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残り華

作者: 絵室 ユウキ

少し長めの短編小説ですが、どうぞ最後までお付き合い下さい。

 私は、あの男のことを忘れられずにいた。

 もう何年も経つというのに、その存在を忘れられない。

 それなのに、彼について覚えていることは、何一つとしてない。

 彼の仕草も、匂いも、どんな背格好だったかも、今となっては何もはっきりと思い出せない。

 彼の、名前さえも。

 私は彼を、彼と呼ぶことしか出来ない。

 それなのに彼は私の中に残り続けた。


 彼は、花火だ。

 鮮やかな色で人を魅了し、美しく燃え上がったと思ったその刹那に消えてしまう。

 その炎の華は私に決して消えることのないケロイドを残した。

 私の中で咲いた花火は、今もなお鮮烈に咲き続け、私の心を焦がしている。






 夏の日射しは、容赦なく私達を突き刺していた。余りの暑さに誰もが気だるい表情を浮かべている。

 太陽という惑星が灼熱の炎を纏いながら、想像も出来ないような歳月の中で燃え続けてきたということを、噴き出しては流れていく汗をもって実感した。

 そして、冬香という冷ややかな己の名前を何となく憎々しく思った。


 部室は蒸し風呂のような熱気と湿気を充満させている。それらと、汗を吸ったTシャツがじっとりと身体中にまとわりついていて、気持ち悪い。

 ただ座っているだけでも暑いというのに、激しい運動をしたあとの、身体中に熱をこもらせた人間がひしめきあっているのだ。汗が滝のように止まることを知らずに、身体を濡らしていくのも決して不思議ではない。

 夏休み、長期休暇というのは名ばかりで、私は毎日学校に通い、部活に精を出していた。

 もう引退してもいい時期なのだが、運の悪いことに試合に勝ってしまい、引退が延長になったのだ。次の試合にも勝つため、顧問は日々私達に素晴らしいまでのしごきを与えてくる。

 毎日毎日サウナのような体育館の中でボールをついて、それを輪っかの中に放り込むことだけを考えてちょこまかと走り回る。

 こう言ってみると何となく馬鹿馬鹿しい気がするのだけれど、私は何故かそうしているのが嫌いじゃなかった。

 バスケをしているときは、他のことは何も考えなくていい。そして、それが良しとされるので、コートの中は居心地が良かった。

 身体中の汗を水に濡らした汗で拭いていると、声をかけられた。同級生の真理だった。

「冬香ー、帰りマクド行って明日のこと決めようや」

 それを聞いて、ようやく私は思い出した。

 明日は高校の近くで大きな祭りがあるから、部活が休みなのだ。そして、仲の良い数人の部員達とその祭りに行こうという話だった。

「あー、私ちょっとシューティングしたいから先行っといてや」

 私がそう言うと、真理は驚いたような声をあげて言った。

「あんなにやった後でよぅやるわ。冬香は真面目やなぁ」

 真理は何処か軽蔑するような目で私を見ていた。

 ――真面目? そんなんじゃない。

 真理が向けた軽蔑の目をかわすように、私は少し嘲笑した。

「後でまた連絡するわ」

 私は荷物をまとめると、それを持って誰よりも早く部室を後にし、体育館に向かった。


 他の部はすでにお盆休みに入っているため、体育館には誰もいなかった。

 片付けたボールを体育倉庫からもう一度引っ張り出す。

 床の上でボールをつくと、その音が体育館に響いた。壁から打ち返された音が私の耳に届く。この音が好きだ。この広い空間が全て私の物になった気がして。

 でも、それ以上に好きなのは、ボールがゴールの網を掠める音。

 静けさの中でしか存在しないその音は、私を興奮させる。

 この音が聞きたくて、私は疲れた身体に鞭を打って一人でシューティングをするのだ。

 何も考えなくていい。

 ただ、ボールをゴールに届けることに集中する。

 キリキリと神経を張り詰め、それを解き放つ瞬間、私はこれ以上ない程の快感を覚えるのだ。


 気が付くと、一時間が過ぎていた。

 そろそろ真理達のところに行かないと。幾らかおごらされても文句は言えなくなってしまう。

 私は急いで制服に着替え、人気のない高校を出た。


 駅前。夕方のファーストフード店。込み合うには十分な条件が揃っている。そのため、空いている席はほとんどなかった。

 そんな中で、真理達はいくつも席を占領して何食わぬ顔で談笑していた。

 その輪の中にいる葉子が私の姿を見つけた。

「あ、やっと来たー」

 人と人の隙間を縫うようにして慎重に歩き、彼女らの元へ急ぐ。

「ごめんごめん」

 軽い調子でそう言って椅子に座った。

「明日、五時に駅のロータリー集合な」

 そこにいた友人の一人である舞が、私が席に着いた瞬間言った。

「なんや、もう決まってたんや。いつもみたいにぐだぐだ喋ってて、まだ決めてへんのやと思ってた」

 私がそう言うと、舞がむきになって言い返してきた。

「だって、高校最後の祭りやで? 気合いも入るやん」

 それに、と舞に助け船を出すようにして口を開いたのは、その場にいる残り一人である、私の斜向かいに座っている葉子だった。

「これが彼氏作る最後のチャンスやん? 冬香ももうちょっと気合い入れぇや」

 気合いねぇ、と私は下らない気持ちをいっぱいに込めて呟いた。すると、それを聞いた真理がにやにやとした笑みを浮かべながら尋ねてきた。

「冬香、もしかして翔さんのこと引きずってんの?」

「別に」

 私はあえて冷たく返事をした。

 翔というのは、一ヶ月前に別れた彼氏のことだ。

 友達の紹介で知り合い、私はどうしようもなく彼を好きになった。

 大学一回生の翔はひっきりなしに合コンに行っていた。別に浮気をしてる訳じゃない、付き合いなんだと、翔はいつも言っていた。子供な私は、どうしてもそれを認められなかった。

 わがままな私に嫌気がさしたのだろう、私はあっさりフラれた。

 後悔の日々だった。そして、今も。

 一番私と仲が良い真理は、私のそんな気持ちを察していたに違いない。

 私の今の表情には、その後悔の色が隠しきれないままに滲み出ていたのだろう。

「早く忘れて次の男捕まえーや」

 真理がそう言うと、他の三人も大いに賛同して何度も頷いた。

「そんなんじゃないって」

 つい、カッとなってしまった。ひた隠していたい心の中をここにいる全員に覚られたような気がして、異様なまでに不快だった。

 まぁまぁと言って、隣に座っている葉子が私をなだめた。

「とりあえず、明日は何も考えんと楽しもうや。な?」

 わずかに笑顔をひきつらせながら、葉子が言う。頬に出来た愛らしい笑窪が、現れては消えた。

「あ、冬香、浴衣持ってるよな?」

 何処と無く張り詰めている空気を変えようとしたのだろう、舞が明るい口調で私に尋ねた。

 私が頷くと、舞は続けて言った。

「じゃあ、明日浴衣着てきてな。うちらも浴衣やから」

「誰が一番可愛いか、勝負やで」

 と、葉子が冗談まじりに言うと、皆が黄色い声で笑った。私は、わずかに口角を上げることしか出来なかった。

 昔からそうだ。元々、こんな風に群れて喧しくすることが好きになれない。人が嫌いなのではない。ただ、私は静寂を愛しているのだ。

 そのせいか、大人びていて、冷たい人間に思われることが多い。友達も少ない。私自身、必要以上に友達を作ろうとも思わない。実際、そんな私は冷めた人間なのだろう。

 ここにいる三人は、私が唯一つるむことを許せる人間だ。


 その後、一時間程お喋りをして明日の約束を確認すると、それぞれの帰路についた。

 私は自転車を漕いで、自宅に向かう。

 夕闇の中を走り抜ける。ギラギラとした真昼の眩しさを残した西日が、私の真横から照り付けている。カラカラと音を立てて回る車輪の影が幻想的だ。

 通り過ぎていく景色のように、私の頭の中を幾つもの思考が流れていく。

 ふと思ったのは、翔のことだ。

 ――私はどうして、彼を許せなかったのだろう。そんなことを考えていた。

 きっと、私には彼しかいなかったからだ。

 私は誰も見ようとしなかった。故に、誰も私を見なかった。

 それなのに、彼は私を見た。もしかすると、それが許せなかったのかもしれない。今まで誰にも見せなかった、私の中。それなのに翔は、私以外を見ようとした。その行動が許せなかったのかもしれない。

 幼い、執着心と支配欲。――うんざりする。




 次の日、浴衣を着て髪を結い上げた私は、約束通り、五時には駅のロータリーにいた。

 浴衣で自転車を漕ぐことは出来ないので、今日ばかりはバスと電車でここまでやって来た。

 皆、身支度に時間をかけているのだろう。待ち合わせ場所には、まだ私しかいない。

 駅はいつもの数倍賑わっている。流れていく人波を眺めていると、浴衣姿の女の子が何人も通り過ぎていった。そして、彼女らは十中八九、隣に満面の笑みを浮かべた男の子を連れている。

 私は幸せそうなカップル達を見て、夏になったら一緒に祭りに行こうと翔と約束していたことを思い出した。

 翔は今、何処で何をしているのだろう。もしかしたら、新しく彼女を作って、その子と一緒にこの祭りに来ているかもしれない。

 そう思うと、晴れやかな浴衣で着飾っている自分が妙に情けなくて惨めに思えた。泣きたくなる。今泣いてしまえたら、どんなに楽だろう。

 私は足元に視線を落とした。浴衣の紺色に合わせたペディキュアの深い青がみるみるうちに滲んでいく。

「ふーゆか」

 はっとして顔を上げると、赤い浴衣に身を包んだ葉子がいた。

 彼女はいつものボーイッシュさを微塵も感じさせない程、女の子らしい装いと振る舞いで私の眼前にいた。ショートカットの髪をワックスでふんわりとさせ、露になっている耳たぶにはキラキラと輝くイヤリングが揺れている。

「みんなは?」

 約束の時間からまもなく十分が経とうとしている。にもかかわらず、ここにいるのは私と葉子だけだ。葉子に尋ねると、彼女は唇をとがらせて拗ねたような表情を浮かべた。

「真理はあと五分ぐらいで着くんちゃうかな」

「舞は?」

「舞はうちらとは行かんってさ」

 葉子がため息混じりにそう言ったのを聞き、私は思わず声をあげた。

 舞が来ないという理由を問うと、葉子はあとで言うと答えた。その表情には、落胆と呆れのようなものが浮かんでいた。

 そんな話をしているうちに、真理がやって来た。下駄をカラカラと鳴らしながら、精一杯急いでいるようだった。

 普段、コートの中を走り回っているときのようなスピードは、着慣れない浴衣によって抑制されている。浴衣がはだけないように手で押さえながら小股で駆けてくる姿は、同性の私から見ても可愛らしかった。


 祭りの会場に向かう道中で、舞のドタキャンの真相を葉子から聞いた私と真理は、揃って驚嘆の声をあげた。

「酷い裏切りやぁ……次会ったら絶対問い詰めたる」

 真理は憤怒に燃えている。一方の私は、呆れて言葉も出ない。

 舞は、以前から舞に好意を持っていると噂されていた、同じクラスの男子に今日の祭りに一緒に行こうと昨日の夜になって突然誘われ、大して躊躇うこともなくその誘いを受け入れたらしい。

 舞をその誘いに乗せたのは恐らく、彼女の中にある見栄だろう。この祭りが終わったあと、きっと彼女はまた大して躊躇うことなく、彼のアプローチをあっさりかわしてしまうに違いない。女というのは恐ろしい生き物だということを、身を持って知った気がする。




 そうこうするうちに、私達一行は祭りの会場となっている河川敷に着いた。

 川沿いにズラリと出店が果てしなく立ち並び、人々がそこに群がっている光景は壮観だった。

 出店から立ち上る香しい匂いは私達の食欲をとことん刺激し、私達を急かした。

 小さい子供が祭りの喜びを体現するかのようにあちらこちらを走り回っては、楽しそうな声をあげている。

 普段は耳障りでしかないであろう雑音も今日、この場所では、太鼓や笛の音と心地よいハーモニーを織り成して祭りの雰囲気を大いに盛り上げている。

 ジュージューというソースが焦げ付く音と匂い、おじさんが客引きをする威勢のいい声、小さな子供がだだをこねて泣きわめく声。それらの全てが揺るぎない秩序をもって、この雰囲気を作り出している。なんとも、楽しそうな。

 お腹をすかせた私達はまず腹ごしらえをした。数え切れない程にある出店のメニューは、どれも似たり寄ったりだ。大して迷うことはない。食欲の赴くままに様々なものを胃の中に収めていった。


 そうして、次に何をしようかと三人で思案している時だった。

 ――ドクン。

 瞬間、私の心臓が大きな音を立てて、痛み出しそうなまでに跳ね上がった。

 人混みの中で、向こうからこちらに歩いてくる男と目が合った、その瞬間、だった。

 私は、その男から、目が、離せなかった。

 こんなにもたくさんの人々が入り乱れているのに、その男以外、誰も目に入らなかった。

 誰かがその人の前を横切り、その姿が見えなくなっても、私は彼を見つめ、彼もまた、私をじっと見つめていた。

 ――ドクン。

 再び、私の心臓が激しく揺さぶられた。

 しかし、その鼓動の意味はさっきのものとは違うものだと私は悟った。

 一つ目の鼓動は、衝撃。

 二つ目は、疑念と――。

 彼がこちらに近付いてきて、分かった。

 その男は、翔に似たシルエットを持つ、翔ではない、私が知りもしない一人の男だった。

 彼が近付いてくる程、その輪郭や表情が明確になる程に、私はそれをよりはっきりと認識していく。

 彼と私の距離が縮まるのに比例して、まるで風化現象が巻き戻されるように、その男の存在と私の意識が形作られていく。

 翔ではない。大丈夫だと、私の脳が叫ぶ。

 それなのに、目を逸らしたくても、そうすることが出来ない。彼の目が私を捕らえたまま離さないのだ。

 彼も、私を知らないはずだ。それなのに、どうしてじっと、私を見ているのだろう――?

 どうしよう。

 彼は立ち止まることなく、私達の方に向かってくる。彼の瞳は、何も語らない。

 時が止まっているかのような錯覚に陥っていた。

 そして、彼が私の目の前で立ち止まった。

 彼の薄い唇が開く。それさえも、止まった時の中での出来事のようだ。

「なぁ」

 長く止まっていた時が、ようやく動き出した。開かれた唇から出された彼の声が、魔法を解く呪文のように思えた。何のことはない、気軽な挨拶のような、たった一言なのに。

「は、はい」

 少し声が裏返った。見知らぬ男の人に声をかけられたことなど、今まで経験したことがなかったので、驚いてしまったのだろう。それとも、緊張しているのか。

 私の目の前に立った男は、すっと右腕を持ち上げて私の背後を指差した。

「君の友達、行ってもうたで」

「えっ……」

 私は短く声をあげて振り返った。

 本当だ。さっきまでここにいた真理と葉子がいない。私がぼんやりしてる間に、何処かへ行ってしまったのか。

 はぐれてしまった。私は自分が置かれている状況を、彼に言われてようやく理解した。

 急に心細くなった。こんな人混みの中で二人を探し出すなんて、多分無理だ。私は途方に暮れた。

「俺も、君と一緒やねん」

 それを聞いて、私は再び彼を見た。

「俺も友達にほってかれてん」

 そう言うと彼は、にっと微笑んだ。細くなった目が垂れ、年上であろう彼が、急に幼い少年のように見えた。

「よかったら、二人でブラブラせぇへん?」

 彼の顔は、無邪気で幼い少年の笑顔から、大人の余裕に満ちた穏やかな笑顔になっていた。

 見え見えのナンパの口実だ。

 友達とはぐれたとは言え、携帯で連絡をとって分かりやすい場所で待ち合わせれば、話は済むのだ。

 ついていってはいけないと思い、断ろうかと思ったその時、彼はこう言った。

「こういうごちゃごちゃしてんのより、君、静かな方が好きなんやろ?」

 分かって、くれた? 私、何も言ってないのに。

 気が付くと、私は差し出された彼の手を取って、歩き出していた。




「元彼に? 俺が?」

 私はこくりと頷いた。

 聞かれるとは思っていた。どうして、目を逸らさなかったのかと。

「でも、全然似てない。ほんまに何となく、雰囲気が似てただけ」

 私が言い直すと、彼は「なんやそら」と、また少年のような笑顔でケラケラと笑った。

 私達は祭りの喧騒がかすかに聞こえる、河川敷近くの公園にいた。お祭り騒ぎに疲れた人達が、羽を休めている鳥のように静かにひっそりと、ベンチに座っている。

 その公園は、公園にいる人達の笑い声が時折聞こえる以外は、静かだった。もっとも、さっきまでいた祭り会場のど真ん中に比べると、ということなのだが。

 不思議なことに、私達はここに移動している時も、今も、手を繋いだままだった。どうしてなのかは分からない。ただ手を離すタイミングがなかったからというだけなのかもしれない。

 すでに日は沈み、辺りは夜の闇に包まれているが、日中太陽に温められた空気がいまだにくすぶっているようで、少し暑い。そのせいか、繋いだ手が身体中の何処よりもじっとりと汗ばんでいる。

「そっちは何で、私のこと見てたん?」

 見ると、彼は相変わらず少年のような顔をしていた。「ん?」と、私の質問を聞き直すように言うと、すぐに「あぁ」と言って笑った。

「あー、あの子の友達行ってまうわぁと思って見てた」

 ははは、と悪戯な笑みを浮かべてそう言う彼が、まるで弟のように思える。


 それっきり、だった。

 ベンチに腰掛けた私達はそれっきり大して言葉を交わすことなく、出店の明かりに照らされて赤くなった夜空を、ただぼんやりと見つめていた。

 身体のあちこちが痒い。

 こんな風にしてただ座っているだけでは、蚊の餌になって当然だ。

 隣に座っている彼も時々、ボリボリと腕を掻きむしっている。掻いたところが火照ったように赤くなっていた。

 肩まである髪をまとめ、うなじが丸出しになっているので、どうやらそこは格好の標的になっているようだ。うなじを手でなぞると、膨らみが三、四個出来ていた。

 ふと、私を見る彼の視線を感じたが、気付かないふりをした。

 痒みが増すごとに、私の中に空しさのようなものが溢れた。

 私は、こんなところで、何をしているんだろう。どうして、この人といるんだろう。

 答えの出ない苛立ちをぶつけるように、私は前屈みになってふくらはぎを爪砥をする猫のように掻きむしった。

「あっ」

 彼が沈黙を破り、突然声をあげた。

 どうしたのかと彼に尋ねようとして顔を上げると、彼もまた、私を見ていた。

 その時、遠雷の轟きのような音が私の耳に届いた。

「あそこ。見て」

 彼が指差す。その先を、私は目で追った。

 ――花火だ。

 隣町か何処かで、花火が上がっていた。

 ビルの隙間から見える花火は、小さく開く撫子の花のようだ。静かに、激しく、燃え上がり、開いては、散っていく。

 ――なんて、儚くて、綺麗なんだろう。

「綺麗……」

 私はそう呟いて、彼を見た。

 彼もまた、遠くに上がる花火を見つめていた。

 ――ドクン。

 見て、しまった。

 一筋の涙が、彼の頬を伝うのを。

 涙を浮かべた彼の瞳には、万華鏡のように形と色を変える花火が映り込んでいた。その花火は、とても静かで、本物の花火よりもずっと綺麗で、私は思わずその美しさにみとれてしまった。

 どうしたのか、なんて聞けなかった。何も、言えない。

「ごめん……」

 彼はそう呟くと、当然私をきつく抱き締めた。

 彼に触れられた瞬間、わっと、ダムが決壊したように、様々な感情が沸き上がった。

 どうしたらいいか分からない。

 混乱はしていたが、こうすることが一番いいんだと何とか自分を納得させ、そっと彼の背中に腕を回した。手のひらで触れると、汗でしっとりとしていた。

 こんなとき、何と言えばいいのか分かるはずもないし、気の利いた言葉なんて、思い浮かばない。こうすることで、彼の涙が止まればいいと思った。

 手が、震えていた。心臓が激しく脈打っている。

 男の人とこんな風にするのが、初めてというわけではない。

 ふと私の脳裏に、翔の笑顔が浮かんだ。しかし、その影は風に吹かれたようにさっと消えていった。

 混乱しているせいだろうか。私にしがみついて泣いているこの人のことしか、今は考えられない。ただ、そう感じた。


 彼は、声を上げて泣いた。私を強く抱き締めながら。

 時折、嗚咽の中で誰かの名前を呼び、謝りながら、彼は泣いた。

 だから、分かった。

 彼も私と同じように、誰かの面影を私に重ねていたのだ。

 彼の中には、計り知れない大きな悲しみがあるのだ。だって、私はこんなにも辛そうな、悲しそうな泣き声を聞いたことがない。

 だからこそ、何があったかなんて、涙の理由なんて、聞けない。ただ黙って、彼の汗で湿った背中をそっとさすってあげることしか出来ない。でも、それでいいんだと私は思った。

 音もなくゆっくりと落ちていく花火は、彼の涙のようだった。




 空に花火が上がらなくなった頃、彼の涙はようやく止まった。祭りの喧騒も、いつの間にか静かになっていた。

 彼は私の手を強く握って俯いたまま、涙声で何度も私に謝った。その度に、ただ曖昧な笑顔で答えるしか出来ない自分が、とても歯痒かった。

「お願いがあるんやけど」

 突然、彼が消え入りそうな小さな声で言った。

「キス……してもいい?」

 息が止まるんじゃないかと思う程、胸が苦しくなった。

 どうして、こんなにも苦しくなるんだろう。この気持ちは、何なんだろう。

 そんな疑問を胸の中に満たしたまま、私は頷いた。そして、カラカラに乾いてしまっている唇で、「いいよ」と、彼に届くかどうかという掠れた小さな声で呟いた。

 彼はゆっくりと私の身体を抱き寄せると、私の頬を撫でた。

 いや、私の頬を撫でたのはない。私に映り込んだ誰かの頬を、彼は撫でたのだ。そう思うと、また、苦しくなった。胸を強い力で締め付けられているようだ。

 悲しそうな瞳で、彼は私を見つめながら言った。

「俺、お前のこと、絶対忘れへんから……」

 ――それって、誰のこと?

 私の中に現れた疑問を掻き消すように、彼は私の唇に、唇で触れた。

 その、悲しみに溢れたキスは、私の中の誰かに息を吹き込み、蘇らせるための儀式のように思えた。


 その儀式は、驚く程静かに行われた。

 その時、静寂の中にしか存在しない、音が聞こえた。

 互いの鼓動と、互いの吐息の音。他には何も聞こえなかった。

 なんて静かで、綺麗な音。私が大好きな音。

 私が好きなのは、この音だ。


 私は無意識に、彼の肩をきつく掴んでいた。

 そして、どうか私のことを忘れないでいて欲しいという祈りを、その手にこめた。




 私達が公園を出たとき、祭りはすっかり終わっており、人気はまばらになっていた。

 彼は、私を駅まで送ってくれた。履き慣れない下駄のせいで痛んだ足を引きずり、彼はそんな私を気遣いながら、ただただ歩いた。

 駅に向かう間も、私達はやはり手を繋いでいた。けれど、もう違和感はなかった。ごく自然に、手を取り合っていた。

 別れ際、彼は私にただ一言、「ありがとう」とだけ言った。私が首を横に振ると、彼は少年の笑顔ではなく、私よりもうんと大人で、それでいて悲しそうな笑顔で私を見ていた。

 彼に手を振りながら改札を抜け、電車に乗ったとき、彼の名前を聞いていなかったことに気付いた。連絡先も聞いていない。

 だから、もう二度と会うことは出来ない。

 そう思った途端、涙が出た。どうしてかは分からない。ただ、切なかった。それだけなのに、信じられないくらいに次から次へと、涙が溢れた。

 電車の窓の外を流れていく小さな光を見て、私はあの時彼の目に映っていた小さな花火を思い出した。




 翌日、私は部活で顔を合わせた真理と葉子に叱られた。

 当然だ。はぐれた挙句、黙って帰ったのだから。

 二人の怒りの矛先は、ドタキャンした舞ではなく、完全に私に向いていた。一体、はぐれた後どうしていたのかと二人に聞かれても、私はただ笑って誤魔化した。


 部活の帰り道、私は少し遠回りをして、昨日彼と行った公園に行った。

 そして、そうすることはしばらくの間、私の習慣になった。

 自転車を停め、彼と座ったあのベンチに座っては、花火の上がっていたビルの隙間の空を、ただぼんやりと眺めた。

 彼の目に映った花火と、あの時の音を思い出しながら。




 それから毎年、私はその場所で花火を見た。何度も、何度も、空に上がるあの小さな花を見た。

 時には一人で、時には恋人と一緒に。

 そして、いつしか私は彼のことを忘れていった。

 彼の声や、表情を。

 けれど、あの万華鏡のような小さな小さな花火だけは、今も私の記憶の中で咲き続けている。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

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