。


 どの研究も、AIをより速く、より賢く動かすための工夫に満ちている。


「やっぱり、この辺りは面白いですね。」


 高橋がモニターをのぞき込みながら言った。


「演算効率を数パーセント改善するだけでも、世界中の研究者が競っていますから。」


「ああ。」


 木村はうなずく。


「AIの研究としては間違いなく最前線だ。」


 論文を一つ閉じ、次を開く。


 GPUの演算効率。


 メモリ転送の最適化。


 通信遅延の削減。


 省電力制御。


 どれも質が高く、参考になるものばかりだった。


 しかし、木村は小さく首を振る。


「違うな……。」


「先生?」


「私が知りたいことは、ここには書かれていない。」


 木村は検索窓へ新しい言葉を入力した。


 **PUE**


 検索結果は一変した。


 データセンター事業者。


 設備メーカー。


 建築設備の学会誌。


 空調メーカーの技術資料。


 AIとはまったく違う世界が画面に広がる。


「先生、それ何でしたっけ。」


「Power Usage Effectiveness。」


 木村はホワイトボードへ式を書く。


 **PUE=データセンター全体の消費電力 ÷ IT機器の消費電力**


「例えば、AIサーバーが百キロワット使い、施設全体で百三十キロワット使えば、PUEは一・三になる。」


「残りの三十キロワットは?」


「冷却設備、ポンプ、空調、照明などだ。」


 高橋は感心したようにうなずいた。


「つまり、この数字が小さいほど効率がいい。」


「そういうことだ。」


 木村は論文を読み進める。


 液浸冷却。


 水冷ラック。


 外気冷房。


 送風制御。


 AIによる空調最適化。


 冷却技術だけでも、一つの学問として成立していることが伝わってくる。


「先生。」


 高橋が少し驚いた声を上げる。


「思っていたより、ずっと研究されていますね。」


「ああ。」


 木村は静かに笑った。


「昨日までの私は、この分野をほとんど知らなかった。」


「設備工学ですから。」


「そうだ。」


 木村は椅子にもたれた。


「AIの研究者はAIの論文を読む。」


「設備工学の研究者は設備工学の論文を読む。」


「それが普通だからね。」


 少し考えたあと、再びキーボードを打つ。


 今度は英語だった。


 **Waste Heat**


 **Heat Recovery**


 **District Heating**


 画面には海外の大学や研究機関の論文が並ぶ。


 データセンターの排熱を地域暖房へ利用する研究。


 ヒートポンプを利用した熱供給。


 地中蓄熱。


 工場排熱との比較。


 都市エネルギーネットワーク。


 高橋は思わず声を漏らした。


「こんな研究まであるんですか。」


「ああ。」


 木村は一つの論文を開く。


「これは環境工学の分野だ。」


 そこにはAIという言葉はほとんど出てこない。


 GPUも書かれていない。


 演算効率にも触れられていない。


 扱っているのは熱だけだった。


 だが、その熱は間違いなくデータセンターから生まれている。


「不思議ですね。」


 高橋がつぶやく。


「同じデータセンターなのに、まるで別の世界です。」


 木村も同じことを感じていた。


 AI分野。


 設備工学。


 環境工学。


 三つとも同じ施設を見ている。


 しかし、それぞれ見ている景色が違う。


 一時間。


 二時間。


 木村は分野を行き来しながら論文を読み続けた。


 AIでは計算性能を追い求める。


 設備工学では冷却効率を追い求める。


 環境工学では熱利用を追い求める。


 どの論文も完成度が高い。


 どの研究も現実の課題を解決している。


 どれ一つとして間違ってはいない。


 夕日が研究室へ差し込み始めた頃、木村はようやくノートパソコンを閉じた。


「ようやく分かった。」


「何がですか?」


 高橋が尋ねる。


 木村はホワイトボードへ歩き、三つの円を書いた。


 左に「AI」。


 右に「設備工学」。


 下に「環境工学」。


 三つの円は、それぞれ独立している。


「研究は、もう十分に進んでいる。」


 木村はそう言うと、三つの円の中央に小さな丸を描いた。


「でも、この真ん中を歩いている研究者を、私はまだ見つけられない。」


 高橋は黙ってその小さな丸を見つめていた。


 それは空白ではない。


 まだ名前の付いていない問いが、そこに静かに横たわっていた。




 翌週。


 木村は再び東亜デジタルシステムズのデータセンターを訪れていた。


 受付を抜けると、共同研究を担当している佐伯が出迎える。


「木村先生、本日はよろしくお願いいたします。」


「こちらこそ。」


 二人は握手を交わし、施設の中へ入った。


 サーバールームへ向かう通路では、床下から低い振動音が伝わってくる。


 何千台ものサーバーが昼夜を問わず動き続けている証だった。


「共同研究の方は順調ですか。」


「ええ。」


 木村は笑顔で答えた。


「学生たちも楽しそうに研究しています。」


「それは良かったです。」


 しばらく歩いたところで、木村は足を止めた。


「今日は、一つお願いがあるんです。」


「何でしょう。」


「冷却設備について詳しい方と、お話しできませんか。」


 佐伯は少し驚いた表情を浮かべた。


「設備ですか。」


「はい。」


「排熱や設備電力について伺いたいんです。」


 数秒考えたあと、佐伯は苦笑した。


「申し訳ありません。」


「その分野は私の専門ではないんです。」


「私はAI開発部門ですので、GPUやサーバーなら説明できますが、冷却設備になると設備管理部門になります。」


「紹介していただくことはできますか。」


「もちろんです。」


 数分後。


 二人は設備管理室へ案内された。


 壁一面の大型モニターには、施設全体の温度や電力使用量がリアルタイムで表示されている。


 担当者が笑顔で迎えた。


「設備管理の中村です。」


「木村と申します。」


 名刺交換を終えると、中村はモニターを指さした。


「こちらが現在の運転状況です。」


「PUEは一・一八。」


「冷却水温は二十二度。」


「ラック内温度はすべて基準値以内です。」


 画面には色とりどりのグラフが並んでいる。


 木村は感心しながら見入った。


「見事ですね。」


「ありがとうございます。」


 中村は誇らしそうに笑う。


「私たちの仕事は、サーバーを止めないことですから。」


 木村は一つ質問した。


「この熱は、この後どうなるんですか。」


「熱、ですか。」


 中村は少し考え込む。


「サーバーから回収した熱です。」


「ああ。」


 中村はモニターを切り替えた。


「熱交換器を通って冷却されます。」


「その先は。」


「その先……ですか。」


 一瞬だけ沈黙が流れた。


「そこは設備の外になりますね。」


 木村は続ける。


「例えば、この熱を地域で利用するような取り組みは。」


 中村は首を横に振った。


「申し訳ありません。」


「そこまでは私の担当ではありません。」


「環境関連でしたら、環境推進室の方が詳しいと思います。」


 木村は礼を言い、佐伯とともに環境推進室へ向かった。


 対応してくれたのは若い担当者だった。


「環境推進室の山本です。」


 会議室へ案内され、資料が机に並べられる。


「弊社では再生可能エネルギーの導入を進めております。」


「CO₂排出量も毎年削減しております。」


 スライドには環境目標や電力構成が映し出される。


 木村は資料を見ながら尋ねた。


「データセンターから出る熱についても調査されていますか。」


 山本は申し訳なさそうに笑った。


「排熱ですか。」


「はい。」


「申し訳ありません。」


「私どもはCO₂排出量や再生可能エネルギーの管理が担当なんです。」


「排熱そのものについては設備管理部門になります。」


 木村は思わず苦笑した。


「なるほど。」


「また設備管理ですか。」


 山本も困ったように笑う。


「部署が違いますので……。」


 建物を出る頃には、夕日がデータセンターの外壁を赤く染めていた。


 佐伯が申し訳なさそうに頭を下げる。


「先生、お力になれず申し訳ありません。」


 木村は首を横に振った。


「いいえ。」


「今日は十分すぎるほど収穫がありました。」


「そうですか?」


「ああ。」


 木村は静かにデータセンターを見上げる。


 AI開発部門。


 設備管理部門。


 環境推進室。


 誰もが自分の仕事に誇りを持ち、それぞれの専門を極めている。


 だからこそ、誰も悪くない。


 それでも、一つだけ見えなくなるものがある。


 AIが生み出した熱が、その後どこへ流れていくのか。


 その問いだけが、どの部署にも属していなかった。


 木村は胸の内で小さくつぶやく。


(問題は、人じゃない。)


(専門という境界そのものなんだ。)


 その確信だけを胸に、木村は大学への帰路についた。




 大学へ戻った木村は、その足で研究室へ向かった。


 時刻は夕方を回っている。


 学生たちはそれぞれ実験や解析を続けていたが、木村の表情を見ると、何かあったことを察したようだった。


「先生、お帰りなさい。」


 高橋が声を掛ける。


「データセンターはどうでしたか。」


 木村はコートを椅子に掛けると、しばらく黙って考え込んだ。


「面白かった。」


「でも、それ以上に考えさせられた。」


 そう言ってホワイトボードの前へ立つ。


 マーカーを手に取り、大きく四つの言葉を書いた。


 **AI開発**


 **設備管理**


 **環境推進**


 **大学**


 学生たちは静かに集まってくる。


 木村は、それぞれの言葉を一本の線で結び始めた。


「今日、私は三つの部署を回ってきた。」


「AI開発部門。」


「設備管理部門。」


「環境推進室。」


「どの部署も、本当に優秀だった。」


 学生たちはうなずく。


 共同研究をしている企業だ。


 技術力が高いことは、普段から感じている。


「AI開発はGPUを知っている。」


「設備管理は冷却設備を知っている。」


「環境推進はCO₂や再生可能エネルギーを知っている。」


 木村は線を引きながら続ける。


「誰も自分の仕事には驚くほど詳しい。」


「でも、一つだけ答えられない質問があった。」


 高橋が口を開く。


「排熱、ですか。」


「ああ。」


 木村はうなずいた。


「AIが生み出した熱は、そのあと社会の中でどう扱われるのか。」


「その質問だけは、どの部署にも担当者がいなかった。」


 研究室が静まり返る。


 学生たちは顔を見合わせる。


 一人の学生が遠慮がちに言った。


「でも、それって普通じゃないですか。」


「会社なら部署が分かれていますし。」


「大学だって学部があります。」


「その通りだ。」


 木村は否定しなかった。


「私も今日までは、それを当たり前だと思っていた。」


 マーカーを置き、机の上へ数冊の本を並べる。


 AIの専門書。


 建築設備工学。


 環境工学。


 どれも今日まで読み込んできた本だった。


「昨日は論文を読んだ。」


「今日は現場を見た。」


「そして気付いた。」


 木村は三冊の本を少しずつ離して置く。


「研究も。」


「企業も。」


「教育も。」


「みんな同じ形をしている。」


 高橋が小さくつぶやく。


「専門ごとに分かれている……。」


「ああ。」


 木村は静かに笑う。


「分けることは悪いことじゃない。」


「専門化があったから、今のAIがある。」


「専門化があったから、高性能な冷却設備もある。」


「環境工学も発展した。」


 そこで少し間を置いた。


「でも。」


 木村は三冊の本の中央へ、一冊の空のノートを置いた。


 表紙には何も書かれていない。


「このノートだけは、まだ誰も書いていない。」


 学生たちの視線が集まる。


「ここには何を書くんですか。」


 高橋が尋ねる。


 木村はノートを開いた。


 真っ白なページ。


 そこへ、ゆっくりと文字を書く。


 **熱の流れ**


 その四文字を見つめながら、木村は静かに言った。


「AIが熱を生み出す。」


「設備が熱を運ぶ。」


「環境が熱を利用する。」


「それぞれの研究はある。」


「でも、その流れ全体を一つの現象として捉えようとする研究には、まだ出会えていない。」


 高橋は真っ白なノートを見つめたまま動かなかった。


「先生。」


「もし、本当に誰も書いていないなら。」


「そのノートは……。」


 木村はゆっくりとうなずく。


「私たちが最初の一ページを書くことになるのかもしれない。」


 研究室の窓から、夕日が差し込む。


 白いノートだけが、柔らかな光を受けて静かに輝いていた。


 その一冊は、まだ研究計画書でも論文でもない。


 だが木村には、それが新しい研究の始まりのように思えた。


 そして、その真っ白な一ページが、この先の長い研究人生を大きく変えていくことを、このときの木村はまだ知らなかった。





 その夜。


 研究室には木村一人だけが残っていた。


 昼間まで学生たちが議論していた机には、論文や専門書が積み重なっている。


 AI。


 設備工学。


 環境工学。


 企業の技術資料。


 データセンターの運用報告書。


 読み終えた資料は、いつの間にか机を埋め尽くしていた。


 木村は椅子にもたれ、静かに目を閉じる。


 教授室で佐藤に言われた言葉が、ふと脳裏によみがえった。


『君は、何を研究したいんだ。』


 あのときは答えられなかった。


 興味はあった。


 違和感もあった。


 しかし、それが研究になるのか、自分でも分からなかった。


 木村は立ち上がり、ホワイトボードの前へ向かう。


 そこには今日まで書き続けてきた図が、そのまま残されていた。


 AI。


 設備管理。


 環境工学。


 企業組織。


 そして中央には、「熱の流れ」という四文字。


 木村は図をしばらく見つめる。


 不思議なことに、もう迷いはなかった。


 論文を読んだ。


 現場を歩いた。


 担当者にも話を聞いた。


 その結果として、一つだけ確信できることがある。


 誰も間違っていない。


 誰も怠けているわけでもない。


 それぞれが、自分の専門分野で世界最高を目指している。


 だからこそ、この社会は発展してきた。


 木村は静かにつぶやく。


「専門化は、必要だった。」


 その言葉は、自分自身へ言い聞かせるようでもあった。


 AIが発展したのも。


 冷却技術が進歩したのも。


 再生可能エネルギーの利用が広がったのも。


 専門分化という仕組みがあったからだ。


 だが、その一方で失われるものもある。


 木村はホワイトボードに一本の長い線を引いた。


 AI。


 ↓


 電力。


 ↓


 熱。


 ↓


 冷却。


 ↓


 地域。


 ↓


 社会。


 一本の流れ。


 だが、この流れはどの論文にも載っていなかった。


 AIの論文は「熱」で終わる。


 設備工学は「冷却」で終わる。


 環境工学は「熱利用」から始まる。


 一本の流れが、専門の境界で途切れてしまう。


 木村はマーカーを置いた。


「私が研究したいのは……。」


 誰に聞かせるでもなく、静かな声で続ける。


「熱じゃない。」


「AIでもない。」


「設備でもない。」


「社会の中を流れるエネルギー、そのものだ。」


 その瞬間、胸の奥にあった霧が晴れたような気がした。


 研究テーマとは、流行を追いかけることではない。


 誰かより先に見つけることでもない。


 自分が何年かけても向き合いたい問いを見つけることだ。


 木村は机の上の研究ノートを開いた。


 一ページ目には何も書かれていない。


 ゆっくりとペンを走らせる。


 **研究課題**


 その下へ、迷いなく書く。


 **AIデータセンターにおける熱エネルギー循環の研究**


 文字を書き終えると、木村はしばらくノートを見つめていた。


 完成には十年かかるかもしれない。


 二十年かかるかもしれない。


 途中で失敗するかもしれない。


 それでも構わなかった。


 初めて、自分自身の問いを見つけたのだから。


 研究室の時計が、静かに時を刻む。


 木村はノートを閉じ、小さく息を吐いた。


「ここから始めよう。」


 誰に聞かせるでもないその一言は、静かな研究室にゆっくりと溶けていった。





 翌朝。


 研究室へ入ると、窓から差し込む朝日がホワイトボードを照らしていた。


 昨日書いた図は、そのまま残っている。


 AI。


 設備管理。


 環境工学。


 そして、それらを結ぶ一本の線。


 **熱の流れ**。


 木村はコーヒーを机に置き、静かにホワイトボードを眺めた。


 不思議と迷いは消えていた。


 答えはまだない。


 だが、問いだけははっきりしている。


 研究者にとって、それは十分な出発点だった。


 ほどなくして高橋が研究室へ入ってきた。


「おはようございます。」


「おはよう。」


 高橋はホワイトボードを見るなり笑った。


「消さなかったんですね。」


「ああ。」


「もう少し、このままにしておこうと思ってね。」


 木村は机の上に積まれた専門書へ目を向ける。


 AI。


 建築設備工学。


 環境工学。


 昨日まで、それぞれ別の世界の本に見えていた。


 今は違う。


 どれも同じ物語の一部に思えた。


「先生。」


「昨日の研究ノート、もう書き始めたんですか。」


「ああ。」


 木村は笑いながらノートを開く。


 一ページ目には、昨夜書いた研究課題がある。


 その下には、今日の朝になって書き足した一文があった。


 **『まずは、知っている人に会うこと。』**


 高橋はその文字を見つめる。


「研究って、実験から始まるんじゃないんですね。」


「もちろん実験も大事だ。」


 木村はうなずく。


「でも、その前に知らなければならないことがある。」


「自分が知らないことを知っている人が、どこにいるのか。」


 そのとき、パソコンにメールの着信音が鳴った。


 差出人は佐伯だった。


 件名は、**『ご紹介したい先生がおります』**。


 木村はメールを開く。


> 木村先生

>

> 昨日はご来訪ありがとうございました。

>

> 設備管理部門でも相談しましたが、ご質問の内容は弊社だけでは十分にお答えできませんでした。

>

> そこで、以前共同研究でお世話になった先生をご紹介いたします。

>

> ○○大学工学部 佐々木教授。

>

> データセンター排熱と地域エネルギー利用をご専門とされています。

>

> もしご興味がございましたら、お力になっていただけるかもしれません。


 木村はメールを読み終えると、小さく笑った。


「先生?」


 高橋が不思議そうに尋ねる。


「昨日の続きが来た。」


「続き?」


「ああ。」


 木村は画面を見つめたまま答える。


「どうやら、私の知らない世界への案内人が見つかったらしい。」


 高橋は少し身を乗り出す。


「会いに行くんですか。」


 木村は迷うことなくうなずいた。


「もちろんだ。」


「昨日までの私は、AIの研究室だけで答えを探していた。」


「でも、答えは別の研究室にもある。」


「だったら、自分から学びに行けばいい。」


 木村は新しいメールを作成する。


 宛先に「佐々木教授」と入力する。


 カーソルが静かに点滅する。


 研究者同士の一通のメール。


 それだけのことだった。


 だが、その一通が、木村の研究人生を大きく変える最初の扉になる。


 木村は深く息を吸い、ゆっくりとキーボードを打ち始めた。


 専門の境界を越える研究は、一つの論文から始まるのではない。


 一人の研究者が、もう一人の研究者の扉を叩くところから始まるのだった。


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