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「ど……どうしたの?」
予想外の反応にリデルはあわてた。泣かせてしまうほど、きつい口調だっただろうか。
けれどセレナは、姉姫の言葉に傷ついたわけではなかったらしい。
涙がこぼれないよう、まばたきをこらえながら、頼りない声でささやいた。
「わたしも……わたしもほんとは、お姉さまのお手伝いがしたかったのよ」
「それなら」
「でも、しないほうがいいって気がついちゃったの。だって……」
「だって?」
「だってわたし、悪い子なんだもの。悪い子がお星さまにお願いしても、神さまはきっと聞いてくれないわ」
──やっぱり簡単ではなかったと、リデルは内心ため息をついた。
いま、じっくり話をするほど時間があるとは思えない。なんといっても流星群がやってくる大切な夜であり、そのときはどんどん近づいてきているのだ。
もうそろそろ窓辺に戻っていないと……。
けれど、リデル姫が自分の不安を妹だけに打ち明けたように、妹姫もまた、姉にだけは打ち明けたいという気持ちを持っていたらしい。そして、その気持ちを抑えきれなくなったらしい。
「あのね……誰にも言わないでね」
見ていた絵本をパタンと閉じると、セレナ姫は幼いながらも心を決めたような口調になった。そして姉の返事も聞かずに、自分を悩ませている事柄について語りはじめた。
セレナによると、悩みは昼間、星まつりを楽しんでいるさなかに突然やってきたらしい。
星まつりはレントリアの祝祭日で、人々はみな星の神さまに感謝をささげたり、広場で歌ったり踊ったり、ちょっといい食事をしたりしながら憩いの時を過ごすことになっている。
もちろん王城の庭園でも吟遊詩人たちが楽を奏で、曲芸師たちが目を丸くするような技を披露して、小さなお姫さまたちを思い切り楽しませてくれた。
といっても、それらはすべて夜のための前奏曲のようなものであり、本番はもちろん夜中、流星を迎える瞬間に訪れる。
セレナもそれを待ち望んでいたし、たくさん星をみつけて姉といっしょに願いごとをとなえるのだと、意欲十分だった。もともと、そういうお祭りごとが好きな明るい性格だったのだ。
ところが……その意欲をぺしゃんこにするような考えが、突然降ってわいてきた。
庭園に出された椅子に腰かけ、木々に結ばれているお祭り用の国旗を眺めていたときだ。旗に描かれた守護聖獣リンドドレイクを何気なく見ているうちに、セレナはふっとこう思った。
──お星さまにお願いしなくたって、リンディさまに願えばいいんじゃないかしら? だってわたしたち王族は、リンディさまと直接会うことができるんだもの。
苦労してお星さまをみつけなくても、わたしたちは<逢瀬の間>に行けるんだから、お願いごとなんか簡単に……。
しばらくぼんやり考えたあと、セレナは我に返って首を大きく左右に振った。
だめだめ、そんなこと考えちゃ。リンディさまは、王族だからってえこひいきしたりしない。すべての民に平等なんだと、お母さまからもお父さまからも司祭さまからも、ちゃんと教えてもらったじゃないの。
地底深くの洞窟に住まい、レントリア国を静かに見守り続けている、守護聖獣リンドドレイク──。
リンドドレイクは、この地を守るために星の神さまからつかわされた聖なる竜だと言われている。
かつては地上に身をおいて、偉大な力で魔物たちを討ち祓っていたのだが、初代女王エルフリーデが建国するのを見届けたあとは、その居場所を地の底にうつした。
それから数百年の時が経ったいま、じかに対面することができるのは、唯一、エルフリーデ女王の直系である王族だけだ。
セレナ姫は、<逢瀬の刻>と呼ばれるその対面を、姉妹とともにすでに経験している。
巨大な水晶を彫刻したように美しい竜の、おだやかな気配とやさしい声音。三姉妹は深い感動を覚えたのだが、対面するに当たっては……そしてそれが終わったあとも、大人たちからくりかえし、こう言い含められたものだった。
守護聖獣に会えるからといって、王族が特別扱いされているわけではない。王族だけが特にえらいというわけでもない。
逢瀬がかなうのは、地上の人々の顔を忘れないようにすることを、守護聖獣がお望みだから。人々の日々の営みを知りたいと、心底願っておられるから。
王家は人々の代表として面会しているだけだということを、いつも忘れないようにしなければならない。
この言葉は、長年続いてきた王家の教育方針で、アデライーダ女王も忠実に実行していた。
一般ではもはや伝説上の生き物となっている守護聖獣と、じかに会って会話までするとなると、特権意識が強まっても不思議はない。子どもだけでなく大人自身に対しても、戒めの言葉は大切な意味を持っていたのだ。
そういうわけで、セレナ姫は一生懸命首を振って、自分の思いつきを忘れようとした。守護聖獣を流れ星のかわりにする──それが戒めに触れる考えかたであることを、彼女はきちんと察していた。
よくないことを考えちゃった。忘れなきゃ。星まつりには子ども心をつかむ催しものがたくさんあるので、忘れるのは意外と簡単だったのだが……。
ふとしたきっかけで、流れ星に関する言い伝えを思い出してしまった瞬間。セレナは息を呑んで立ちすくんだ。
頭の中には真っ暗な夜空が浮かび上がった。その夜空を、あかあかとした光が流れていく様子が見える。
流れ星は、天のかがり火。天の扉からこぼれ出てきた、聖なる火。
流れながら、あたりを照らす。
空を照らし町を照らし、南の塔の窓辺を照らす。窓辺で見上げる人たちを照らし、わたしのこともきっと照らす。
そうして心の中まで照らしたら。
神さまには、わかってしまうにちがいない。悪い考えを持った子が、ここにいるということが──。
「わたし、こわくて……」
話のおわりに、セレナは身震いすると、小さな身体をさらに小さくして縮こまった。
「照らし出されるのがこわくて。窓のそばにいられなくて」
「セレナ……」
「神さまにおこられちゃったらどうしよう。ばちが当たっちゃったらどうしよう……!」
「セレナ、泣かないで」
リデルは夢中で両手をのばし、妹の両手を握りしめた。
かがり火ではなく手燭の灯の中に、幼い泣き顔が浮かび上がっている。それをみつめながら、自分も泣きそうな声で必死に言った。
「大丈夫よ。わたし、流れ星にお願いしてあげる。セレナにばちが当たりませんようにって。だから、ひとりで心配しないで」
「お姉さま、ほんとに……?」
妹姫が、涙にぬれた青い目を上げる。
「うまくいくかしら……」
「がんばるわ。きっとうまくいくわよ」
セレナの瞳に希望の色がよぎったが、すぐに不安げな色に戻った。
「願いごとは三回もとなえなきゃいけないのよ。むずかしいわ。それにお姉さまには、立派な女王さまになるというお願いだってあるんでしょ?」
「それは……」
リデルは言葉に詰まったが、ほんの一瞬だった。すぐに力強くこう言った。
「そのお願いは、いまじゃなくてもいいのよ。だって女王さまになるなんて、まだまだ先の話なんだもの」
リデル姫は、これ以上ないほど反省した気持ちだった。
守護聖獣についてのセレナの思いつきが、神さまをおこらせるほど悪いことなのかどうか。それは正直言って、いまのリデルには判断できない。
似たようなことを漠然と考えたことなら、リデル自身にもあった気がするからだ。
けれどそんなことよりも、これほど妹が悩んでいたのに全然気づいていなかったということが、リデルには何よりショックだった。
悩みを抱えているのは自分だけだと思っていた。セレナはいつも軽やかで気楽そうで、なんだかうらやましかった。
ところが、いまセレナが打ち明けた悩みは、女王になるのが不安だなどという悩みよりも、はるかに深刻で恐ろしい。さぞつらかったことだろう。
それを彼女は口にも出さず、ひとりでじっと我慢していたのだ。
「それによく考えたら、立派になることを神さまにお願いするなんて、よくなかった気がするの。その前に自分でがんばらないとね。そんなことより、あなたにばちが当たらないことのほうが、ずっと大切」
「お姉さま……」
感動したようにセレナ姫が呟いた。
そのとき、ふいに後ろから男の人の声が聞こえてきた。
「大丈夫。ばちなんて当たりませんよ」
びっくりして振り向くと、書架の横に手燭を持ったダズリー伯爵が立っていた。横には乳母のハリエットも並んでいる。
普段は気難しげなダズリー伯爵の瞳が、いまはやさしく和んで見えた。ハリエットも笑みをうかべて、お姫さまたちを愛しそうにみつめている。
伯爵が近づいてきた。しゃがみこんで目線を低くして、セレナの顔をのぞきこんだ。
「神さまは、そんなことでおこったりなさいません。セレナさまを愛しておいでですからね」
「でも、わたし……」
「いいことを教えてさしあげましょうか」
内緒話をするように伯爵が言った。そして、さらに声を落としながら語りかけた。
「セレナさまがお考えになったことは、歴代の女王や王族のかたがたが、誰でも一度は考えられたことですよ」
この言葉には、セレナだけでなくリデルも目を見開いた。
「本当に?」
と、セレナがおそるおそる確かめる。
「はい。以前、女王陛下ご自身がそうおっしゃっていたのですから、まちがいありません。でも陛下はもちろん王族の誰一人として、それで神さまにおこられたかたはいらっしゃいませんね」
「……お母さまもお考えになったの?」
瞳をみはったままリデルがたずねた。すると伯爵は、子ども相手にしか見せない、いたずらっぽい目つきになってうなずいた。
「ここだけの秘密ですよ」
「さあさあ、もう時間ですよ。みんなで上に行きましょう。もうすぐ流星がやって来ますからね」
ハリエットの明るい声が、しゃがみこんでいる三人をうながした。
「ばあやが思うに、セレナさまは上に行ったら甘いミルクを飲まなければいけませんね。ミルクを飲めば、涙なんてすぐにかわくに決まっています」
「はちみつ入りなの?」
セレナ姫の頬に赤みがさした。
「たっぷりですよ」
と、ハリエットが請け合った。