シングルマザーとショタジャカロ③
2021年3月3日。
母子家庭の母親、真麻 麻夜はその夜、買い物から帰宅している途中だった。
割引の食材をどっさり詰め込んだバッグの紐が、肩に食い込む。
疲れたため、近所の公園のベンチに腰を下ろした。
「あたし、どこで選択を間違えたんだろ……どうすればよかったんだろ……」
麻夜はそれまでの自分の人生を思い出していた。
……再びしんどい回想シーンが入るが、今度こそこれで最後である。
麻夜の抱える苦悩と自己嫌悪の源泉を説明するために、あとほんのわずかだけしんどい文章にお付き合い頂きたい。
麻夜が子供の頃。父である真麻 飛助は肺癌で病死した。
寂しがる麻夜を、母の輿恵と、祖父の切太、祖母の鳴夜は大事に育ててくれた。だが、その大事さは、過剰な厳しさを伴っていた。
切太は飛助の死を境にして、麻夜を厳しく教育するようになった。「お前はたくさん勉強して、いい大学に行って、いいところに就職しなきゃだめだぞ」と言い聞かせ、青春を勉強に集中するように言い聞かせた。友達との遊びが長引き、門限が過ぎると、こっぴどく叱った。麻夜が同級生の男子と仲良くなると、「子供のうちから恋愛にうつつを抜かすと勉強に集中できなくなるからやめろ」と無理矢理別れさせた。
輿恵や鳴夜は、切太に対して「厳しすぎではないか」と諭すこともあった。だが、その度に切太は激昂し、怒鳴り、「バカに育ったらまた苦労するだけだぞ」「麻夜はうんと勉強して幸せにならなくちゃ駄目なんだ」「俺の言うことが絶対に正しい」と一方的に主張した。いつしか家庭内には「切太の言うことは絶対であり、逆らってはならない」という空気が出来上がっていた。
そんな祖父、切太のことを、麻夜は当時疎ましく思っていた。友達と遊びたいし、好きな男の子と恋愛もしたい。勉強ばかりの窮屈な生活はしたくない。麻夜がそう切太に言うと、ひどく怒鳴られ、いいから勉強しろ、そうしなくては立派になれないぞと厳しく説教をされた。なぜそうまでして勉強ばかりさせたがるのか分からなかった麻夜は、祖父に理由を尋ねたが、答えは返ってこなかった。
……自分の意見や意思を封じ込められ、勉強ばかり強制させられた麻夜は、表面上は真面目な風を取り繕ったが、本心では勉強が嫌いになった。友達と一緒に遊び歩きたい、異性と交際したい。そんな本音がずっと抑圧され続けた。
やがて麻夜は、それほど名が通っていない女子大へ進学し、一人暮らしを始めた。そんなとき、バイト先で出会ったのが、かつての夫、千谷 茶良夫であった。茶良夫は麻夜を口説き、いろいろな遊びを教えた。酒、タバコ、パチンコ、スポーツ、そして男女の営みなど……。麻夜はそれらを大変魅力的に感じた。今まで抑圧されていた分、のめりこんでしまったのである。麻夜は茶良夫を愛し、彼からもっと愛されたい、もっと振り向いて貰いたい……と望み、精一杯尽くした。
そうして麻夜は、茶良夫とできちゃった結婚をした。
事後報告を聞いた祖父の切太は激怒した。チャラチャラした茶良夫を見て、「こんな男と結婚したら不幸になる」と怒鳴った。だがもう妊娠までしてしまっているのに、今更関係に難癖を付けられてもどうしようもない。その上、麻夜にとって茶良夫は初めて自分の本音を受け入れ、楽しいことをたくさん教えてくれた男性なのだ。それを否定されることは、祖父といえど許せなかった。麻夜はそれからしばらくの間、実家に連絡を入れることはなかった。
やがて麻夜と茶良夫の間に娘が産まれた。講義とアルバイトと子育てを両立しなければならないため、金銭的余裕も時間的余裕も麻夜にはなかった。夫婦で負荷を分け合えればまだなんとかなったのだが……、なんと茶良夫はそれらの負担を麻夜に押しつけて遊びほうけていた。共働きをしているのに「子育ては女がやるものだ」と主張したのだ。麻夜が抗議すると、茶良夫は麻夜へ激しく怒鳴りつけ、暴力を振るった。麻夜の家では「祖父が怒鳴ったら、絶対服従しなくてはならない」という観念を刷り込まれており、そのせいで麻夜は男に怒鳴られると逆らえなかったのだ。気に入られなきゃならないと思い、夫に媚びへつらった。それに気をよくした茶良夫はつけあがり、ついには不倫をやらかした。
そうして、茶良夫のやらかした大小さまざまなことが積み重なり……、やがて限度を迎え、離婚した。そうしてやっと麻夜は気付いた。自分はただ茶良夫に遊ばれ、性的搾取されていただけだと。彼はもともと子供など欲しがっておらず、ただ快楽のために麻夜を使い捨てただけなのだと。
無気力状態となった麻夜は、大学を中退し、娘と共に実家へ帰った。
心身共にズタボロになって戻ってきた麻夜の姿を見て、切太はやはり激昂した。
「だからあんな男とくっつくのはやめろと!ワシは言ったんだ!」
それに対して、麻夜は珍しく言い返した。
「でもあの人は!あたしに優しくしてくれたよ!おじいちゃんと違って!楽しいことをたくさん許してくれた!愛してくれた!この家で禁止されてたことを、ほんとはやりたくてもできなかったことを!許してくれた!彼といっしょになりたかったんだもの!」
なにか言い返そうとした切太を脇目に、麻夜の母、輿恵は言った。
「麻夜には勉強だけじゃなく、遊びや恋もさせるべきだったのよ!そういうことを若い内に安全に覚えなかったから!あんな男に簡単に騙されたんじゃないの!お義父さんのせいです!」
そう言われて激昂した切太は、逆上して輿恵を突き飛ばした。転倒した輿恵は、痛そうに腰を押さえていた。だが輿恵は切太を睨み返し、さらに言葉を続けた。
「頭に血が上ったらすぐにこうやって怒鳴って、暴力を振るって!ちゃんと話し合いもせず、無理矢理言いなりにさせて!麻夜を捨てたあの男とおんなじじゃない!お義父さんがそうやって!なんでもかんでも怒鳴って言うこと聞くように麻夜をしつけたから!あの男の言いなりになって!好き勝手されてもずっと何も逆らえなかったんじゃない!孫娘がお人形さんみたいに扱われて満足ですか!?」
切太はさすがに何も言い返せなかった。
「ワシは……こんなふうになってもらいたいんじゃなかった……麻夜には幸せになってもらいたかっただけで……」
いつもと違って本気で落ち込んでいる切太。その傍でずっと口を閉ざしていた鳴夜は、静かに口を開いた。
「麻夜、切太さんは悪くないの。切太さんは、本当に、あなたに幸せになってもらいたかったの」
そして鳴夜は、切太が麻夜に対して必要以上に厳しく教育してきた理由を、正当化するように語り始めた。
かつて切太は、大きな会社でひとつの工場の工場長をやっていた。プラスチックの材料、アセトアルデヒドを製造する工場である。アセトアルデヒドの生産は国家へ非常に大きな利益をもたらすため、当時の切太はそれなりに裕福であった。だが、その工場は副産物として、大量の有機水銀を海に垂れ流していた。これが原因で、海産物が有害物質に汚染され、それを食べた大勢の人々が公害に苦しむことになった。
工場に対する政府の庇護は厚かった。アセトアルデヒドの生産がもたらす価値は莫大であり、日本経済の発展のためには、止めるわけにはいかなかったのだ。そのため当時の政府と工場は協力して事件を隠蔽し、原因は他のなにかだと言い逃れをし続けた。しかし、やがて工場排水と公害の因果関係が認められ、切太の工場は賠償責任を負わなくてはならなくなった。
だが、政府はそのアセトアルデヒド会社を切り捨てた。政府が大量殺人に加担していたことを認めるわけにはいかないため、全ての賠償責任を切太のいる会社になすりつけたのである。その後、工場は賠償金支払いのために倒産しない程度に絞り続けられることになったのである……。
などと鳴夜がしくしく泣きながら語っていたが、輿恵は「そんなことは麻夜に関係ない。さっさと話を進めなさい」とせかした。鳴夜は続きを話した。
工場内でも責任のなすりつけ合いが発生した。その際なんやかんや非合理的なことがあったようで、切太は借金を負わされ、やがて工場から追放された。真麻家は一転して貧しくなってしまったのだ。公害の被害者達から「恨まれ役」にされたのである。地元で死ぬほど憎まれた切太は、鳴夜とともに遠くへ引っ越して働いた。
そんな事情を抱えた貧しい家庭に産まれた、切太と鳴夜の子……飛助は、高校に進学する余裕などなかった。中学を出てからすぐに、建設業に従事して働いた。過酷な労働現場であった。粉塵が舞い、現場の作業員の多くが喘息などの職業病にかかっていた。それでも飛助は、家が貧しくて不名誉を負っていたがために、職業病が蔓延する過酷な現場で働き続けるという選択肢を採らざるを得なかったのだ。
やがて飛助もはげしく咳をするようになった。症状が軽い内に通院していれば、悪化は防げたかもしれないのだが、貧しさと知識不足が故に、初期症状を放置してしまった。そして症状はどんどん悪化した。病院に行った頃には、もはや手遅れのステージまで肺癌が進行していたのである。当時は規制されていなかった発がん性物質である石綿を頻繁に吸い込んだことが原因であった。輿恵は、幼い麻夜を抱きかかえながら、飛助の最期を看取った。
かつて大勢の人々の命を、汚染物質による公害で奪った工場に勤めていた切太。その息子が職業病で命を失ったことは、切太への因果応報であろうか。だが、切太とて己の一存で有機水銀を垂れ流していたわけではない。切太自身の意思よりももっと大きな力に指示され、それに従ったまでである。現在では、その「大きな力」は己の過失を認め、公害の被害者への補償活動を行っている。しかし、一時的なその場しのぎのために責任を押しつけられた切太は、「加害者側」の立場であるがために、何ら補償を受けられないのである。
息子を喪った切太は悔やみ、飛助がいなくなった分まで自分がしっかりしなければならないと気を張った。そして、孫娘には飛助のような不幸を歩ませないと心に誓った。それ故に、麻夜を厳しく教育し、いい大学に行けるように勉強へ集中させたのである。飛助と違って貧困に苦しまず、いい職場で働けるようにするためである。
……そして、その熱心な教育の結果が、このザマである。
ふんだりけったりの道を歩んできた真麻家が、めいっぱい大切に育てた箱入りの孫娘は、たった一人のくだらない男の下卑た欲望によってその人生の大切な時間をいともたやすく消費され、心を深く傷つけられてしまったのである。
鳴夜の話が終わった後、その場は静寂で包まれた。
麻夜も、輿恵も、切太も。その場の誰も、互いを責める気にはなれなかったのである。
後出しジャンケンで、それぞれの行動のダメ出しをしようと思えば、いくらでもできるだろう。だが、当時の各々は、それぞれが思い悩み、当時の行動をするしかなかったのである。「事後孔明」になって省みようも、それで時間が巻戻ってくれることなどないのだ。
……その後、切太に突き飛ばされて転倒したことで腰を痛めた輿恵は、3日後に痛みに耐えられなくなって病院に行った。医者からは「もっと早く来ていれば、悪化はせずに済んだのに」と言われた。
切太は自暴自棄になり、酒に溺れた。
「あの時ああしていればよかった」「このときこうしていればよかった」「あいつが悪いんだ」「ワシが悪いんだ」と、後悔からくる愚痴をいつも鳴夜に言っていた。
やがて、切太と鳴夜は認知症を患い……今ではもう、麻夜に対して「誰だっけお前」などと言うようになってしまった。
麻夜は訪問介護師に必要な資格を取得し、パート勤務で生活費を稼ぐようになった。
そして現在に至る。
麻夜は、切太と鳴夜の歩んできた苦労を知っている。それ故に、なにも知らない麻野子から「ぼけジジィとぼけババァなんて死んじゃえば良いんだ」などと言われると、逆上して怒鳴り散らしてしまうのだ。
かつて、切太や茶良夫にされたのと同じ事を、自分の娘にしてしまっている。その度に麻夜は激しい自己嫌悪に襲われる。
麻夜は公園のベンチに座りながら泣いていた。もう何もかも疲れた。再婚相手を探すことにも、セクハラパワハラだらけの職場も。一人では何もできなくなってしまった祖父母の介護も。何もかも終わりにして楽になってしまいたい。母の輿恵と娘の麻野子だけを残して、祖父母を道連れにして心中でもしてしまいたい。
だが、そうはいかない。あんなクソ男との間に産まれた子であっても、麻野子は祖父達が死に物狂いで繋いできた命のバトンを受け継いだ大切な一人娘だ。どんなに反抗的であろうとも、麻夜の自殺によって麻野子を不幸にするわけにはいかない。自分を支えてくれた母親、輿恵を悲しませるわけにはいかない。気が狂いそうなほどの心労の負荷で、麻夜は大声で泣きわめいた。
「もういやだよおおおおおお!!!なんでわたしばっかり!!!こんな目に遭わなきゃいけないんだ!!!!まわりの皆は幸せそうに暮らしてるのに!!!私ばかり!なんでええええ!!!!」
……その時。
「あの……大丈夫ですか?」
そばから少年の声が聞こえた。
声の方を向く麻夜。そこには、うさぎの耳と鹿の角が生えた美少年がいた。半袖シャツとサスペンダー付きの半ズボンを履いており、焦げ茶色の髪は清潔感を感じさせる。服の背中の部分には、天使の羽を模した小さな飾りが付いている。
「……誰?どこの子……?なにかの仮装してるの……?」
「……自分でも分かりません。僕がどこから来たのか……」
「……なにそれ。ごっこ遊び?くすっ、かわいいね……。早くお家帰ったら」
「……でも。お姉さん、すごく悲しんで……泣いてます。とっても辛そうですよ」
「いいから。気にしないで。あっち行って」
麻夜は、誰でもいいから寄り添って欲しいという気持ちを持つ反面、まだ将来のありそうな少年に、自分などに関わって嫌な気分になって欲しくないという気持ちも持っていた。それ故に拒絶の言葉を吐いた。だが……
「大丈夫ですよ。ゆっくり、落ち着いて……」
うさみみ美少年は、麻夜の頭をそっと抱きしめ、自分の胸元へ優しく触れさせた。
ぬくもりに包まれた麻夜は、ぼろぼろと涙をこぼし、泣き崩れ、うさみみ美少年の胸に頬を押しつけて抱きしめ返した。
ひととおり泣いた麻夜は、自分の辛さをひたすら吐露した。
本当は、素敵な男性と巡り会って、幸せな家庭を持ちたかった。
親の期待に応えて、バリバリのキャリアウーマンとして働きたかった。
あんなに立派だった祖父母が呆けた姿などもう見たくない。介護もやめたい。
きつすぎる職場もやめたい。
何もかも辞めて楽になりたい。
元夫には、せめて養育費くらいは振り込んでもらいたい。
普段から抱えている、叶うことのない願いを、美少年にぶちまけた。
うさみみ美少年は、「キャリアウーマン」「不倫」「学校」「部活」「万引き」「養育費」などの、一部の単語を知らないようだったが、それでも麻夜の悩みを受け止めてくれて、ともに涙を流してくれた。
「聞いてくれてありがとう……少しは楽になったよ。それじゃあね、あまり帰りが遅くならないようにね」
麻夜はベンチから立ち、自宅へ向かった。愚痴を吐いたところで、何も変わらない。誰も助けてなどくれない。誰も自分に人並みの幸せを与えてなどくれない。……そう自分に言い聞かせ、また明日から辛い日々に戻るしかないのだ。
だが。
「僕も麻夜さんのお手伝いします!!」
うさみみ美少年は、麻夜についてきた。驚く麻夜。どうやらうさみみ美少年は、どこかから家出してきたわけではないらしい。自分の住所も、親の顔も、名前すら知らないらしい。頭に付いているうさみみやツノ、尻尾は、飾りでは無く体から直接生えている。なんと人間では無く「ジャカロ」という生物らしい。なんと非日常的で、非現実的な存在であろうか。……麻夜は、美少年を交番に連れて行って保護して貰うべきはないかと考えた。だがその一方で、この先もう一生「自分を手伝ってくれると言う者」など現われないだろうと確信していた。猫の手も借りたい麻夜は、うさみみ美少年を家へ連れて帰った。
これが夢か現実かなど分からない。だが、未成年者誘拐罪になろうと知ったことではない。手伝ってくれるというなら、手伝って貰おう。そして自分のつらさを思い知らせ、簡単に手伝えるものではないということを少しでも理解してもらおう。そう思ったのだ。
……翌朝。
「初めまして、ジャカロです。よろしくお願いします」
麻夜のそばで、ぺこりとお辞儀をしたうさみみ美少年を見て、麻野子は驚いた。
「ママ、子供に手出したの?うわぁ……終わってるねマジで」
「麻野子、ニュース見てないの?ほら見てよ」
麻夜はテレビをつけ、ニュース番組を映し出した。
すると、どの局もジャカロという生物に関する報道で持ちきりだった。
2021年3月3日の夜、世界中で、謎のうさみみ獣人型生物「ジャカロ」が出現した。
麻野子は、大きく目を見開き、口をあんぐり開けて叫んだ。
「え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛!!!???」