エソラとエトセトラ
あれからどれだけの時間が流れただろう。
『何もない部屋』では食事も、排泄も、睡眠もいらない。
エソラとカノンはただ歳だけをとっていった。
エソラはここに来たばかりの頃、持っていた携帯電話で時間を確認していたが、今ではその時間表示もでたらめになっていた。
世界から遮断された空間、それがこの部屋だった。
そして新たに判明した事実、それは物が劣化しないことだった。その証拠の一つとして、エソラの携帯電話は電波こそ受信しないものの、電池を消耗しない上に変わらず動作している。
それはエソラにとって幸運な出来事だった。
エソラは毎日のようにすすり泣くカノンの向かいで、携帯電話のメモ機能を利用し小説を書き続けた。何も起こらない日々で、それだけがエソラの救いだった。
カノンはエソラの小説に興味を持ち、いつからか続きを楽しみにするようになった。読者ができたことはエソラにとってこの上ない喜びだった。
「エソラくん……続きは、まだ……?」
あるときを境に、カノンの病状は大きく進行した。身体は固まったように動かせなくなり、今では自分で立ち上がることもできない。
「今、読んであげる」
エソラは自分で書いた小説を読み上げた。目を閉じて聞くカノンの表情は、憑き物が落ちたように安らかな顔だった。
「ありが……とう。最後まで読めなくて……残念……」
その言葉を最後に、カノンは息を引き取った。
カノンの身体は光の粒子となり、跡形もなく消え去った。
気がつくとエソラは反転世界の赤レンガすとあの前に立っていた。
「帰って……きた。帰ってきたんだ!」
エソラは膝をつき、涙を流した。
「エソラ……?」
懐かしい声に振り返ると、そこには蝶次と竜太郎、そしてクルミが立っていた。
エソラは立ち上がり目元を拭った。しかしすぐに涙がこぼれてきてしまう。
「みんな……ただいま……!」
エソラが突き出した拳に、皆が拳を合わせる。そして声を合わせてこう言った。
「おかえり! エソラ!」
皆で抱き合う中、クルミが驚きの発言をする。
「今日はさ、パーッと朝まで飲んじゃおうよ!」
「クルミ、だめですよ。エソラはまず病院に……いや、その前にお風呂ですね」
竜太郎の指摘はもっともだ。エソラはもう長いこと入浴していない。
しかしそんなことよりも、エソラには気になったことがあった。
「飲みに……って、さすがにそんな悪いことできないでしょ。捕まっちゃうよ?」
エソラの言葉に皆が黙り込む。その沈黙を破ったのは竜太郎だった。
「エソラ、落ち着いて聞いてください。カノンを捕らえたあの日から、すでに────」
エソラが帰ってきたのは、あれから十二年後の反転桜木町だった。
竜太郎はカノンの生命反応が消えたのを感知した直後、エソラを『何もない部屋』から反転世界へ転送した。そして皆を呼び、迎えにきてくれたそうだ。
皆の見た目がそう変わりなかったのは、エソラが帰ってきたときのためにと、髪型や服装をできる限りそのままにしていてくれたからだった。
正世界に戻ると、エソラは竜太郎の父親が営む病院を訪れた。
そこに勤める竜太郎が診察してくれたため、特別に入院患者用のシャワールームを借りることができた。
検査で目立った異常のなかったエソラは竜太郎と別れ、歯医者へと向かった。何も食べていなかったおかげが、虫歯の一つも見当たらなかった。
道行く人々の視線に、エソラは自分の身なりが気になった。
(歳はとらないのに、髪は伸びるんだ)
ショーウィンドウに映った自分の髪はもう、地面に着くのではないかというくらい伸びていた。これだけの長さになるのだ、その分だけ時間が経っていてもおかしくないと、そう思った。
(そういえば、お腹が空いたな……)
散髪を終えたエソラは、街中を漂うパンの焼けた匂いに心を惹かれた。
食事をする習慣がなくなっていたエソラにとって、空腹は久々だった。店に入るか迷ったが、すでにエソラの手持ちの金額は微々たるものだった。
今夜は皆が帰還祝いをしてくれる予定だったため、エソラはそれまで我慢することにした。
その間に、自分が無事で健康であることを、海外に勤める父に伝えようと電話をした。
エソラの父は電話の向こうで泣いていた。詮索されることもなく、ただ無事ならそれでいいと、父はそう言葉をかけてくれた。
実家も保険も、携帯電話の契約も、エソラが帰ってくると信じすべてそのままにしておいてくれたという。
何も言わず失踪した息子を思い続けてくれる父に、エソラは感謝の念が尽きなかった。
野毛山頂動物園は盛況だった。
国内最高齢のライオン、そしてその子どもを合わせて展示している影響なのだろう。
檻の前ではたくさんの人々がカメラを構えている。
エソラは列に並び、ラージとの再会を待つ。そしてエソラの順番が回ってきたところで、自らの子を隣にラージが立ち上がり、雄叫びを上げた。
「ロアァァァァァァ」
その姿を見たエソラは目に涙を浮かべる。ラージがこちらをみてゆっくりと瞬きをした。
それに返事をするように瞬きを返したエソラの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
帰還祝いは蝶次行きつけの居酒屋で開催され、そこにはミナト、そしてガライの姿もあった。
ミナトは変わらず教師をしているようで、エソラたち以降に問題児は現れていないと話していた。
ガライは蝶次が出店したお菓子屋、その二号店の店長を任されているらしい。
四葉は反転世界のことを今でも忘れているようで、それと共に母親である二葉の記憶もおぼろげだそうだ。
二葉はあの戦いの以降、行方がわからないという。
すべてを失った彼女は今どこで、何を思い暮らしているのだろうか。
「そんじゃあらためて……エソラ、おかえり! 乾杯ー!」
それはエソラにとって初めてのビールだった。しかしその味の良さは、エソラには到底理解できなかった。
皆が美味しそうにビールを飲む姿を見て、彼らは自分とは違う時間を経て大人になったのだと、そう実感するばかりだった。
一番驚いたのは竜太郎の婚約についてだった。なんと相手はクルミだ。
エソラとカノンを隔離し続けた十二年の間に、竜太郎は何度もオブジェ化しかけたそうだ。
そしてその度にクルミが『遡行』で治療していた。必然的に二人が会う機会は増え、いつしか恋仲になったという。
エソラが帰ってきたら籍を入れようと、そういう約束だったようで、この度二人は晴れて結婚することになった。
思い出話やめでたい話が行き交う中、エソラには一つ気掛かりなことがあった。誰もそれに触れようとしないのは、不自然だとも感じていた。
(もしかして、何か不幸なことが……?)
不安がよぎったエソラは、我慢できずついに切り出した。
「あの、アンは? アンはどうしてるの?」
皆が顔を見合わせ、頷いた。
「そうだよな、気になるよな……実は──」
蝶次が言いかけたところで、店の扉がゆっくりと開いた。
そこには一人の、可憐な女性が立っていた。
絹のような髪をなびかせ、店内へ足を踏み入れる。通った鼻筋に、猫のように大きな目、挙げればきりがないほど美しい姿に、店内は静寂に包まれる。
女性はエソラの方へ歩み寄りこう言った。
「隣、いいかしら?」
店内の注目を浴びる中、予期せぬ指名にエソラはしどろもどろになった。
「え、いや、人違いじゃ……あなたみたいな美人、僕の知り合いには……」
その姿を見た蝶次は、笑いを堪えきれず吹き出してしまう。
「かはっ、美人だってよ。良かったなアン」
「へ……え……あ……アン?」
エソラは驚きのあまり間抜けな声を出してしまった。
そんなエソラを見て、アンが満面の笑みを浮かべる。
「私みたいな美人なら、お嫁さんにしてくれる?」
アンに抱きつかれ、エソラは顔面が紅潮した感覚を覚えた。
そんな二人を見て、蝶次がはやし立てる。
「いいぞー! お前らも結婚しちまえ! ひゅーひゅー!」
蝶次が鳴らした指笛に店内が一斉に盛り上がった。
エソラがいなくなった日から、アンはクルミの家に引き取られたそうだ。
アンの明るい表情や美しい所作を見る限り、彼女はとても大事に育てられたに違いない。今すぐにでもクルミの家族にお礼を言いたいと、エソラは夢見心地でそんなことを考えていた。
居酒屋の扉を開けると、空は白んでいた。足元のおぼつかないエソラをアンが支えている。
そしてエソラの耳元でアンがこう呟いた。
「エソラ……おかえり」
その言葉にエソラは大きく頷いた。すると世界が揺れるような感覚に襲われた。
まるで反転世界に入ったときのような、そんな感覚にも思えたが、それがアルコールのせいだと気づいたのは日中、二日酔いに悩まされている最中だった。
「……ソラ。エソラ。起きて」
エソラが目を覚ますと、そこにアンがいた。
(たしか酔い潰れた僕を送ってくれてそのまま……)
「もう……夜……か。何かあった?」
「いくよ。アポロンの活動に」
その言葉を聞いたエソラの背筋が凍る。
「アポロン……? アン、何を……」
「いいから、いくよ!」
アンに手を引かれるまま外に出ると、そこには蝶次、竜太郎、クルミ、ガライの姿があった。
「僕たちは新生アポロンだ。エソラくん、君にも入ってもらうよ」
ガライがエソラに手を伸ばし、握手を求めた。
エソラは状況をつかめず、動揺してしまう。
「ちょっと……変な冗談やめてよ……」
「冗談じゃありませんよ────と、いじわるが過ぎましたね。あの戦いの後、我々はガライに呼び出されました。そこで提案されたのがアポロンの復活です。しかしそれは世界の結合を目指すという意味ではなく、人のために動いていた頃のアポロンを取り戻したいとのことでした」
竜太郎の説明にガライが続く。
「といっても、初期のアポロンを僕は知らないわけだけど……これは僕の身勝手な償いだ。けどそれにはどうしてもみんなの力が必要だった。小回りのきく戦闘、反転世界への移動、オブジェからの回復、そしてエソラくん……情報収集には君の筆談が欠かせない。どうだい? 手伝ってくれないか?」
エソラはため息をついた後、顔を上げた。
「まったく驚かせないでよ、心臓に悪いなぁ。僕は…………『何もない部屋』にいる間、ずっと小説を書いてた。何本も、何本も……ね。その中の一つに反転桜木町を舞台にした作品があるんだけど……未完成なんだ。あの世界にはまだ誰も知らない何かがある。そう思うと、ペンをおく気にはなれなかった。僕はどうしても続きが書きたい。だから────一人でもいくつもりだったよ」
竜太郎と蝶次が呆れた表情で目を合わせている。
「まったくエソラには」
「かなわねぇなぁ」
脇役でいいから────そう思っていたエソラは、好奇心に従って行動する中でかけがえのない仲間と出会い、いつしかその真ん中で、主人公のように胸を張れる人間に成長していた。
最後まで読んでくれた方に感謝します。
ありがとうございました!