VS多鬼 其の壱
まず、口の中は血の味が広がった。
鼻は乾いた土と青い草の匂いが付いて、身体はあちらこちらが痛くてたまらず、涙が込み上げてくる。それが落ちるのを必死に耐えながら顔を上げて、彼に対して睨みつける。
視線の先にいた少年、一つ年下で学校一の問題児と呼ばれている彼。少年はわなわなと震えた拳と不愉快なものを見るような目でこちらを見下げていた。
『いっつもいっつも、女でよわちぃークセにジャマすんなよ。すぐ泣くし』
吐き捨てた言葉は子供らしい怒りの感情のままに要領の得ない舌が上手く回っていないものだったが、それでも悪感情が自身に向けられていることは伝わってくる。
少年から向けられる感情に呑まれないように少女はキィ、と歯を噛みしめて強く睨み返す。それを受け取った少年は視線だけ何が言いたい、と返してくるのに対して噛みつくように言い放つ。
『なんでいつもいつもみんなをいじめるの!』
『だからいつも言ってんだろ、みんながバカにして! ……ジャマをす~! る~! か~! ~らぁ!!』
そう強く主張してくる。
彼女が来る前、彼は一人で遊んでいたのだが、それを見た他の子供達が彼に群がってはバカにしてからかってくるのに対して怒りを覚えた彼は暴力を振ったのだ。
ある意味子供らしい癇癪からくるちょっとした小競り合い。この少年一人に非がある、というよりも彼を馬鹿にしてきた彼らの方に非があるだろう話。
真面目で委員長気質のある彼女はそれを注意すべく、暴力を振った少年へと小言を言いにきて巻き込まれたというのが今の形なのだろう。
しかし、そうではなかった。
ここには少年と少女しかおらず、他に誰もいない。それが起こったのは数時間前のことだ。
学校の昼休みでの事であり、少年が報復したのは昼休み後の掃除の時間中。そして現在は放課後という時間軸だった。
馬鹿にされた少年はまずすぐに報復せずに昼休みの後の掃除中にバケツの汚れた水をぶっかけて、バケツでぶっ叩いて、雑巾で口元に詰めて、そのあと足で踏みつけ、マウントを取ってからひたすら殴る。
まさに暴力の中の暴力。相手を潰すことに容赦がなく、人を人だとちゃんと理解して壊すやり方だった。
教師が駆けつけてくるまで少年の暴力は続き、その後に教師陣から厳しい指導を受けることは当然の事だろう。
そして学校が終わり、彼が一人遊んでいる所に彼女はやってきてはその件に叱りつけてきた。
少年の中では終わったことなのに、放課後にわざわざ掘り返されるのは嫌な気分でしかない。最初は無視していたもののあまりのしつこさに現状に至ったのだ。
その態度に関して反省がないと取るべきなのか、それとも無関係である彼女が終わったことをシャリシャリ出てきた空気を読めなさを咎めるべきか。
話だけ聞けば少女の方が余計なことをした自業自得と呼べる自体だが、現状を見てどちらか悪いかは第三者からすれば強く非難されるのは少年になる。
少女と喧嘩して勝った。それだけの事実だけあれば始まりはどうでもいい、少年が悪い、の一言で終わるのだから。
我慢ならないとばかり彼はもう一度叫ぶ。
『こっちは悪くない。あいつらやお前が悪い』
『いや、お前が悪い! みんなを困らせるお前が悪い!』
そう断言した彼女は再び一方的に一つの下の少年に殴られた。
× × ×
「……いやなゆめみ、ふゃ~あ~な」
嫌な夢を見たな、と欠伸混じりに零す。彼女、叶切利は長距離バスに揺らされているうちにうたた寝しているとそこで見た夢は幼き日の頃の毎日のように起こっていた出来事を思い出す。
幼き頃の知り合い、年下の幼馴染、喧嘩友達、天敵、そんな言葉が表現できる彼。
彼女が宍原に足を踏み入れたのは中学の夏以来、三年ぶりだった。小学校の頃に両親の仕事の都合で転勤し、一年の夏と冬のどちらかの長期休暇に一度だけ祖父母に顔を合わせに来ていたのだが、中学からは本格的に自身も仕事に就くようになったためおおよそ三年ほどこちらには来ていなかった。
そして、今回は里帰りではなく仕事。
昨日の夜に知り合いの霊能力者である誅禍から連絡があり、故郷で怪異事件が発生しているためその事件を解決するように依頼が入った。
バスの窓へともたれかかる。窓の外の景色は懐かしくも少しだけどこか変わった風景を眺めながら今見た夢のことを思い出す。
「……忘れていたんだがな」
そう呟くのは今見た夢に出てきた悪魔のような彼の存在について。
忘れていたと言えば確かにそうなのだが、正確には随分と長い間意識していなかったという意味合いに近い。
引っ越してからたまに帰ってくるときはあったが、彼に出会うことは一度してなかった。最初の頃は地元の友達と話交じりに噂を聞いた程度だったが、そこから徐々に彼の存在を意識から離れていったのだが、記憶から完全に忘れ去っていたことは一度としていない。
なぜならば彼の存在は彼女が仕事を始めた時から心に決めていたからだ。
アイツのような悪いヤツがこの世の中に生きてはいけない、という正義感が芽生えたのだ。
今の彼女があるきっかけ。行動の指針。正義として形。
久しぶりに故郷に帰ってきたことで初心を思い出すよう、夢に出てきたのだろうか、と彼女は軽く笑った。
また、彼と闘うことになるとは知らずに。
× × ×
吉成君と鬼、血鬼との戦いを終えた翌日。
結局あの事件では負傷者はおろか、百人近くの死者すら出た。
あの後学校にいた人間は全員病院送りになり、血界の外にいた教師数名や榎先輩が裏から手を回してくれた『葬儀屋』と言われるその手の裏の稼業の人達が手を回してくれたようで、事件については都合を合わせて、表向きは『夏の陽射しの強さによる熱中症と貧血によって大量の生徒が倒れた』ということになった。
百人近くの死者が出たというのにそれで世間が納得するわけもないのだが、町では卒業生である吉成君が何かしたのでは、という噂が影で囁かれている。
試験前だった俺達は一先ずそれから逃れながらも、夏休みの前借りということで一週間近く学校は休み、……学校閉鎖となった。
そして学校周りが落ち着いた所で俺達は榎先輩から呼び出しを喰らって、学校の裏山にある榎神社へとやってきた。
一足先に来ていた夜名津は神社の前に突っ立ており、なにやらスマホに打ち込んでいる様子。一体どうしたのかと声をかける。
「よぉ、どうした?」
「あ、おはよう。いや、来たのは良いんだけど、どこに行けばいいのか分かんなかった」
スマホを一旦切り、そう答えてくる。どうやら単純に中に入ることを躊躇っては俺を待っていたらしい。コイツらしいと言えばコイツらしい。無駄に行動力あるくせに、変なところで立ち止まってしまう。
やれやれとため息を吐いてはついてこい、と俺が前へと出て先に進む。
神社は正面が神社の社で、その右隣が御守など売っている事務所。そして隠れた隣の一軒家が榎先輩の家。ついでにいえば神社の裏の方に空手やら剣道を教えている道場が存在している。
そのことを簡潔に説明すると、へぇ~、といつものどうでも良さそうな反応が返ってくる。
「詳しいんだね」
「まあ、地元民だからな」
「僕は隣の地区だからね。ここって確か、僕の記憶が正しければ小学生の時に課外授業か何かで来たような気がする」
そんな会話を交わしながら俺達は事務所の方へと顔を出す。事務所内では、何度か顔見合わせたことのある榎先輩のお母さんが中で何やら作業をしていた。
どうでもいいが、このような場所の人はよく巫女服の恰好しているものだが、榎先輩のお母さんはどう見たって普段着姿でパソコンに相手に四苦八苦している現代的なご様子。
正月とかイベント時には巫女服を着ている姿を見かけたことがあるが、普段は普段着で仕事をなされているようだ。
「おはようございます。すいません、設楽先輩に呼ばれたんですが」
「ああ、おはようございます。設楽に? ああお友達の子ね……。ちょっとお待ち、あら? どこかで見たことが……あ、もしかして千寿君? 千寿君ね!」
「あ、はい。お久しぶりです」
どうやらおばさんの方も俺の事を覚えていた様子。おばさんはうきうきとした様子で話しかけてくる。
「え、何どうしたの? あ、設楽だったわね。なに、約束があるの? もしかしてデートかしら? まあ、あの子ったら、巫女なのに罪に置けないわね。お義父さんが決めた吉成君っていう許嫁がいるのに。でもねでもね、おばさん、あの子怖いのよね。格闘家やスポーツマンって肩書き自体は良いんだけど、顔がね、そこらへんのヤンキーみたいでね。いえ、いい子だということ分かっているんだけど、どうしても見た目に引きずられてしまってね。その点千寿君は顔が爽やかなハンサム、って感じだからね。うん、おばさん応援するわ。男の子は女の子に優しく、時には強い所見せればイチコロよ。ええ、おばさんが保証するわ。ちょっとくらい草食系が肉食になるのが一番いいんだから!」
「あ、あのう、おばさん、そういうのじゃあないんで。あの、先輩をお願いします!」
おばさん特融のグイグイとくる話の圧と勘違いに戸惑いながら否定しつつ、先輩を呼んでくるようにお願いする。「あら、いけない。ちょっと待ってて」と受話器を取って登録ナンバーを押して家かどこかにいるであろう榎先輩にかける。少しして「設楽、彼氏が来たわよ」と誤解を招く発言をされて、何やら一悶着。少し会話が挟んでこちらへと笑顔を向けてくる。
「もう~、照れなくてもいいのにね。もう少ししたら来るから。あ、ごめんなさい千寿君。ようこそお参りくださいました」
と何かに気づいたように挨拶をするおばさんに、お客さんが来たんだと思った俺は慌てて横へと逸れる。背後にいた夜名津も倣って道を開けるのだけど、そこには誰もいない。
顔を合わせてはてなマークを浮かべる、俺と夜名津はおばさんの方へと視線を向けると、あら? とこちらもはてなマークを浮かべていた。
「千寿君、その子、お連れの人?」
「……はい」
どうやら一緒に来たはずなのにおばさんの目からは完全に夜名津の事が眼中になかった様子。それで夜名津を今来たばかりのお客さんか何かだと勘違いしたらしい。
ごめんなさいね~、てっきりおばさん人が来たのばかり思って、あはは。と笑ってごまかそうとする。夜名津は夜名津で「まあ、こっちも影が薄いんですいません」と謝る。
……お前はそれでいいのか?
「ハッ、三角関係? いえ、吉成君も含めて四角関係!?」
「違います」
さらにあらぬ誤解が生まれて、それを即座に否定する。夜名津に関してはどうでも良さそうに顔を背けていた。
というか吉成君、榎先輩と許嫁ってあの噂本当だったんだ。いや、中学時代に付き合っているとか、許嫁がどうのって話自体上がってきたことはあるけど。
榎母からの話でさりげなく出てきた榎先輩と吉成君との関係。元々、吉成君は小学校高学年か中学生の頃に空手を始めて通っていたのがこの榎神社の裏にある道場だ。
で、そこの関係性からかどことなく榎先輩と吉成君が許嫁や付き合っていると噂を耳にしたことがある。
……吉成君か。
噂話の真実と驚きつつも、同時に突如として出てきた彼の存在に遠い目になってしまう。
吉成君はあの戦いで本当に死んでいた。血鬼の言う通り、魂が食い殺されたんだ、と榎先輩が告げていた。
吉成君が学校で起こしたことが許せることではないけど、やっぱり子供の頃から付き合いのある学年の離れた友達が亡くなったことは心を掴まれたような荒む感覚と悲しみを覚えてしまう。
友達、だったんだよな……。
おばさんに解放され、空を見上げて吉成君を想う。
見上げた空は少しだけ曇っていた。降りそうで降らなさそうなそんな曇った空が俺の頭の上を浮かんでいる。
明日は雨の予報だった。七月に入ったが梅雨時期の本降りはまだ始まっていない。最近の梅雨は七月の最後から八月の頭近く。
「お待たせ、二人とも」
十分程度待っていたら榎先輩が現れる。恰好は何故か巫女服じゃなくて、弓道とか合気道とかの袴の胴着の恰好をしている。
「あ、どうも」
「おはようございます」
俺達はそれぞれ会釈と挨拶をすると、おばさんが驚いた声を上げる。
「あら、この娘ったらそんな色気もへったくれもない恰好で……これからデートなんでしょう?」
「違う。お母さん、朝説明したでしょう。今起こっている町での現象について彼らは協力者なの」
「……そうだったかしら?」
呆れた調子でため息交じりに突っ込む先輩にキョトンとした様子で首を傾げているおばさん。
先輩は頭痛を覚えたかのようにこめかみを抑えて、もういいわ、と諦めた。
俺達の方を振り返ると、こっちに来て頂戴、と神社の奥へと、裏側の方へと案内されて俺達は付いて行く。
夜名津が口を開く。
「あのう、すいません。あの人ってもしかして良く分かってないタイプの人ですか?」
「ええ、母は一般人よ。ついでに言えばここの生まれである父も霊感類は持ち合わせてないわ。持っているのは私と祖母だけよ」
おばさんの反応から察したのか訊ねると、榎先輩は同意するのとついでにと言わんとばかりに家系についてサラッと説明してくる。
霊感があるのは先輩とおばあさんだけなんだ。そういえば中学時代から祖母に修行を付けてもらったどうの、言っていったっけ。
ってことはおばさんの方は霊類の話の事情について知っていても、職業柄として専門外って感じなのか。まあ、嫁いできたおばさんが完全に部外者だとしても、お父さんに関しては、それはどうなんだろう……。仮にも防人という、結構な重要な位なのに。
「ってことは完全に才能って感じなんですね。霊能力者(予想はしてたけど)」
「正確には私のような生まれついての先天的な才能と、あなたのような霊障を受けた後天的な才能で別れるわね」
先輩が漫画でよく見るような説明をしてくるのに対して、夜名津は相変わらずどうでも良さそうな調子で受け応える。自分で聞といてなんでコイツどうでも良さそうに返すんだろう、失礼だろうが。
おい、ととりあえず一言釘を刺しておく。
ついで、というわけではないが、今のやり取りやおばさんの反応でどうしても気がかりになってしまったことを訊ねてみる、
「吉成君が死んだことは説明していないんですか?」
「……ええ、後で話すわ」
少し間を開けて先輩は答える。
先を行く先輩の表情を窺えることはできない。表情だけでなく、伝わってきた受け答えだけの言葉ですら彼女の感情を読み解くことはできない。
許嫁であった吉成君が学校にあんな事件を引き起こしては死ぬという最期になってしまった、それについて彼女の心情は如何なものなのか、俺には計り知れない。
他人事のように言ったけど、俺もあまり他人事とは言えない。彼を殺したのは俺も同然だ。
確かに俺が闘ったのは肉体を奪った血鬼だし、とどめを刺したのは引き剥がされた血鬼自身だったが、あの時の俺は迷いながらも吉成君を殺そうとしたのは事実。
感情がじんわりと沈んでいく中俺は隣を歩く死んだ目をした友人を見る。夜名津は一体どう思っているのだろうか、
「(吉成君ってさっきの人が話に出てきたこの人の彼氏の人だっけ? え、なに死んだの? どういうこと? なんだろう少し気になるけど……でも人の生き死にだしな、余計なこと言ってもアレだし、シリアスな空気だから黙っとこう)」
相変わらず、無表情で何を考えているのかわからない。少なくとも、夜名津から見れば敵、あるいは嫌いな相手だった。けどあの戦いで吉成君をほぼ追い詰めたのはコイツ自身の手によってだ。
何事も罪悪感で苦しむことが嫌だの精神のコイツだが、果たして自分が傷つけて死んだ相手について、今どういう感情が渦巻いているのか。
俺は……夜名津のこういう所が心底怖い。
いつものようにどうでもいいと切り捨てるのか、敵対したとはいえ死んでしまったことを悔いているのか、それが一切感じさせない普段通りの様子。榎先輩とは違う。
榎先輩は所謂戒めや人前であるが故の虚勢といった我慢ならば、コイツの場合は最初から無い。他者に対して何も無い。
矛盾している。そして同時に矛盾していない。
他人に対して罪悪感を抱くことを何よりも恐れている癖に、他人がいなければ何もないと言わんばかりに普通の対応を取る。
人が死のうと、自分の手で殺そうとそれに対して何も思わないのではないか、という不安のようなものが覚えてならない。
そう考えると、やっぱりコイツは自分のことしか頭にないんだろうな……。
「ここよ、入って」
考え込んでいる内にたどり着く。道場だった。裏へと案内された時点で何となく予想は付いていた。
中へと案内されて俺達も靴を脱ぎ、中へと入っていく。奥に入るにつれて道場特有の匂い、カビ臭さと汗臭さ、そしてそれらがしみ込んだマットの匂い。上の空気は新鮮さがあり、地面はそれらがミックスしたキツイ匂い。中学の頃、選択で柔道入れた時のことを思い出す。
オス、失礼します、的な武道系体育家の挨拶した方がいいのか、と部屋に入室する時に考えたが、二人は特に何事も普通に入ったため何もせず入る。……中学の頃授業でコレしろ、って言われたんだけどな。
ホワイトボードの前に立つ榎先輩は手招きして、そこに座るように、と指示を出し、素直に従って俺達は生徒のような形で座に着いた。
「まず、事件について、そしてあなた達の今後について話をさせていただきます」
× × ×
時は少し遡る。
古郡吉成と血鬼との闘いが終えたその日の夜だ。
榎設楽は今日一日を通して、事件の後始末や隠蔽の手続き、周辺各所について説明を一通りこなしてはようやく家へと帰ってきては休息できる時間ができ、汗だくなった身体をシャワーで一日の汚れを洗い流していた時だった。
泥と汗、そして血でドロドロしていた身体が綺麗な生ぬるいお湯で解かされるように落ちていき、固まった筋肉もほぐれていくのを感じる。
(我一君。……夜名津我一君。彼は一体何者なの)
本日の一見で一番驚かされた人物の事を考える。
初めて会った時は最悪の印象、どこにでもいるちょっと上手くいかないことに拗ねているだけの根暗の少年程度くらいにしか見ていなかったが、今日の闘いで大きく視方が変わってしまった。
対面した時は本当にただの一般人だったんだが、あの呪術を使った古郡吉成との闘いによってか、それとも鬼獄呪魔の参加者としてか霊能力者と覚醒しつつある。
そして、それは自分すら凌ぐほどの才覚を感じさせるものだった。
いや、実力の話をするならば何も驚くのは彼に限った話ではない。
雨崎千寿もそうだ。
彼は昔ながらの付き合いで、夜名津同様これまで異能者としての気配というものは感じたことがなかった。どこにでもいる普通の気の優しい少年だった。けれど、今日の闘い、いえ、それだけじゃなく夕べの闘いでも雨崎千寿がいなければ榎設楽自身も危険だった。
シャワーをやめ、湯舟へとその身を沈める。夏場の気温に合わせて少しぬるめの温度は今日一日の疲労を癒してくれる。
手でお湯を注ぎ、様々なことを振り返るようにしばし見詰め、それを顔に打つ。
(おそらくは雨崎君のアレは霊能力者ではなく……血統者)
祖母から聞いていた話もあったが、これまで接していた際にその気配はなかった。おそらく自分とは違い、才能に恵まれなかったんだろうと。
だけど違った。雨崎千寿は、雨崎樹海の血を確かに引いている。
話に聞いていた、過去、この地に起きた大事件〝煉獄烙宴〟と呼ばれた大儀式を祖母と共に止めた人物。
(……おそらくこの事件も煉獄烙宴と同じ規模の大儀式。多分、私一人では解決することはできない。彼らの協力者が必要だ)
湯船から出て、風呂から上がる。その身を付いた湯をバスタオルで拭い去って着替えながら考えを纏める。
(彼らの潜在能力は未知数だけど、同時にチカラの使い方を分かっていない。最低でも基礎中の基礎を身に着けるように指導するべき)
まずするべきことは二人にチカラの使い方を覚えてもらうことがいいだろう。けれどどうしても時間的に考えて付け焼刃程度になってしまうがそれでも無いよりかはマシだ。あるとないとではない全然違う。
実際は死人が出るほどの儀式に中途半端なチカラを付けること自体何よりも危険だということは重々承知している。本来なら二人を巻き込まずに保護して、協力者としては師である祖母に相談したいところだが、現在入院中。祖母に余計な辛労を加えたくない。
彼らを育て、護りながらも、この儀式を解体する。
そう結論付けて、頭痛を覚えた。
やはり現実的ではない、と。
祖母からお墨付きをもらったとはいえ、まだ未熟な身。自身の実力については重々承知している設楽。素人二人を引き連れて、この未曽有の事件に立ち向かうのは命を捨てに行くようなものだと判断する。
(それならあの人に頼るべきか)
頭に思い浮かべた、知り合いの霊能力者。彼に協力を要請しようとスマホを取り、連絡する。
「もしもし、誅禍さんおひ―――」
『ちょっと待て。今取り組み中だ。十分後くらいにかけ直す』
一方的に話を遮られて通話が閉ざされた。
恐らくは仕事中なのだろう、と思い仕方なくかけ直してくるのを待つ。
そして、四十分後くらいになったくらいで電話がかかってくる。
『わりぃ、忘れてた。っていうか、死にかかってた。どうした?』
「いえ、こちらこそすいません。仕事中でしたか?」
『ああ、何とか一段ら―――』
『ねえ、ちゅーちゃん。チュ、一体誰? チュ、どこの女?……あ、また大きくなっている♡』
『え~、浮気~。もうしないって約束したじゃん。あん♡ だめ、そこ♡』
『みぃ~、浮気者のちゅうかにはこうして……いや~ん♡』
『―――くついた』
「……仕事をしているんですよね?」
相手以外にも傍ら聞こえてくる多数の女性の艶と色気のある声に対して、榎設楽は静かに圧の入った声でもう一度確認し直す。
『仕事中だ!』
力強く言い切った。
『ん、ん、ん♡ もう……何度目♡ 壊れちゃう♡』
『すごい、朝からずっと、もう……え? まだ大きくな―――~~~♡』
『バカ、バカ、バカ、……もうぅ~大好き♡』
「…………」
『で、どうした?』
よくその言葉を吐けるな、と軽蔑八割で慄く榎設楽はこの人に頼ることを一度は諦めようかと電話を切りたくなったが、他に頼れる知り合いがいないためにギリギリで思い立った。
「実は、今宍原に怪異事件が起きているんです」
『そうか。具体的にどんなだ?』
怪異事件と聞き、電話の相手誅禍は仕事モードに切り替わり、短く真剣な声色で詳細を訊ねてくる。周辺からは相変わらず艶と色気のある声は止まないことに苛立ちを覚え、所々で強い口調で内容を伝える。
「現状、恥ずかしながら未熟な私の手だけでは不可能だと判断しました。誅禍さんがこちらへと来てくれませんか? あるいは仏霊会から数名派遣をお願いします」
現状について大体の話を終え、救援の依頼をお願いする。誅禍は神妙に頷く声が漏れる。
『助けに行ってやりたいが悪い。今、こっちの仕事を手放せない』
『きゃ! もう、まだこんなにして~♡』
『休ませてよぉ~、え~、まだぁ~♡ まだなの~♡』
本当に仕事なんだろうか?
相変わらず傍らか聞こえてくる女性の嬌声に訝しげな思いでいる設楽。誅禍はそれに気づかずか、それとも全く意識していないのか真面目に仕事に対して思考を回しては返答する。
『とりあえず、手の空いている所で叶ン所の嬢ちゃん、……切利だったか? に行かせるわ』
『イク~~~!! イッちゃう!!』
『話によるとひよっこの血統者がいるんだって? アイツもそうだし育てさせろ。絶滅危惧種だしな。何よりお前と同い年で顔見知りだったはずだろう? 地元もそっちだったはずだよな。組みやすいはずだろ?』
「ええ、りっちゃん……切利とは親戚ですし。仲もいいです」
『ナカはダメぇ~! ナカはダメなの~♡』
『そうそう。ま、アイツはここ最近伸びてきてるって話だし、こっちから連絡入れてみるわ。仏霊会にも色々と話をつけておく。明日か明後日はそっちに行くだろうから』
設楽としてはできれば年が近い相手よりも上級霊能力者辺りを来てもらいたかったのだ、雨崎千寿のことを考えると彼女に来てもらうこと自体ありがたい。
「……分かりました」
『俺もできるだけこの仕事済ませて、そっちに合流する。話を聞く限りどうもきな臭い』
相変わらず背後から聞こえてくるピンク色の悲鳴を耳にしながら、一体何の仕事やら、と軽蔑した瞳で電話を切った。