昔の話
颯汰は床に体を打ちつけた。倒れた時に頭もぶつけたらしく目眩と耳鳴りがする。みんなの悲鳴が聞こえるがよく聞き取れない。10秒ほどすると視界と聴覚が戻ってきた。そして颯汰は目をの前の事象が信じられなかった。彼が本来いた場所に蒼が立っていたからだ。「蒼くん!!」流奈の悲鳴で颯汰はすべてを理解した。自身を貫くはずだった刃は蒼の腹部に突き刺さっていた。
蒼は床に膝をついた。幸運なことにも意表を突かれた池上がナイフを手放したので刃は抜けなかった。
このままじゃみんなが危ない。.....立ちあがれない、お腹を中心に重くて鈍い痛みが体に広がってうまく動けない。でも…あの日僕は誓ったんだ、もう2度と失いたくない。守るって決めたんだ。僕が.....私が!
感情の昂ぶりに呼応するように腹部の痛みを感じなくなってきた。彼女は再び立ち上がった。
その場に居た全員が自分の目を疑った。たった今腹部を刺されたはずの人物がふらりと立ちあがったのだ。そして彼女と相対した池上の顔から血の気が引いていく。なにせ不意を突いて後ろから刺したのと違って今度は正面から面と向かって刃物を突き立てた、重傷は避けられないはずだ。しかしそんな彼女が自分に向かって確実ににじり寄ってくる。数分先まで心の内にあった殺意と苛立ちは恐怖と後悔に変わっていた。
「く…来るなぁ!」「うおぉぉぉぉあああ!」蒼は渾身の蹴り上げを繰り出した。池上は避けるために身を引いたが運悪く足先が顎を直撃し、昏倒した彼は吹き飛び教卓にぶつかって止まった。
蒼は尻餅をついた。さっきまで消えていた痛みが蘇ってきた。「うぐっ.....」中山の助けでブレザーを脱ぐと純白のシャツに深紅の染みが広がっていた。歪んでいく視界の中、泣きそうな世界で唯一の親友の顔が鮮明に見えた。
「颯汰...?よかった…無事で。」彼女の安堵する顔をみた颯汰の口から言葉が途切れ途切れ漏れ出す。
「蒼…なんで.....?」その問いに蒼は答える。
「颯汰のことが好きだから.....」そこまで言うと蒼は気を失った。
中山が彼女の手を取り脈を測る。「ボーっとすんな!まだ生きてるぞ!」どうやら流奈が警察と救急車を呼んだようだ。「俺は門を開けてくる。菅原は頼んだぞ!」中山は一足先に校門へ向かった。颯汰は蒼を抱き抱えて生徒玄関に向かった。
数分後、救急車は速やかに到着し、負傷者を収容した。すると濃い青とオレンジの服を着た隊員が誰か1人付き添いで来てくれないかと言った。
「行ってやれ。」松田が一言颯汰に伝えた。「でも…」「いいから!お前の親友なんだろ!?」その言葉に従い、颯汰は乗り込んだ。
走り去る救急車の中、颯汰は昔のことを思い出し始めていた。
「ねぇ!私達とサッカーしようよ!」ある日温かい春先のグラウンドで1人の少年が孤独にブランコに座っていた。そんな彼に1人の少女が話しかけた。
「え、でも僕なんかとやっても面白くないよ…」「いいからいいから!」彼女に言われるがまま彼は手を引かれ他の子ども達とサッカーを始めた。
その帰り道、ついさっき会ったはずの2人はすっかり打ち解けていた。「私は菅原蒼!名前は?」「僕は稲生颯汰、よろしく!」2人が小学2年生の時のことだった。
ある日2人が下校していると「よ!それが新しい友達か?」颯汰より頭一つ高い少年が後ろから声をかけてきた。「颯汰、こいつが兄ちゃんだよ。」「こいつとはなんだ!待てぇ。」「わー」
「そうだ、一緒に家で遊ぼうぜ。」「いいね!。」「僕が行っても迷惑にならないかな…」「大丈夫だって!」こうして颯汰は菅原家に招待されることとなった。そこにやたらとアクティブな老人と「あら、蒼がお友達を連れてくるなんておめでたさんだね!」朗らかな二児の母だった。颯汰はそこで大歓迎を受け両手にお菓子がいっぱいの紙袋を下げて帰った。
また別の日、2人は帰り道に職業の話をしていた。「そういえば、蒼のお父さんって何の仕事してるの?」彼女は胸を張って言った。「私のお父さんは警察官なんだ!悪いやつらを捕まえてるんだよ。」「へーかっこいいね!」「わたしも大人になったらお父さんみたいに警察官になりたいんだ!」その日は蒼の夢を話題にして帰った。
半年もすると颯汰と蒼は親友と呼んでも差し支えないような親しい関係となっていた。周りから見てもそれは明白だった。
2人の楽しい1日が今日も始まる。