101話
ようやく辿り着くと、オバケが女の前にチェーのカップを差し出していた。血色こそよくなかったが、ランに違いなかった。俯いた目の焦点が合っておらず、カップには気づかないようだった。
「おねえちゃんにもわけてあげようとしてたの。でもね、ぜんぜんうけとってくれないし、わたしのこともみてくれない。みみがきこえなくなっちゃったのかな」
俺はじっくりとランを観た。姿かたちは生きていた時のままだったが、透けているのにあの頃より影の濃い、暗い艶かしさがあった。
「ラン、聞こえているか」
彼女にかけた声が微かに震えた。確かめたかったのだ、生きているか。ズックとのように話を交わせれば、生きていると思えるはずだ。彼女は微動だにしなかった。炎天下だというのに、汗を少しもかかず平然と立ち尽くしている。
「ラン」
「おねえちゃん」
今度は怒るような声が出た。それでも彼女の目は縫いつけられたように地に降りていた。死んでしまったのだ。生きてなんかいない、意思の通わない、姿だけが瓜二つの虚像なのだ。彼女は俺とは全く別の世界に立っている。
通じ合えないと知ってからも、俺とオバケは彼女から離れられないでいた。もう話しかけはしなかったが、視線の先に手をかざしたり、口元までマスカットを運んでみたり、気をひこうと試みていた。無反応に絶望がつづいたが、それでも去らないでいたのは、ランが好きだったからだ。生きていた頃は好意と性欲が混同していた。俺の中には誰に対しても性欲以上の興味なんてないと思っていた。もし、好意らしきものを感じても、それは欲情が蒸発した時に香る甘い幻だと思っていた。まるで違っていたのだ。からだがなくなっても、彼女に感じるこの気持ちは好意なのだと思えた。からだがなくなって、意思が通じず、死んでまで生前をなぞり、道で商売の真似をしようとする今、俺はランを大切にしたいと思ってしまっている。
死ぬ前に何故そうしてやらなかったとも思うが、きっと今でしか分からなかったことなのだ。俺はせめて抱きしめたいと思った。腕や胸をすり抜けようとも、構わない。そうせずにはいられないのだった。俺は彼女に向かって、半歩寄った。
俄かにランの青ざめた顔が上向き、俺と目があった。通じ合えたのだと思った。
腕が彼女に触れる間際、遥か彼方で地鳴りのような重い音が響いた。雷だった。途端に弱い雨が降ってきて、ランはそれを仰いだ。空はまだ青かったが、みるみる間に雲が迫って、雨脚が強くなった。俺とオバケはすっかり濡れたが、ランは矢のような雨に射られても平気な顔だった。厚く黒々した積乱雲が寄り集まって空は暗転し、彼女はそれをずっと見ていた。人間ならざる美しさがそこにあった。俺たちは最寄りの店先へ逃げこみ、雨雲が去るのを待った。
空からは光る背骨がしきりに降っていた。がらがらと大きな音をたて落ちてきて、時折地上にささりもした。分厚い雲の上に巨人の墓場でもあるような気になって、だとすれば地上はその太った骨の捨て場所かもしれなかった。天国など信じやしないが、もしそれが天高いところにあるのなら、この街の人間がそれを望まないのは、巨人たちに占有されているからかもしれない。人間は死んでもなお別の姿となって地にすがりついている。俺だったら雲の上の生活をしてみたいと思うけれども。
視線を戻すと、ランはまだ空を見ていた。雷の鳴る度、首を向けているが、何を考えているか分からなかった。元々そうだったのが、ゴーストになって、考えがあるのかすら怪しくなっている。俺たちの声はスルーして、自然の音や光ばかり気にしている。ゴーストは、人間というより現象に近いのかもしれなかった。それも、雷や陽炎とは別の、永い間地上に居座るものだ。生きているとか死んでいるとはまるきり違ったものだ。




