102話
雷は音だけ止んで、暗雲が瞬いていた。少しすると雲の切れ間から光が射すようになり、雨も弱まってきた。ランはしおれ、夜の花がするように再び顔をゆっくり地に落とした。
「とけてもおいしいねえ。もうすこしでたべおわっちゃうよ」
オバケがマンゴーの最後の一切れを俺に差し出した。断ると、ふうんと言いながら平らげた。満足そうな顔を見て、ランにもこうしてやればよかったと、やらなかったことばかり思い出される。
「そろそろ行こうか」
「あめもやんでないし、おねえちゃんともまだはなしてないよ」
オバケはスプーンを舐めながら俺を見上げた。
「いいんだ。ランにまた会えたことだけで十分なんだ。また、何度でも会いに来れるさ」
ビニール屋根の下から出る俺を、オバケは唇を鳴らしながらも渋々追ってきた。ランは近くを通り過ぎても気づく様子はなかった。もういいんだ、と自分に言い聞かせて離れていった。小雨が降り続いている。どこかで服を乾かさなければいけない。
「ないているの、パパ?」
気づいて頬をぬぐう。ぬぐっても、また何条も小川が流れて、止め処なかった。それが雨であればよかった。俺はそこから動けなくなって、感情を抑えられなくなった。声をあげていると、ぶら下がった俺の手を握る小さな力を感じた。その小さな手はどこかへ俺を優しく引いていくようだった。
「どこまでいこうね」
応えたかったが、うまく言葉にならなかった。オバケに導かれるまま歩いていた。あそこからずいぶん離れただろう。俺は顔も気持ちもぐしゃぐしゃになって、どこを歩いているのか分からなくなっていた。オバケが急に立ち止まって言った。
「みてよ、とってもきれい。かおをあげて、パパ」
言われて目をあけても、視界が潤んでよく見えなかった。腕で何度拭っても、涙はとめどなく流れてくる。やっと落ち着いて眺めると、雨はいつの間にか止んで、青白い晴れ間が疎らに空へあった。
目の前の道には、たくさんの人間が、いやよく見ると、透けたゴーストやヘルツが行き交っていた。雨を避ける生者のいなくなった隙に、出てきたものらしい。建物や舗装路は濡れて輝き、それが数多の透けたからだに乱反射して、虹をそこここにつくっていた。しばし見とれていると、オバケは手をつないだままプリズムの中へ分け入って行こうとした。狼狽えたが、不安はひとかけらもなかった。実体のないレンズで凝集された虹が幾度もからだを射た。俺たちに向かって、光が集まってくるようで、夢のような美しさだった。
「みんな霊だね」
虹色の顔をしたオバケは弾むように言った。
それを聞いて、どうしてだかその通りだと思えた。きっとオバケは見たままを言っただけだろう。けれど、俺には死者も生者も境なく、等しく霊なのだと、そう聞こえたのだった。それはつまり、俺もあの霊妙な透けたからだを持っているということだ。ランと同じ、美しいからだだ。
雨上がりの空気を深く吸い込み、静かに吐いた。すうっと憑き物がとれたようにからだが軽くなった。ふくらんだ七色が行く道の先々に落ちている。
「俺たち霊なんだな」
「うん!」
力強く頷き、オバケは再び歩き出した。
ずっとつながれていたからだろうか、生々しい体温で手が熱かった。血が新しくめぐり出した気がした。
実体なき雑踏を抜け、俺たちは歩きつづけていた。どこまで行くか分からなかったが、きっとオバケはどこまでも遠くに歩いていくのだと思った。もし、オバケが疲れて立ち止まっても、今度は俺がこの手を引いていけばいい。眠そうになったら、背負ってもいいだろう。ずっとこのあたたかみを感じていたかった。
母親を探しにどこまでも行くのだ。街中、国中、見つかるまで歩いていく。
生きているのだ。
あ、とまるい声を出してオバケが止まった。
見上げると、空には吹きこぼれたような大雲だ。なんかママに似ている、そうオバケに言われると、人の顔に見えないこともなかった。オバケの母はずいぶんふくよかだ。雲を追うようにまた歩き出した。
しめった風の中に、いのちの匂いがした。




