婚約解消したら借金を背負ってしまいました
オスカー第三王子は城の大広間で告げた。
「済まない、シャーロット。僕との婚約を解消して欲しいんだ」
集まった人々は驚いて言葉を失った。
大広間には、国王陛下夫妻、婚約者のシャーロット・ベネット公爵令嬢と、その父親ベネット公爵がいた。
オスカーの腕にはドロシー・モーム男爵令嬢がぶら下がっている。
「婚約解消は構いませんよ。ただし……」
ベネット公爵の言葉に、オスカーとドロシーは嬉しそうに顔を輝かせた。
「今まであなたにかけた莫大な経費は、返して頂きます」
◇◇◇◇◇◇
王立学院で出会ったオスカーを思い出すと、ドロシーは今でも胸がドキドキする。
貧乏な下級貴族の娘として生まれ、人生の中でたった三年だけ許された豪華な学院生活。
田舎で育ったドロシーには夢のような時間だった。
ドロシーは父親に言われたのだ。
「パパはママと出会って、初めて人生が色づいたように感じたんだ。お前にもそんな素敵な王子様と出会ってほしい」
生活費を切り詰めて送り出してくれた父親。
そして出会ったのだ、文字通りの王子様に。
ドロシーは同じように目立たない女子生徒と、友だちになり静かに過ごしていた。
しかしドロシーは都会でも注目される美少女だった。
容姿だけで見るとそこまで美人ではない。
だが黒褐色の髪は光の加減で何色にも見え、神秘的な藤色の瞳は目を引いた。
歪な配色に、見るとなんとも言えない不安定さがあり、妙に人の目を離さない所があった。
もしなにもなければドロシーは学院の人気者になり、条件のいい家に嫁げただろう。
だが入学してすぐに出会ったのだ。オスカーに。
オスカーはドロシーを見てすぐに恋に落ちた。金髪碧眼という絵に描いたような王子様にドロシーも惹かれた。そして付き合うようになったのだ。
もちろんオスカーに婚約者がいることを知らされたが、婚約者のシャーロットは二人に関心がなかった。
オスカーは外交官を目指しているだけあって、会話が達者だった。エスコートも素晴らしく、ドロシーは学院で羨望の的になった。今までのドロシーの人生からは想像もつかないほど、輝く日々を過ごしたのだ。
洒落た会話を楽しみ、話題のカフェに行き、素敵な贈り物を身につけた。
オスカーは学院ではトップの成績を維持する秀才で、やると決めたことは、最後までやり遂げる努力家でもあった。
三年連続生徒会長を務め、彼の仕事ぶりは高く評価されていた。
二人の前に立ちはだかる恋の障害、「オスカーの婚約」は悩みの種だった。だがオスカーは言った。シャーロット公爵令嬢との婚約はただの政略結婚。だから簡単に解消できると。オスカーはドロシーに対して誠実だった。そしてドロシーは信じたのだった。
◇◇◇◇◇◇
オスカー第三王子は、自分の婚約を解消しようと、関係者を集め、城の大広間で告げた。
「済まない、シャーロット。僕との婚約を解消して欲しいんだ」
集まった人々は驚いて言葉を失った。
大広間には、国王陛下夫妻、婚約者のシャーロット・ベネット公爵令嬢とその父親ベネット公爵がいた。オスカーの腕にはドロシー・モーム男爵令嬢がぶら下がっている。
オスカーの二人の兄リチャードとジョージ、そして隅の方にドロシーの父親モーム男爵が真っ青になっていた。宰相のサミュエルは口がきけなくなっていた。
オスカーはドロシーの手をそっと取り、慈しみをこめて囁く。
「僕はこの美しいドロシーを愛してしまったんだ」
モーム男爵は泡を吹いて崩れ落ちた。
「誰か椅子を持て」
国王陛下の声に、侍従が椅子を持ってきて、男爵を座らせようとする。しかし国王の前でとてもそんな真似はできない。そこを国王とベネット公爵の二人がかりで座らせた。シャーロット・ベネット嬢が、部屋の隅にあった水差しを持ってきて、そのまま男爵に飲ませた。男爵は胸に水をこぼしながらごくごくと飲んだ。
やっと落ち着いたと思うと、なにか言いたげに口を開いているのだった。
国王は許可した。
「よい、今日はもう無礼講だ。みな思ったことを自由に話せ」
「ドロシー、なんて恐れ多いことを……」
「待ってくれ、モーム卿。僕が彼女を好きになってしまったんだ。ドロシーは悪くない」
「ごめんなさい、パパ……お父様。私がオスカーを好きになってしまったばかりに」
男爵は厳しく言った。
「ドロシー、殿下にはベネット公爵令嬢という婚約者がいらっしゃるんだ。控えなさい」
「大丈夫だ、卿。婚約者と言ってもただの政略で、お互いに気持ちはないんだ。すぐに解消できる」
オスカーがそういうと、大広間になんとも言えない空気が漂った。
「まあ、我が公爵家は婚約を解消しても構いません。むしろ……、シャーロットもいいだろう?」
シャーロットは頷いた。
オスカーが喜びの声を上げた。
「ほらな。僕たちの関係は義務的なものなんだ。よかったドロシー、これで一緒になれる」
「オスカー、嬉しい」
オスカーとドロシーの二人は抱き合った。
出し抜けに公爵は言った。
「そうなると、今までかかった経費は返して頂きます」
オスカーは口を開けしばらく固まっていた。
「経費ってなんだ?」
「経費は経費です。オスカー第三王子殿下が毎月使っている様々な費用、学費、殿下が公爵家に婿入りする予定となった、六年前から十八歳となった今まで公爵家で負担していました」
「えっと、どれくらい?」
ベネット公爵の書記がざっと計算した。
「あくまでも試算ですが、殿下には毎月1000ポンド支給しています。一年間で1万2千ポンドですね」
庶民の月給の三倍の金額を、オスカーは毎月知らずに使っていた。
「それが六年間で、7万2千ポンドです。さらに毎年の特別経費、中等部と高等部の学費六年間合わせて34万5千ポンド。
他にも臨時の出費がありました。外交官になるのだから留学したいと行かれましたよね。隣国へ半年間。警備が大変で15万ポンドほどの出費です」
オスカーは途方に暮れた。
費用は合わせて56万7千ポンド。
天文学的数字だ。
この国の平民の年収は良い方で、6千ポンドくらいだ。つまり平民が百年間近く働いて手に入れる金額と、同じ借金を背負ったのだ。
「本当は慰謝料も払ってもらいたいんですが、たぶんこれ以上の支払い能力がないので、この辺で手を打ちましょう」
なぜか公爵の代わりに、書記が手を打ってきた。
しかし実際、支払い能力はないのだ。公爵も仕方がないとため息をついている。
「慰謝料? この上、慰謝料まで取ろうとするなんてひどいじゃないか」
オスカーは言った後、周囲の冷たい視線に耐えきれず、赤面して下を向いた。
「す、すまない。だがその経費というのはなんだい? 知らなかったから……」
オスカーは婚約を解消するのは、もっと簡単なことだと思っていた。
手続きも生活費も、気づけば誰かが整えてくれる。
そう信じて疑わなかった。
自分がするという発想がなかったのだ。
周囲はその都度、教えていたのに。
オスカーは無意識に自分には必要ないと思い、大事なことを聞き流していたのだ。
「はっ」
それまで黙っていた王妃が、自戒を込めて笑った。
「つまりこういう事でしょう。
皆でオスカーを甘やかし駄目にした。
そのため誰かが代わりに、なんとかしてくれると考えるような子どもになったと」
◇◇◇◇◇◇
オスカー第三王子は、宰相サミュエルの、今は亡き妹リリーの息子だ。
宰相サミュエルと、国王エドワード、そして王妃キャサリンの三人は、学生時代から仲良くいつも一緒だった。
王国は小さく国の力が弱いため、貧しい王族を貴族が支えている。
エドワードとキャサリンは結婚し、二人の子どもに恵まれた。二人は地道に働いた。
宰相サミュエルには、蜂蜜姫という愛称の、年の離れた妹リリーがいた。
リリーは美しく、求婚者が絶えなかったが、体が弱かったため、結婚を考えていなかったのだ。
不在がちの両親の元で育ったサミュエルは、たった一人の妹を溺愛した。
そこへ遊びに来た国王エドワードに、リリーは一目惚れしたのだ。
リリーの願いを叶えてやりたいサミュエルは、国王夫妻に頼み込んだ。
小さな王国に側室制度はなかったが、勝ち気なサミュエルが頭を下げ続ける姿に根負けし、いくつかの条件と引き換えにリリーは第二夫人になった。
リリーは満足にお務めをはたせなかったが、素直で優しい心根の女性で、王室全員に愛された。
そんなリリーが奇跡的に妊娠した。もちろん国王の子どもだ。
しかしサミュエルには喜びよりも恐れの方が大きかった。
出産に挑んだらリリーの体はもたないだろう。
子どもは諦めようと何度も説得した。サミュエルはリリーを失いたくなかったのだ。だがリリーはかたくなに産むと言い張った。恐ろしいことにひどい難産だった。リリーは最後に「子どもの名前は『オスカー』なんてどうかしら」、と言い残し、名残惜しげに亡くなったのだ。
リリーの死は人々をどん底に突き落とした。特にサミュエルのやつれようはひどく、それでも残されたオスカーを大切に育てた。
人々はちゃんと考えてオスカーに接した。自分なりに優しく、厳しく指導した。特にサミュエルは心を鬼にしたのだ。だが全員がどこかで、「母親を亡くした可哀想な子」と思ったのだ。誰かが厳しくしても、誰かが甘くしてしまっていた。
そしてこの婚約解消劇が起こったのだ。
王室にとってオスカーは「後から追加された子ども」だ。
当然その子を育てるには、別の所から予算を都合しなければならない。
オスカーが生まれてから十二歳になるまでは、サミュエルの実家が工面した。
そしてオスカーの将来を憂えたサミュエルは、方々に頭を下げて、ベネット公爵家という入り婿先を探し当てたのだ。
第一王子のリチャードはとうぜん国王になる。人手が足りないから、第二王子ジョージは補佐だ。だがオスカーを「雇用する」余裕は王家にない。
サミュエルを気の毒に思ったベネット公爵は、とりあえず婿として引き取った。
サミュエルと国王は喜び、ベネット公爵家に国の開発事業への、特別な入札の権利を与えた。
そしてオスカーが人当たり良く、勉強が得意で、語学が堪能という面を見て、公爵家専属の外交官として活躍させることにした。
そのための教育も授けたし、経験もさせてやった。
もしオスカーが公爵家に婿入りしないのであれば、そもそも高等学校にすら行けなかったのだ。
おそらく軍に入れられ、平民として暮らしたであろう。
オスカーが経費として請求された金額は、「公爵家の婿になるにあたり必要な教育を授けるための費用」だ。そして本人の適性を見て、「外交官として働けるように授けた教育費用」も追加された。どちらも公爵家に婿入りするからこそ払った費用で、それをやめるなら返してもらうのは当然だった。
「では僕は学院に通う資格がなかったのか? 公爵家と婚約していたから行っていただけで」
「そうです」
なぜか公爵家の書記が答えた。なぜなら公爵はこの説明が終わる頃には疲れ切っていたからだ。
「一人前の外交官にするために出していました。三人目の学費なんて出す余裕、王室にはないでしょう」
「いや、僕は特別に愛されているから、大事にされているんだなと思っていた」
それは間違いない。オスカーは大事にされている。だがみなそのことを後悔していた。
「愛があってもお金が湧くわけじゃないでしょう」
「いや、愛がなければお金なんて意味がないだろう」
国王はオスカーのその発言に眉をひそめた。
「オスカー、それでどうする。この話を聞いても解消したいか」
オスカーは、縋り付くように見てくるドロシーを見た。オスカーの胸に借金の件の不安はあったが、ドロシーと約束したのだ、一緒になると。
「はい。私は愛に生きたいのです」
「そうか……」
ドロシーの父親、モーム男爵が必死に声を上げた。
「陛下」
「ならぬ」
「陛下!」
国王はドロシーに尋ねた。
「モーム男爵令嬢、そちも同じ意見か」
「はい!」
「では、オスカーとモーム男爵令嬢の婚姻をここに認める」
モーム男爵がまた崩れ落ちた。
オスカーとドロシーは手を取り合って、真実の愛が結ばれたのを喜んだ。信じれば夢は叶うのだ
「モーム男爵令嬢の婚姻に関しては、余が口を出すことではないが、此度は第三王子と公爵令嬢の、長きにわたる婚約に、影響を与える不祥事を起こした責任を取らせる。モーム男爵にはこの後話し合いの機会を設ける」
国王がそう発言した。書記たちが気の毒そうに、座り込んだ男爵を見ながら、まずはベネット公爵家との婚約解消の手続きを始め、そしてモーム男爵家との婚姻手続きに入った。
その間、オスカーはまるで自分には関係がないという態度で、ドロシーと談笑していた。
王妃と元婚約者シャーロットが、気の毒そうにドロシーを見る。
「いつでも傷つくのは女なのよ」
王妃の言葉の意味を、その時のドロシーはわからなかった。
オスカーは好人物と見られていたが、この婚約解消劇で、社会性が著しく欠けていることが浮き彫りになった。
その原因は、結局の所、宰相サミュエルを始め、家族が世話を焼いてしまうという点だ。
それがわかり皆一斉に手を引いたところ、今度はドロシーという世話役が登場したのだ。そんなドロシーの存在に、腹を立てるより、心配する人間の方が多かった。
オスカーとドロシーの婚姻が、書類上も成立すると、国王が最後の申し渡しをした。
「さてオスカー、これから夫婦二人で借金を返していくわけだが、お前にはルールがある。
腐っても王族だ。体を売ることは許可しない。
ああ、ドロシー嬢……夫人は許可する」
オスカーは国王の発言の意味がわからず、冗談だと思って笑った。
「やだなあ、そんな商売はしませんよ。僕は外交官として働けますから。高給取りです」
またしても大広間に沈黙が落ちた。
「……どこで?」
皆を代表して元婚約者のシャーロット嬢が聞いた。
「だから、ベネット公爵家? それとも王宮かな?」
オスカーは自分のことなのに、まわりに質問を投げかけた。
長兄のリチャードが説明した。
「先ほど聞いたであろう。婿入りするなら、外交官として働かせてやろうという話だ。ベネット公爵家に婿入りしないなら、『オスカー』はいらないんだ」
オスカーは何のてらいもなく言った。
「だったら王宮で働きますね」
宰相のサミュエルは土気色の顔で答えた。
「お前を王宮で雇う予算がないから、外部に頼み込んだのだ」
そう言われてオスカーは、始めて驚いたように口を開けた。
「え、じゃあ、僕はどこに行けばいいんですか?」
「ジョージ、お前が世話をしろ。ただし醜聞は起こさないこと。以上」
国王は第二王子のジョージに告げた。大広間からオスカーとドロシーの二人だけ出される。
「オスカー、大丈夫? みんなひどいことを言って……」
「教育だけは一杯受けているからね。なんとかなるよ」
「私も働くわ。妻として」
「ふふふ、僕は夫としてだね」
二人は嬉しそうに見つめ合った。
ドロシーは婚約解消が思ったより上手く行かなかったことに、不安を感じている。
だがオスカーと一緒になれたのだ。これから自分が働いて支えようと決心していた。
努力すればなんとかなると、この時まで信じていたのだ。
結婚する前のオスカーとドロシーには、「オスカーの婚約」という障害があった。二人は自覚していなかったが、それは二人の愛を燃え上がらせる恋のエッセンスとなっていた。その障害がなくなり、物足りなくなるはずの関係に、新たに「借金」という、恋のエッセンスが追加されたのだ。
二人は燃えていたが、なぜ燃えているのかという客観性がどちらにも欠けていた。
ドロシーがオスカーの借金のことを知っても、結婚をためらわなかったのは、オスカーから多大な愛を受け取っていたからだ。
田舎から出てきた何の取り柄もないドロシーを、オスカーは見つけてくれて、愛してくれた。王都の華やかな世界に招き入れ、人が羨む三年間を送らせてくれた。ドロシーが喜びそうなことはなんでもしてくれたのだ。その思い出はドロシーの中で宝石のようにきらめいていた。だからオスカーの借金を背負った。オスカーから受けた愛情を返したかったのだ。
一方、オスカーはつねにまわりから特別に愛され大事にされてきた。だから自分が愛する対象、つまりドロシーを見つけた時に、自分がされたように惜しみなく愛を注いだのだ。それが一般的には過剰なもので、ただの男爵令嬢には過ぎたものだという感覚がわからなかった。
それ故、次にオスカーが莫大な借金を背負った時、協力しようとのドロシーからの申し出を当然のこととして受け取ってしまった。今までそうやって愛されてきたからだ。
男爵令嬢に過剰な愛を無責任に注ぎ、そうされた男爵令嬢が過剰な愛を責任を持って返そうとした。悲劇だったのは、男爵令嬢にはそれが過剰だとわかっていたのに、オスカーには当たり前のことだったことだ。
二人は大広間の前で、ドロシーの父親、モーム男爵を長い時間待った。
男爵はひどい顔で出てくると、まずドロシーとオスカーの、王立学院の退学手続きを取ると言った。
「なんで、そんなことを。あと半年で卒業なのに」
「そうよ、パパ。卒業パーティに出られなくなっちゃう」
二人は反対した。
卒業前には豪華な記念パーティが開かれ、オスカーは卒業後に身につける予定の、式典用の派手な外交官服で出席する予定だ。ドロシーにはドレスを贈る予定で、デザインや布地はもう決まっている。明日にでも仮縫いだ。そしてアクセサリーは王妃に頼み込んで借りる予定だった。
このパーティは一生の思い出になるものだ。
しかしモーム男爵は、にべもなく却下した。
オスカーの衣装はベネット公爵家に返却、ドロシーのドレスはキャンセルすると言ったのだ。
卒業資格の有無で、就職先も変わってくるからとオスカーは主張した。
しかし男爵は、王立学院を卒業してつくような高収入の仕事には、絶対的に身元保証が求められることを説明した。
オスカーは王家から出され、公爵家からも外された以上、そういった職業には就けないのだ。
「そんなことはわからないだろう」
オスカーが文句を言うと、男爵ははっきりと言った。
「いいえ、駄目です。
率直に言います。
卒業半年前に、衝動的に婚約を解消するような人間は信用されません。
あなたは公爵家で働くと契約したんです。
だからこそ六年間かけて、天文学的なお金をつぎ込んでくれた就職先を、今度は「他に好きな人ができたから」という理由で蹴ったのですよ。
百歩譲って、もしそうならドロシーと出会った三年前に、婚約を解消しても良かったはずです。こんなぎりぎりに。不誠実な上に支離滅裂だ」
「それは、卒業後すぐにドロシーと結婚したかったから、半年前なら丁度良いと思って……」
「誰にとって丁度いいんですか。シャーロット嬢は結婚半年前に、婚約を解消されたんですよ。そんな無計画な人間に、大きな仕事を任せられますか」
オスカーは内心では、「公爵令嬢」なのだから問題ないだろうと思ったが、怒った男爵にそれ以上反論できなかった。それでも食い下がると、こう言われた。
「それならご自分の学費はご自分で出して下さい」
急にオスカーはしおらしくなった。口ごもりながら頼む。
「その、卿。出してくれないだろうか」
「我が家は地主貴族なんですよ。自分で畑を耕すほど貧しい。ドロシーの学費はどこから出たと思いますか?」
「え、地代収入、とか」
「ドロシーの持参金です」
さすがのオスカーも水をかけられたように頭が冷えた。
この国では女性は持参金がないと結婚できない。だから必ず用意するし、使い込みをするなどよっぽどの場合だ。
「妻が早くに亡くなって、ドロシーはたった一人の子どもです。可愛くて、可愛くて、仕方がない。それでも持参金を用意するのは至難の業でした。それぐらい貧乏なんです。
でも、あの子には幸せになって欲しかった。
だから死に物狂いで働いて、王立学院に行かせたんです。親のひいき目を抜きにしても可愛い子です。
身分の高い方に見初められて、苦労のない人生を送って欲しかった。
けれど学費がどうしても工面できなかった。男爵家の負担する額なんて、そちらさんの四分の一程度のものですよ。でも無理だったんです。
だから、――持参金を使い込んだんです。
恋愛結婚なら、持参金は問題にならないかもしれないと思って。
必要なら結婚が決まってから、追加で納めようと……。
あの子には、ただ幸せになって欲しかったんです」
オスカーは言葉を失った。
オスカーは莫大な借金を背負ってしまったが、それでもなんとかなるだろうと脳天気に思っていた。ドロシーに苦労をかけるのは、もちろん申し訳ないと思っている。
だがどこかで、二人で苦労するのも絆が深まるような、甘い気持ちでいたのだ。
目の前で、自分の娘が、莫大な借金を背負わされるのを見る父親の気持ちに、まるで思い至らなかったのだ。
『幸せになって欲しかった』
当たり前の言葉だ。
それを裏切ってしまった。
言われるまで気がつかなかった自分の浅はかさに、背筋が冷たくなった。
◇◇◇◇◇◇
男爵と、第二王子ジョージが手伝ってくれて、オスカーとドロシーの二人は学院の退学手続きをした。連絡は済んでおり手続きはすぐに終わった。
振り込んであった後期の学費は、ジョージが取りまとめて返済に回すことになったのだ。
オスカーは兄の紹介で働き、ドロシーと別々に生活することになった。借金がある以上、夫婦で暮らすのは無理だったのだ。
オスカーが紹介された勤め先は、小さな会計事務所だった。
安定して給料は上がるものの、最初は薄給だ。
オスカーは給料の額を聞いて愕然とした。週給150ポンドだったのだ。
おまけに生活費は別にかかるため、安い寮を借りて生活したらあまり手元に残らなかった。
借金は56万7千ポンドだ。給金全額払っても80年間はかかる計算だった。
「兄上、もう少しなんとかならないでしょうか」
「お前は醜聞付きの王族だからな。下手なところには紹介できない。
ここは勤務年数が増えれば、飛躍的に給料も上がるから、ちょっとの辛抱だ」
オスカーはどうしても納得できなかったが、世間を知らない以上従うしかなかった。
本当は軍隊に放り込みたいとジョージは思っていたが、社会で勉強させたいという気持ちが勝ったのだ。
オスカーは空いた時間を使って、学友たちに連絡を取った。気安い仲間だが、求職となると返事は芳しくなかった。
「醜聞があると大手は無理だよ」
「公の場に出すのは難しいから」
こんな風に断られた。
皮肉なことに、王立学院の卒業生は皆大手や公的機関など、公の場に出る華やかな仕事についていた。裏街道に入ってしまったオスカーに紹介できる仕事はなかったのだ。
それでもいいとお願いし、紹介してもらった仕事は皆、薄給だった。
オスカーは語学が堪能なため通訳の仕事を探した。
翻訳の仕事も探したが、両方上手く行かなかった。依頼人が満足できる結果に仕上げるには、仕事についての高度な業界知識や教養が必要だったのだ。例えるなら、料理をしたことがない人間に、外国から来た料理専門家の通訳は務まらない。法律の知識がない人間に、国別特許事例集の翻訳は無理なのだ。
それでも苦労して片付けても、たいした収入にはならない。だが他に選択肢もなく慣れないマルチワークをこなした。
オスカーは今まで、派手で注目を浴びる表舞台で活躍してきた。裏方に回されて初めて、そういう仕事があることを知った。そして作業量が多く、神経を使い、それでいてたいした収入にならないことを痛感したのだ。
人間関係も変化した。最初の頃、友人は仕事を紹介してくれたが、何度も行くうちに困惑の表情を浮かべるようになった。なかには居留守を使う者もでてきた。求職をお願いした時に、友人という対等な関係ではなくなったのだ。
◇◇◇◇◇◇
オスカーと別れた後、ドロシーは地元に帰る父親と名残を惜しんでいた。
ドロシーは華やかな王都に残って、友人らの伝手をたどって、侍女の仕事を探すつもりだ。
基本的に貴族令嬢や婦人が勤める侍女は、高給の部類だ。
「ドロシー、お前に聞いて欲しいことがある」
男爵がドロシーに話しかけた。
「なあに? パパ」
ドロシーはこれからの日々を思い、張り切っていた。
「ドロシー。お前はこれから辛い日々を送る。だがね、どんなに辛くても、ママのお墓に顔向けできないことをしてはいけないよ」
「嫌ね、なんのこと?」
「いいから聞くんだ。どれだけ辛くてもだ。耐えなさい。決して、ママのお墓に顔向けできないことをしてはいけない」
いまや男爵の目には涙が溢れていた。
「絶対にパパはお前を見捨てないから。パパも何とかするから。諦めてはいけないよ」
男爵は何度も何度も繰り返した。
ドロシーには父親の言っている意味がわかった。
だがそれを言っている父親の気持ちまでは、わからなかった。
だから大げさに感じて止めようとした。
だが何度も繰り返す父親の姿は、ドロシーの胸を打ち、ドロシーの心の中に残った。
この先何度もこの時のことを思い出し、ドロシーを支える糧になったのだ。
◇◇◇◇◇◇
ドロシーは仕事を求めて、一人目の友人マーガレットの家を訪ねた。
事前に約束してあったのに、不在だと追い返された。驚いたことに扉も開けなかったのだ。マーガレットはそんなことをする子ではないので、なにか失敗をしたのかもしれないと、謝罪の手紙を書いた。
次に二人目の友人エディスを訪ねた。応接間に通され話していると、妙に周りの使用人の視線が冷たいのが気になった。仕事を探していると話すと、エディスは張り切って「紹介してあげる」と席を立ってくれた。ところが大分たって、男性の使用人と一緒に戻ってくると言ったのだ。「人手は足りている」と。エディスは済まなさそうに目をそらして言った。そのままその男性の使用人に追い出されたのだ。
何が悪かったのだろうと、落ち込んで最後の友人アイリスを訪ねた。
アイリスは裕福なビネガー子爵家の令嬢で、とてもおとなしいが、明るく社交的なドロシーと気の合う友人だった。
アイリスにお願いすると、その場でアイリス付きの侍女として雇ってくれることになったのだ。
おとなしいアイリスは、自分のような人間が、友人の役に立てて嬉しいと控えめに笑った。
ドロシーはいつも後ろをついてきたアイリスが、妹のように可愛くて仕方なく、侍女になると積極的に働いた。
給金も良く、住み込みで生活費はかからなかったので、ほとんどを借金の返済に回せたのだ。
一つだけ気になったのは、ビネガー子爵家の使用人たちがとても冷たく、ドロシーが孤立していたことだった。だが仕事に支障が出るような、意地悪めいたことをしてくることはなかった。
アイリスには婚約者アーヴィンがいる。
アイリスとアーヴィンはとても初々しく、会っている間はほとんどしゃべらなかった。
赤くなってうつむき、お互いになにか言おうとして照れて黙ってしまう。
その繰り返しでドロシーにはもどかしかった。
そんな二人を周囲は微笑ましく見守っており、ドロシーが仲を進展させるためにアドバイスをしようとすると、まわりの使用人にはっきりと止められてしまうのだ。
オスカーは外交官を目指すだけあって、口が達者で、エスコートもさりげなく、まさにうっとりとする、絵に描いたような王子様だった。そのオスカーに慣れているドロシーから見ると、アイリスとアーヴィンは子どものお遊戯のようで、ドロシーは心の中で声援を送ると同時に、まどろっこしいと思うのだった。
裕福なアイリスの家は、商売をしており、父親は跡継ぎのアイリスを働かせる気はなかった。そのためしっかりしつつ、経営には口を出さない婿を探していたことがあった。
そんな時にアイリスはアーヴィンと出会ったのだ。
ドロシーがオスカーと街でデートする時に、よく護衛をしていたのがアーヴィンだ。
アーヴィンはオスカーの護衛の中でも末端で、騎士ではない。ただの馬車を守る兵士だ。馬車の護衛は任務中そこから離れることができない。
アイリスは偶然街で出会ったドロシーに話しかけ、その姿を見たアーヴィンは、アイリスの楚々とした所作に一目惚れをしたのだ。
アーヴィンは、アイリスに見とれて真っ赤になった。
アイリスはそれを見て、熱中症になったのではと心配し、自分のハンカチを噴水で濡らし、アーヴィンに渡したのが出会いだった。
アーヴィンは意中の女性が自分を心配してくれたのに舞い上がり、何も言えず、だが熱がこもった目でアイリスを見つめた。見つめられたアイリスは胸がドキドキし、その日以来アーヴィンのことが頭から離れなくなってしまったのだ。
アイリスは父親から婿探しの話を持ちかけられた時、すぐにアーヴィンの顔が頭に浮かんだ。
その様子を見た父親は話を聞こうとしたが、恥ずかしがり屋のアイリスはどうしても話せず、結局侍女からアーヴィンの話を仕入れたのだ。
アイリスの父親ビネガー子爵は、「存外掘り出し物かもしれん」と思った。アーヴィンは貴族ではないが裕福なミドルクラスの出身で、家庭も親戚も余裕がある。教育も受けている。
個人的なことを掘り下げると、真面目で誠実、そして思慮深い性格が浮かび上がってくる。元々裕福なら子爵家の金に目がくらむ可能性は低くなるし、女性関係で悪い話も聞かない。
なにより子爵家や経営に口を出すような実家と、紐付いていない点が良かった。
最初の顔合わせでうまく喋れず黙ったままなのも、パパ……いや父親から見て評価が高かった。
パパとしては、ぺらぺら女を口説く男よりも、うちの可愛くて綺麗で美しいアイリスの前で、赤くなって上がるほうが良かった。「気持ちがわかるぞ」と思ったからだ。
アーヴィンとの顔合わせの後で、アイリスが舞い上がって彼を誉めるのは、子爵にはおもしろくなかった。
だが大人しいアイリスが、珍しくはしゃいで「お父様、大好き」なんて言うのは悪くない、と子爵は思った。
アイリスとアーヴィンの関係は上手く行っているように見えた。
ところがそんな二人の関係を、実はずっとアーヴィンは悩んでいたのだ。
そして大きな決断をした。
「アイリス様。私は戦地に行って武勲を立てようと思います」
アイリスは真っ青になった。隣国の戦線が拡大している情勢だ。確かに武勲は立てられるだろうが、死ぬかもしれないのだ。
「ずっと考えていました。
このままでは、あなたに選ばれたから、この子爵家の婿になるという情けない人間のままです。
私は武勲を立て一角の人物になりたい。
そして私の側からもあなたを選び、対等に並び立ちたい。
あなたに相応しくありたいのです」
「わ、私はそんなこと気にしません。戦争なんて危険です。あなたにもしものことがあれば、私は」
「申し訳ありません……。ですがこのままではあなたに、いえ自分に顔向けができないのです。小さい男だとお思いでしょうが」
アイリスはまだなにか言おうとした。
だがぐっと押し黙ったアーヴィンを見て悟った。アーヴィンは決心したのだ。
ぽろぽろとアイリスの目から涙がこぼれた。椅子から崩れ落ち、涙を我慢しようとぐっとかみ殺している。だができそうになかった。
ドロシーはその姿を見て胸が締め付けられそうだった。そしてアイリスを泣かせているアーヴィンに苛立ちを感じていた。
アーヴィンは駆け寄ろうとしたが、アイリスのひどい状態に侍女が割って入る。ひとまずアイリスを落ち着かせ、その間アーヴィンは別の部屋で待つことになった。
騒ぎを聞いてビネガー子爵も、アイリスの元に駆けつけたのだ。
ドロシーはアーヴィンに腹が立って仕方がなかった。
子爵家内の生活は保障され、すぐにでも二人で暮らせるのだ。
借金に苦しんでいるドロシーからすると贅沢な悩みだ。
しかも戦場に行って二三年会えなくなるなんて、アイリスを泣かせてまでやることだろうか。
一言言ってやらないと済まない気分だった。
突発的な出来事だったため、ばたばたと使用人が動き回り、その中でドロシーはアーヴィンの案内を買って出た。
ドロシーがアーヴィンを連れて廊下を歩き出そうとすると、突然、後ろから来たビネガー子爵に腕を乱暴に掴まれ、力任せに後ろに引きずり倒されたのだ。
怪我をしてもおかしくない出来事に唖然としていると、子爵はさっと、アーヴィンとドロシーとの間に割って入り、自分の体で倒れたドロシーの姿が見えないようにした。
成り行きに驚いたアーヴィンを、子爵は強引に案内し別室に連れて行った。
その日アイリスはどうしても気分を落ち着けることができず、アーヴィンは今後のことを子爵と話し、帰って行った。
――そしてドロシーは子爵の執務室へ呼び出された。
子爵は怒っていた。
「なぜ君がアーヴィン君を案内したのかね?」
「いきなりのことで人が足りなかったからです。あの場で手が空いているのは私だけで」
「誰かと交代したり、人を呼んだりできただろう」
「え、でも私がいるのに、わざわざ」
子爵はドロシーが予想もしていない言いがかりをつけてきた。
「アーヴィン君と二人きりになってなにをするつもりだった。
また人の婚約者を奪うのか」
「……」
ドロシーは頭に血が上った。
こんな侮辱を受けたのは初めてだ。
それに誤解されているのも悲しかった。
ドロシーとオスカーの関係は純愛で打算ではない。
それに奪ったわけでもない。
オスカーは最初から誰のものでもなく、婚約解消は穏便に行われたのだ。
「誤解です。私はそんなことしません」
「したじゃないか。第三王子殿下を奪った」
「あれは政略結婚だったんです。別に誰も傷つけていません」
「じゃあ、次にアーヴィン君の案内が必要になったら、君はまた対応をすると?」
「はい。だって私、親友の婚約者を奪ったりしませんから。信じて下さい」
ドロシーが「信じて下さい」と言った時、子爵は苛立ちのあまり机を叩いた。
「君はなにもわかっていない」
そう強く言ったのだ。
「君は『なんにも』わかっていない」
ドロシーはなぜか、父親の顔を思い出した。
「いいか、君は第三王子殿下の婚約を解消させ、奪ったんだ。
そんな女が他の女性の婚約者と二人っきりになったら、どんな噂が立つと思う。
君が本当はどんな人間かなんてどうでもいい。大事になのは世間にどう見られているかだ」
子爵は淡々とだが、しっかりと言った。
「少しも考えなかったのか。
君のような人間と、アーヴィン君が密室に入ったら、どんな悪意にさらされるか。
君は自分がどんな人間で、どんなことを過去にやって、どんな風に見られているのか、少しも想像できないようだ。
こんな人間を娘の側で働かせるわけにはいかない」
吐き捨てるように言った。
「挙げ句の果てに『信じて下さい』だと。
君は略奪したんだ。みんな知っている。
恥ずかしくないのか」
ドロシーはオスカーと誠実な関係だった。
アイリスのことを親友だと思っている。
当然アーヴィンを略奪する気なんかない。
ドロシーは誠実な人間なのだ。
だが子爵の言葉はその通りだった。
ドロシーは略奪をした『不誠実』な人間であり、その自覚がない行動を取って、危うく親友を醜聞に巻き込むところだったのだ。
「アイリスがどうしてもと言うから侍女として雇った。だがその恩を仇で返そうとしてくるとはな。だが君を首にしたらアイリスは悲しむだろう。それに在学中は娘が世話になったのは確かだ。
知り合いの家に異動してもらう。給料は少し下がるが。アイリスには上手く言い含めておく」
ドロシーがとぼとぼとアイリスの元に戻ると、その場にいた使用人たちが軽蔑したように見てきた。
今ならわかる。きっとアイリスに近づけたくなかったのだろう。だがアイリスが親友として扱うから困っていたに違いない。
アイリスは目を真っ赤に泣きはらしていたが、なぜかスケッチを始めていた。集中し、ぶつぶつ言っている。見ると、コマドリと、ハコベ。そしてアーヴィンが腕につけている市民章のマークだ。手早く鮮やかに色をつけていく。アーヴィンが好きなものの図案ができあがると、刺繍の習作を始めた。横で在庫をチェックしていた侍女が、糸を買い付けるために商人を急いで呼びに行った。
俄に活気が出てきた。
アイリスはアーヴィンを送り出す準備を始めたのだ。
戦場に行く人間は任務により、突然出立することがある。もしかしたら明日にも旅立ってしまうかもしれないと、一心不乱に作業していた。
戦地に赴くアーヴィンは忙しいらしく、その後、アイリスと会う時間がとれなかった。
そしてある日急に、馬に乗って約束もなく押しかけてきたのだ。
時間がないからと玄関より中に入らなかったアーヴィンに、アイリスは侍女が持っているお盆に乗せた何種類かのハンカチを見せた。
「あの、拙いものですが、私が作りました。気に入っていただけたらいいのですが。
この中からお気に召した物があればお選び下さい。
それで、その、戦勝祈願をしてありますので、きっとご無事に……」
アイリスが説明を始めるよりも早く、アーヴィンはすべてを手に取ると、両手で押し頂き、大事そうに自分の胸に当てた。
そしてまるで約束を交わすように言ったのだ。
「必ず生き残ります」
アイリスは、「ご武運を……」とだけ言った。
それ以上口を開こうとすると、泣いてしまうのだろう。涙がこぼれる目を一杯に開け、唇をかみしめ、アーヴィンを見ていた。懸命に笑おうと唇をひくひくさせている。
後ろ髪引かれる思いでアーヴィンが馬に乗り立ち去った後、アイリスは我慢できず部屋でひとしきり泣くと、商人を呼ぶように言った。
そしてアーヴィンに送る便せんを、時間をかけて選んだのだ。
ドロシーはそれを後ろでぼんやりと見ていた。
オスカーの優雅な立ち居振る舞いを、ドロシーは自慢に思っていた。
それに比べてアーヴィンは稚拙で、お子ちゃまのアイリスを気の毒に思っていた。
心の中でどこか馬鹿にしていたのだ。だから親友の自分が導いてあげようとまで思っていた。
だがそうやってアイリスに関わろうとすると、なぜかまわりの使用人たちが邪魔をするのだ。
アーヴィンはアイリスのために戦地に飛び込んでいった。二年は帰れないだろう。命がけでその選択をしたのだ。
そして大人しいアイリスが、そのアーヴィンを支える覚悟をしたのだ。どれだけ勇気がいることだろう。
たぶん大丈夫だろうというオスカーの判断を、同じくたぶん大丈夫だろうと信じたドロシーより、よほど地に足のついたものだ。
お子様はどっちなのだろう。
オスカーとドロシーは早く一緒になりたかった。だが二人の足元は空っぽで、その結果何十年も一緒に住めない結果となった。
オスカーは今もドロシーに、一方的に金銭を貢がれるという形で愛されている。それを不本意ながらも受け入れていた。オスカーは愛されるのに慣れているからだ。そしてドロシーがアイリスの立場なら、庇護する者としてアーヴィンを止めただろう。
アーヴィンはこのまま結婚すれば、子爵家内の立場は微妙なままだっただろう。だから自分を成長させたかったのだ。
アーヴィンはアイリスと対等な関係になりたかった。
そしてアイリスは自分を殺してアーヴィンに歩み寄り、共に行く道を選んだのだ。
◇◇◇◇◇◇
――そして七年たった。
ドロシーはビネガー子爵の紹介で、別の家で働いていた。
ドロシーは高給取りではあるものの、給金のすべてを借金返済に回しても、二十年以上働かなければならない。
最近はオスカーも、それなりの額を返済してくれるようになったが、足りなかった。
この生活から抜け出すには、圧倒的に収入が足りないのだ。
そうするとどうしても頭をよぎってしまう。
娼館で働いたら、簡単に返済できるかもしれない、と。
給金を貰うたびにそのことで頭が一杯になる。
だがその度に、必ず思い出すのだ。
父親が目に涙を一杯ためて、ドロシーに語りかけた姿を。
そんな中で返済を手伝ってくれるのは、その父親、モーム男爵だ。
なんとドロシーと同じくらいの金額を、毎月返済にあててくれているのだ。これだったら15年くらいでオスカーと一緒に暮らせるのではと浮き足だった。
だがそんなドロシーのもとへ、悲しい知らせが届いた。
――父親が亡くなったと。
ドロシーは汽車に飛び乗り、領地に急いだ。
乗り換えの待ち時間がもどかしく、まるで景色も時間も止まっているようだった。
実家に到着すると、家の中には親戚たちが集まっていたが、ドロシーの顔を見ると皆目をそらしたのだ。
親戚たちはやりきれない顔をしている。
父親はすでに寝台から棺に納められていた。厚い死に化粧がまるでピエロのようだ。
周りの人間がいろいろ言ってくるが、現実の世界だとは思えず、ドロシーはまるで幽霊のように突っ立っていた。
茫然自失で司祭の言葉も耳に入らない。
葬儀にはオスカーも駆けつけ、七年ぶりに顔を合わせた。
結婚した日以来、離ればなれだったのだ。
オスカーの輝いていた金の髪はぱさぱさで、自分で切っているらしく不揃いだった。
安物のシャツにぺらぺらのジャケットを身につけ、荒れた手と唇から、苦労しているのが伝わってくる。
遠くからでも目を引くような、堂々とした立ち居振る舞いが鳴りを潜め、誰の目にも止まらない地味なたたずまいをしていた。
埋葬した墓の前でドロシーが立ち尽くし、オスカーが寄り添っていると、一人の親戚がやってきた。
「親父さん、あんたの借金を肩代わりするために、鉱山で働いていたんだ」
ドロシーは信じられず、のろのろと親戚の顔を見た。
「危険だからやめろって、何度も言ったさ。でも借金を返さないとって。それで岩盤が崩落して下敷きに」
親戚は怒りをこめた目でドロシーを見ていた。
「領地は人任せにして、えらい迷惑だ。親父さんはあんたが殺したようなものだよ。
だけど、だけどな。親父さんはあんたのこと、それだけ大事にしてたんだ。
忘れないでくれ」
そういうと立ち去っていった。
冷たい風が吹き抜けていくが、ドロシーは寒さを感じなかった。
「ドロシー、家の中に入ろう」
これ以上小さくなれないとばかりに縮こまっているオスカーが、やっとドロシーに声をかけてきた。
代官と親戚が集まり、領地のことを話合っていた。
ドロシーとオスカーはその翌日、出立することになったのだ。
大勢人が集まったため、その夜ベッドが足りなくなり、昔使っていたマットレスで、ドロシーとオスカーは寝ることになった。
結婚の書類に署名して以来会っていなかったオスカーは、ぬくもりを求めて、ドロシーをただ抱き寄せた。
しかしドロシーは身を震わせたと思うと、泣きながら寝室を飛び出してしまったのだ。
追いかけると、ドロシーは暖炉の前で泣いていた。
オスカーは慌てて謝った。
「ごめん、ドロシー。なにもする気はなかったんだ。ただ抱きしめたかっただけなんだ。本当だ」
「違う、違うの」
オスカーが背中をさすると、ドロシーは耐えきれないというように涙をこぼした。
「あなたに抱き寄せられた時、思ったのよ。『貴族女性の処女っていくらなんだろう』って」
ドロシーは唇を震わして言った。
「『値段がつくのなら、ただであげるのはもったいない』って。わた、わたし、そう思ったのよ。『もったいない』って」
ドロシーは号泣した。
ドロシーはオスカーと恋に落ちたのだ。
夢見る乙女として二人の仲を深め結婚した。
とうぜんオスカーと夫婦の関係になる夢を見ていた。
だがいざ、そうなるかもしれないというところで、真っ先に思い浮かんだのが、『もったいない』という感情だったのだ。
この現実はドロシーの心を容赦なく切り裂いた。
泣き止まないドロシーを、オスカーが何度も「すまない」と言って、慰めたのだった。
◇◇◇◇◇◇
翌日二人はモーム男爵の墓に別れを告げて、汽車に乗った。
王都にほど近い大きな貿易都市で降りて、安宿に一泊する。そこからそれぞれの勤め先に向かうのだ。
ドロシーは泊まっている安宿を出ると、大判のスカーフで顔を隠し、繁華街に向かった。
大きなネオンの看板を掲げた建物の一つを選んで入る。
「開店はまだだよー」
キツネ顔の男が、ドロシーを見て困ったような顔をした。
「なになに、お姉さん。訳あり?」
ドロシーは決心して簡単に事情を話した。
ドロシーは今二十五歳だ。貴族夫人である自分を、売ったらいくらになるのだろうと、そう思ったのだ。
父親の死に打ちのめされたドロシーは、とてもつらくて、借金をどうにかしたかった。
本気で娼館に身を売るかは迷っていたが、相場を知りたかったのだ。
男はドロシーの話を聞いて、弱り切ったように頭をかいた。
「やめたほうがいいと思うけど。
まあ二十五歳でも貴族女性って売れるんだよね。真面目に客を取れば、今の年収の軽く二倍は超えるよ。処女は買い取りたいって人が、いくら値段をつけるかでぴんきりだなあ。
でも借金が残り二十年分って言ってるけど、十年経たずに返せるんじゃないかなあ」
ドロシーは拍子抜けした。そんなに簡単に返せるのかと。
「その……、じゃあもし私が十八歳だったら」
なんの気なしに言った言葉だった。
「十八だったら値段は天井知らずさ。三年ぐらいで借金返せたんじゃないの。
男って若い女に目がないから」
ドロシーは愕然とした。
あんなに自分を苦しめていた借金が、あの時決断していたら、とっくの昔に返せていたのだ。
「私……」
逡巡するドロシーに、男はすかさず言った。
「帰った方がいい。どうせその借金って男のものでしょ。なんで男が返さないの?」
反射的にオスカーをかばって、言い訳をしてしまう。
「事情があるのです。こういった職業についてはいけないと厳命されていて」
「へー、でも女がするのはいいんだ。誰もお姉さんを止めないの?」
ドロシーはまるで責められているような気になり、反論した。
「確かに父には止められています。でも私たちには事情があって」
言わなくてもいいことまで口にしてしまった。
「事情ねえ、誰にも事情はある。そりゃあ仕方ない」
ドロシーはそれ以上の追及を受けずにほっとした。だが男は続けて言った。
「事情があるのは仕方ないよね。でもさあ、その男は口だけでもお姉さんを止めたことあるの?」
ドロシーの顔色が変わったのがわかったのだろう。男は「失敗した」という表情をした後、謝ってきた。
「悪い。俺、一言多いんだよね。お姉さん、そこで休んでいきなよ」
ドロシーが近くの椅子に腰掛けると、男は水を出してくれて、開店準備のために部屋から出て行った。
ドロシーはずっとひっかかっていた。
今でも思い出せる、「決して道を踏み外してはいけない」と父親に何度も言われた時のことを。あの時の父親の顔、息づかい、はっきりと思い出せる。
こんな状況だ。ドロシーが身を売ることを考えているのは、オスカーには既にわかっている。結婚してから七年もあったのだ。一向に進まない返済。これをどうにかするには、それ以外の道はないのだ。それは結婚したあの日にわかっていたことだった。だから父親はしつこいほど念押ししたのだ。
だがオスカーは手紙でも言葉でも、そういうことはやめてほしいと言ったことはなかった。
今のオスカーなら、こう言うだろう。
「自分には口を出す権利はないから」と。
「君の決断だから」と。
違う。二人は夫婦になったのだ。
だからドロシーは、オスカーの借金を背負った。
それなのにオスカーは、「ドロシーがそのことで、身を売るか悩んでいること」を背負う気はないのだ。
オスカーは夫になった以上、口を出すべきだったのだ。そういった商売はしないでほしい。自分が返済するからと。
なぜドロシーの父親がその役割をしているのだろう。
これでは――夫婦ではない。
そう最初から夫婦ではなかったのだ。
◇◇◇◇◇◇
ドロシーがそう思った時、入り口にどやどやと人が入ってくる音がした。
店員が三人で喋っているようだ。
「聞いたか。ジョージ王子殿下の愛人の話」
「愛人じゃなくて第二夫人な」
「どっちも同じじゃないか、いいなあ。奥さん二人か」
「俺は自分のかみさん一人でも手一杯だけどな」
ドロシーは愕然とした。
この国には側室制度はない。
ドロシーが、オスカーの第二夫人になる道はないと聞いたのだ。
だから結婚する時、オスカーは婚約を解消するしかなかったのだ。
それ故莫大な借金を負ったのに。
第二夫人を迎えることができるのなら、ドロシーはこんなに苦労をしなくてすんだのだ。
聞こえてくる三人の話をまとめるとこうだった。
オスカーの兄、ジョージ第二王子殿下は、毎月借金の回収をかねて、ドロシーとオスカーの様子を見に来てくれる面倒見の良い人物だ。
第一王子のリチャードが王宮で指示をだし、ジョージはそれを受ける実働部隊だ。
そのジョージに第二夫人がいることが話題になっていた。
この国の王室は予算もなく、手弁当で成り立っている。だから側室を迎えるお金もない。しかしジョージの仕事上の右腕として、ローズマリーという女性が何年も前から活躍しているらしい。
ジョージの正妻エミリーが体を壊していることから、ローズマリーはジョージの子どもたちの養育も担当しているそうだ。王室に欠かせない存在として、議会でも第二夫人は正式に認められているというのだ。
議会で承認された時、第二夫人にかかわる予算は、ローズマリーの実家だけでなく、正妻エミリーの実家も負担を申し出ていた。つまり正妻も第二夫人を公的に認めているのだ。
ドロシーは納得できず、お店を飛び出ると宿に向かったが、オスカーは外出しており、遅くに帰ってきた。
「第二王子殿下の側室の話を聞いたの。この国では側室制度はないって……、だから私たち」
そう尋ねるドロシーに、オスカーは消え入りそうな姿で立っていた。
まるで迷子になった子どものようで、それ以上責めれば泣きそうだった。
「ドロシー、本当にごめん。僕もさっき、兄上に聞いたところなんだ」
――オスカーがジョージから聞いた話はこうだ。
ジョージには後ろ盾になってくれる婚約者エミリーがいる。
二人は幼なじみで長い付き合いだ。
だがある日、学院でローズマリーという女性に恋に落ちたのだという。
学院の図書館の、内外から広く歴史書を集めた区画でジョージは、女性にもかかわらず分厚い戦記を読み解くローズマリーの姿を目撃したのだ。華奢ではかなげな外見に似合わず、人を殺せそうな重い本を読み漁っていた。
ジョージはギャップに惹かれ、目が離せなかった。
それから何度も足を運んでしまったのだ。
最初からいけないことだとわかっていた。だが自分をどうしても止めることができなかった。
ローズマリーも、ジョージに惹かれているのがわかった時には、嬉しさよりも、奈落に落ちていくような気分だった。
だがある日、その区画から出ようとした時に、他の生徒が覗き込んでいるのにぶつかった。
「見られた」と思った時に、自分が大変なことをしていると、我に返ったのだ。
その生徒の様子からは、何を「見ていた」のかまではわからなかった。だが「見られた」と思ったジョージは、醜聞が引き起こすあらゆる可能性を考え、自分を戒めたのだ。
その日からしばらく学院を休んだ。
気を抜くとローズマリーのことを考えてしまう自分を叱咤した。
しかしある日、婚約者のエミリーと会っている時に言われたのだ。
「恋に落ちたのね」と。
エミリーはいつも持っているスケッチブックで、ジョージをスケッチし始めた。
「すごくいい顔しているわ」
皮肉なことに、スケッチをしたいからという理由で、エミリーは頻繁に会いに来るようになった。
エミリーは婚約者であるとともに、気安い幼なじみだ。
いつしかジョージはローズマリーのことを打ち明けるようになった。
「それでどうするつもり?」
「どうするって、なにもできないよ。責任のある立場なんだ」
「無理だと思うけど」
エミリーは手元の鉛筆を素早く動かしながら、首を横に振った。
「心なんて思いどおりにならないわ。私が芸術家になりたいって夢を諦められず、足掻くのをやめられないように」
「君の夢を壊して悪いが、私との結婚は決定事項だ」
エミリーは有力貴族の娘で、派閥の関係でジョージと結婚するしかなかった。
「ねえ、ジョージ。芸術家になりたくて絵を描いて、でも駄目だったら諦めがつくわ。
あなたはなにか努力したの? 自分の夢を実現させるために。なにもせずに諦めようとしても無理よ。ずっと心にくすぶり続けるわ。そんな簡単な想いなの?」
そう言われたジョージは自室に戻り、しばらく考え込んだ。
ジョージはエミリーと結婚した。
二人の子どもを産んだ後、エミリーは体を壊し表舞台から引退した。そして療養のためという名目で、芸術活動を始めたのだ。
そしてジョージは、ローズマリーの実家を説得することに成功し、側で働かせ、頃合いを見て第二夫人にしたのだ。
そのために計画し、根回ししていた。当然、皆そのことを知っていた。
つまりジョージは婚約者がいながら、ローズマリーと出会ったのだ。
ドロシーとオスカーとなにも違いはなかった。
だがジョージは考えたのだ。欲しいものを手に入れるためになにをすればいいのか。
その話を教えられたドロシーは、オスカーに腹も立たなかった。
夫婦って似た者同士でくっつくのねと考えていた。
借金のせいで父親が亡くなっても、自分のせいであり、オスカーを責めてはいなかった。
しかしここに至って、借金なんて背負わなくて済む方法があったと知らされたのだ。
オスカーがもしどうしてもドロシーと結婚したいのなら、婚約者とよく話合って、準備して、数年間公爵家で働き借金を返した後に、その後結婚するということもできたかもしれない。
そしてそのことをあの大広間にいた人たちは皆知っていたのだ。
父親の死で均衡を崩していたドロシーの心は、この出来事で完全に折れてしまった。
◇◇◇◇◇◇
それからのことはよく覚えていない。
ドロシーは黙々と働いた。だがそれは未来のためではなく、ただの惰性だった。
なにかしていないと気が狂いそうだったのだ。
借金なんかどうでもいいと投げやりになることもあった。だがその考えが思い浮かぶと、なぜか父親が思い出されるのだ。
まるで呪縛のようだった。今や、父親のことは考えたくないつらい思い出だった。
きつくて苦しい生活の中で、いつしか恋人ができた。
ドロシーが勤めている貴族家の護衛デビッドで、仕事で話すうちに自然とそういった関係になったのだ。
ドロシーの事情は皆知っている。だが誰も口を出さず静かに見守っていた。
オスカーとのように華やかで浮き足立つような関係ではなかった。
ただ静かに目を合わせ、そっと寄り添う。二人でいて一言もしゃべらないこともあった。
父親が亡くなり、一人でいる寂しさには耐えられなかった。だからデビッドが与えてくれるぬくもりを貪ったのだ。
やっとドロシーに人生ではじめて安らぎの瞬間が訪れたのだった。
そしてオスカーと結婚して十年経った頃、ドロシーは王宮に呼び出された。
「まだ借金は残っているが、十年間償ったのは立派であった。ところでこれからどうしたいかを二人に聞こうと思ってな」
オスカーはまるで許しを請うように言った。
「ドロシーの願いをかなえてやってください……」
オスカーは疲れ切っていた。この十年間、後悔の嵐だったのだ。
遅々として進まぬ借金の返済。しかもそのほとんどをドロシーとその父親が返しているのだ。とうとうドロシーの父親の命まで奪ったという事実は受け止められるものではなかった。
オスカーは尽きぬ愛情を受けて育った。それをそのままドロシーに注いだ。そしてドロシーからお返しを受けることになんのためらいもなかった。だがそのためにドロシーが失ったもの、お金、時間、そして父親。これらを突きつけられた時に、初めて自分が受け取っているものの重さを知ったのだ。知ってしまったらもう受け取れなかった。
オスカーという軽い人間にはもう耐えられなかったのだ。
「離婚させて下さい。オスカー、ごめんなさい。でももうがんばれない」
ドロシーの発言に誰も驚かなかった。
ドロシーとオスカーの行動は愚かだった。だが十年間、きちんと働きちゃんと借金を返済し続けたのだ。当たり前のことだとしても立派だった。その上、ドロシーに至っては結婚詐欺に合ったと同じようなものだった。オスカーの経済状況など知らなかったのだ。だが借金を知った上で結婚したのだから同情はできない。
ドロシーは今でもオスカーを愛している。あの日、ドロシーはあらゆる困難を乗り越えてもオスカーを支える道を選んだのだ。
だが父親がもし亡くなるのを知っていたら、オスカーを選んだだろうか。つまりドロシーとオスカーの言う「あらゆる困難」とは想像上のものであって、現実に襲ってきた困難の前には、ケシ粒のようなものだったのだ。
そしてドロシーのオスカーへの愛は、現実の困難に勝てなかった。当然だ。二人の関係は、オスカーへドロシーが一方的に貢ぐものであり、夫婦という対等な関係ではなかった。一方だけが苦労する歪な関係は、その一方が疲れてしまったら終わりなのだ。
オスカーの借金はまだ残っている。
オスカーの社会勉強は終わらせようと思ったジョージは、この後オスカーを軍隊に入れた。その当時あちらこちらがきな臭くなり、仕事は割とあった。手当はつくし何年かすると年金もつく。意外なことに適性があったらしく、周囲の評判も良かった。
オスカーは与えられた環境の中では能力を発揮した。
ドロシーは故郷に帰った。針のむしろと覚悟していたが、それでも両親の墓の近くに住みたいと思ったのだ。
代官から、実は父親と国王の間で話し合いがついていて、ドロシーが帰ってきたら領地を引き継げるようになっていたことを教えられた。
そして親戚が用意した婿と結婚する準備をしていた。
そこへドロシーを追いかけて、デビッドがやって来たのだ。
「知っているでしょう。オスカーのことも借金のことも、あなたが浮気相手なことも」
「知っています。会えない夫のために、贖罪のために、返済し続けたこと。
真面目に生きたことを。ずっと見てました」
デビッドはにっこり笑うと、ドロシーの家に居着いてしまい、畑の農作業を始めた。
訪れる親戚たちは、最初はデビッドを警戒したが、一度酒盛りをした後、急に態度が変わった。
「なんだよ、あいつ。結構いい奴じゃねえか」
「とっとと、くっついちまえよ」
うるさい親戚を味方につけてしまったデビッドは、ドロシーよりも馴染んでしまった。
そしてドロシーとデビッドは、苦労ばかり多く退屈だけど静かな人生を送った。
ドロシーの心に根を下ろし、縛り続けた父親の言葉は、耐えられないほどつらくドロシーを追い込んだこともある。どこまで行っても追いかけてきて耳を塞ぎたくなる時もあった。だが力強くドロシーに働きかけ、故郷まで連れ戻してくれた。
ドロシーは父親と母親の墓の前で思った。
早々に体を売り、借金を返済してしまえば、楽にオスカーと人生を送れただろう。別にそれは間違いではない。でもドロシーだけが与え続ける生活はどこかで破綻しただろう。そして故郷に帰ろうにも父親に合わせる顔がなかっただろう。
ドロシーは自覚していなかったが、父親から深い愛を与えられて育ち、その何十分の一でもいいから、自分の愛情を返したいと思ったのだ。だから父親の愛情から発した言葉に背くことができなかった。父親の愛情の大きさを、ドロシーはきちんとわかっていたのだ。
だがオスカーとはそういう関係になれなかった。オスカーは人から与えられる愛情の大事さを知らなかった。だから一方通行になってしまう。そしてようやくわかってきた時には、気づいていなかった自分の軽薄さにも気がついてしまい、ドロシーの愛の重さに耐えられなくなってしまったのだ。
父親の最期を思うと、ドロシーは自責の念で一杯になり、生きているのも苦しくなるほどだ。
だが父親が大事にしていた『ドロシー』を、粗末にすることができなかった。
それでも自分を責めてしまうとこぼすドロシーに、デビッドは言った。
「わたし、自分が許せないの」
「それなら、お父さんの代わりに俺が許します」
デビッドはほがらかに言った。
「賭けてもいいですよ。お父さんは許すって。
ドロシーもそれを知っているから、自分が許せないんでしょう。
そんなに自分を責めるほど、お父さんに愛されたんですね」
デビッドの言葉で、ドロシーは自分がこんなにつらいのは、父親からたくさん愛されたからだということに気がついた。
強く愛されたということを知っているからこそ、お返しができなかったことがつらいのだ。
それに気づくと、どうしようもないつらさを、愛情の証として優しく抱きしめることもできそうだった。




