空っぽの宝箱
去年、高校の文化祭で配布したものです。
Twitterとpixivにも上げています。
「これには何が入ってるの?」
興味津々といった様子で、きらきらと輝く小さな箱を指差しながらそう訊ねる幼馴染に、僕は得意気な顔をしてこう言った。
「秘密さ」
幼い僕の、小さな意地だった。
***
秋風が頬を撫ぜる。
僕は教室の窓からぼんやりと校庭を眺めていた。
校庭ではクラスメイトがサッカーをしており、楽しそうにはしゃぐ声が聞こえてくる。
秋めいてきたとはいえど、まだ外は暑い。それなのに外に出ようと思うだなんて、僕には理解出来なかった。
教室に残っているのは、僕と数人の女子生徒だけ。女子生徒は集まって何やら会話をしているらしい。あの人気俳優がどうだとか、あのアーティストの新曲がどうだとか。
はっきり言って興味はなかった。でも、耳に入ってくるので、なんとなく聞いていた。
とりとめのない話題の中に、一つだけ、気になるものがあった。
明日、転校生が来るらしい──そんな話題だった。
転校生がやってくることなんて、初めてのことではない。それなのに、なぜか僕は転校生のことが気になって仕方がなかった。この時期の転校が珍しいからだろうか。でも、それだけではないような気がした。
***
駅のホームに降り立つと、涼風に迎えられた。
やはり田舎の夕方は涼しい。
空気を腹一杯に吸い込むと、一日の疲れが癒やされるような気がする。
僕がいつも聞いている、リスナーがあまりいない地方ラジオのパーソナリティーの話によると、今日は良夜らしい。
良夜というのは、中秋の名月の夜のことで、月がとても綺麗に見えるのだそうだ。
何にも関心がなさそうだとよく言われる僕だったが、美しい星空と、綺麗な言葉だけはとても好きだった。
家のベランダで星空を眺めながら、小さな卓上ライトだけを明かりにして、本を読む。それが僕の至福のひとときだった。その時によく読む本は宮沢賢治の本だ。宮沢賢治の言葉は、星空によく馴染むのだ。
今日は何を読もうか。銀河鉄道の夜か、セロ弾きのゴーシュか。シグナルとシグナレスや、よだかの星なんかも捨てがたい。
「ハルくん!? ハルくんだよね!」
あれこれと思考を巡らせていた僕を現実へと引き戻したのは、女の子の声だった。
透き通っていてよく通る、綺麗な声だ。
僕が振り向くと、栗色のショートカットの女の子が、こちらに向かって手を振っていた。
──ハルくん。僕のことをそう呼ぶ人を、僕は一人しか知らない。
「君、まさか──アキなのか?」
「そうだよ! 久しぶり! ハルくん」
まさかとは思ったけれど、本当にそうだったなんて。
彼女──稲森秋は、僕の幼馴染だ。
同じ団地に住んでいて、よく一緒に遊んでいた。でも十年前に引っ越してしまって、それから一度も会っていない。
だから、実に十年ぶりの再会ということになる。
「私のこと、覚えててくれたんだね」
「アキこそ。僕なんかのこと、よく覚えてたね」
僕がそう答えると、アキはリスみたいに頬を膨らませた。
「なにそれー。卑屈すぎ! 覚えてるに決まってるじゃん。桜木春太、愛称はハルくん。四月八日生まれのおひつじ座。血液型はA型。好きなものは恐竜の玩具」
彼女の記憶力にやや驚きつつも、僕は冷静な男を装う。彼女の前では見栄を張りたくなってしまう。昔からそうだった。
「ハルくんなんて呼んでたのはアキだけだけどね。それと、恐竜の玩具が好きだったのは昔の話だよ」
僕がそう言うと、今度はアキが驚いたらしく、大きく目を見開いてみせた。
「ええっ!? 今は好きじゃないの?」
「逆に、どうして今も好きだと思ったのさ。アキだって、人形遊び、流石に今はやらないだろ?」
僕が呆れたように溜め息をつくと、アキは目を伏せた。
「……私はまだ、人形遊び好きなんだけど……まあでもそっか、好きなものなんて変わるよねえ。ハルくんは、今は何が好きなの?」
「そうだな……本かな。」
「本かあ。確かに、ハルくんらしいかもね。」
アキはそう言って笑った。
僕は久し振りに会ったアキに、もっと聞きたいことが色々あった。でも、僕が訊ねようと口を開いた瞬間、アキはふと手首につけた腕時計を見やり、そして声を上げた。
「あっ、もうこんな時間だ。またね! ハルくん」
「え……ああ、うん」
彼女が意外と呆気なく走り去っていったことに、僕は驚いていた。彼女なら、いつまで経っても僕を帰してくれないだろうと思っていた。でもそれは、僕のとんだ思い上がりだったようだ。僕は自分が恥ずかしくなった。
「……帰るか」
僕の呟きは霧のように夕闇に溶けた。
***
「転校生を紹介するぞ」
先生のその一言で、騒がしかった教室は一気に静かになった。
転校生。その響きには、いくつになっても惹かれるものらしい。
「東京から来た、稲森秋さんだ」
あまり気乗りしていなかった僕も、その言葉に思わず顔を上げた。
そうか──どうして思いつかなかったのだ。
東京に引っ越したはずの彼女が、長期休みでもないのに、長崎にいるはずがない。考えられる可能性は、引っ越しだ。そうだとすれば、僕の学校に転校してきてもおかしくはない。
でも、クラスまで同じだなんて。運命なんて信じないけれど、何かの策略ではないかと疑ってしまう。
嬉しくなんてないけれども。
「あーっ! ハルくん! 同じクラスなんだ!」
そんなアキの一言で、全員の視線が僕に集まる。
参ったな、勘弁してくれよ。目立つのは好きじゃないのに。
しかしそんな僕の気持ちなど露知らず、アキは先生の制止すらも無視して僕の席へと近づいてくる。
「これからよろしくね!」
アキの眩しい笑顔を見たら怒る気も失せて、僕は曖昧に笑うことしか出来なかった。
***
「ハルくん、皆と一緒に遊ばないの?」
昼休み。いつものように校庭をぼんやりと眺めていると、アキにそう声をかけられた。
アキは確か、男女問わず沢山のクラスメイトに話しかけられていたはずだ。だから、てっきりアキも遊びに行ったのだとばかり思っていた。
そういえば、アキは昔から友達が多かった。団地に住んでいたのは僕とアキだけではなかったし、アキはいつも沢山の人に囲まれていた。でも、いつもそれを振り切って、僕のところへ来ていたのだ。子供の頃は何とも思わなかったが、今となっては不思議だ。
「僕はいいよ。外で遊ぶの、好きじゃないし」
アキが僕の隣に座り、不思議そうに僕の顔を覗き込む。
「なんかハルくん、変わったね。昔は外遊び、大好きだったのに」
「アキが変わらなさすぎなんだよ」
幼い頃は誰だって外で遊ぶものだ。
「そうかなあ」
アキは納得いかない様子だ。
「あ、そうだ! ハルくん、あの『宝箱』の鍵、まだ持ってる?」
「……えっ」
僕の頬を冷や汗が伝った。
それこそが、僕が彼女との再会を素直に喜べない理由──僕が感じている負い目なのだ。
「私まだ、宝箱、持ってるんだよ。ほら」
そう言ってアキが取り出した宝箱は、あの時のまま、綺麗に輝いていた。
「覚えてる?」
忘れるはずがない。忘れられるはずもないのだ。
だってあの宝箱の──中身は。
「さあ──忘れたよ」
「ええーっ」
僕は嘘をついた。嘘をついてしまった。なんだか居た堪れなくなって、僕は教室を後にした。行く宛もないのに。
***
結局、あの後は一言も言葉を交わさずに、アキを避けるようにして家に帰ってきてしまった。
アキは僕に言った。変わったね──と。
でも、僕は何も変わってなんていない。昔から、大馬鹿野郎のままだ。
自室の机の引き出しの奥を漁る。やや錆びた鍵があった。
──あの宝箱の鍵だ。
「アキ……ほんとに行っちゃうの?」
「ハルくん……」
幼い僕は、唯一の友人の引っ越しが悲しくて仕方がなかった。
元々泣き虫だった僕は、いつまでも泣いていたものだ。
でも、その時は珍しく──アキも泣いていた。
だから僕はどうにか元気づけようと思ったのだ。
「そうだ、アキ! なにか、ぼくが持ってるもので、欲しいもの、ないの?」
「欲しいもの……?」
幼い僕が精一杯考えた末、出した結論だった。
アキは少し考えた後、こう言った。
「そうだ、ハルくんのお家にあった宝箱!あれがほしいな!」
「あれが?」
僕は焦った。あの宝箱には──まだ何も入っていなかったのだ。
「あっ、駄目だよね。あんな箱に入れてるんだもん、ハルくんにとっての宝物だよね」
彼女が分かりやすく落ち込むものだから。
僕は嘘をついてしまった。
「宝物だけど、アキにならいいよ。あげる」
「わあ、ほんとに!? ありがとう!」
彼女の嬉しそうな顔を見て、僕はもう、引き返せないと思った。
「ねえねえ、これには何が入ってるの?」
僕は少し悩んだ後、こう答えた。
「秘密さ。その宝箱の鍵は、ぼくが持ってるから。また会った時に鍵をあげるよ。だから、絶対帰ってきてね」
僕がそう言うと、アキは力強く頷いたのだった。
「──こんな鍵」
僕はこんな鍵、捨ててしまおうと思った。
何にも入っていないんだ、と笑って言えばいいだけのことなのかもしれない。アキはそんなことくらいじゃ怒らない。
でも、僕には──どうしてもあの笑顔を裏切ることは出来なかった。優しいのではない。臆病なのだ。
アキはいつも明るく振る舞っているけれど、実は身体が弱い。成人するまで生きられないとも言われている。
そんな彼女が、あんなに嬉しそうに笑って、今もなお、その宝箱を大切にしてくれているのだ。
なら、本当の事を伝えるべきではないのではないか。空っぽの宝箱には、彼女にとっては何かが入っている。そうだ。それでいいのではないか。
僕は鍵を捨てる決心がついた。海に投げ捨ててしまおうと、スニーカーを履き潰して海へと向かった。
***
「……これでいいんだ。これで……」
僕はそう自分に言い聞かせながら、手のひらの上に載せた鍵を見つめる。
水面に目を落とすと、青い海はただ静かに波打っていた。
そして、いよいよ投げ捨てようと、拳を振り上げたその時だった。
「ハルくん!」
突然聞こえてきたその声に、思わず肩をびくつかせる。危うく海に落ちるところだった。
振り返ると、幼馴染がこちらに向かって手を振っていた。
いつも彼女はタイミングが良い。いや、悪いと言うべきか。
「アキ……」
「今日は月が綺麗なんだって。だから、どこかで見ようと思ってうろうろしてたの」
「……そっか」
「……ねえ、ハルくん」
幼馴染はおもむろに鞄から箱を取り出した。
──それがあの宝箱だと気づくのに、時間はかからなかった。
たった今捨てようとしていた、その宝箱の鍵を強く握りしめる。汗がにじんできた。
「私ね……知ってたんだ。この宝箱の中身」
「え……?」
僕は想像もしていなかった言葉に面食らう。
彼女は優しく笑っている。
「ど、どういう……」
「空っぽでしょ?中身」
僕の声を遮って、アキがそう言った。
「妙に軽いし、振っても音すらしないし。他に考えられるのは手紙とかだけど、今ならまだしも、昔のハルくん、そんなガラじゃないでしょ」
彼女の言う通りだった。
彼女は、何もかも見通した上で──僕から伝えるのを待っていたのだ。
「……分かってたんだね」
「うん。でも、宝箱の中身は空っぽだったけど、私は満足なんだ」
「?どうして?」
僕が不思議に思い訊ねると、彼女は悪戯っぽく笑った。
「秘密」
本当に、月がよく見える夜のことだった。
***
幼馴染の小さな嘘を、私はずっと覚えている。
揶揄おうと思って覚えていたわけでは、勿論ない。
引っ越してしまう私を、身体が弱くて、私が生きているうちにまた会えるかも分からない私を、嘘をついてまで気遣ってくれたことが嬉しかったから。
だから覚えていたのだ。
でも、肝心の幼馴染は、それを負い目に感じているようだった。
きっと優しいからだろう。
何も入っていないと知らせて、私を落胆させたくないのだ。
そういうところは──嘘をついても、誰かを傷つけまいとするその優しさは──昔から全く変わっていない。
多分、本人は否定するだろうけれど。
でも、何も入っていなくたって──私は落胆したりしない。
むしろ逆だ。
話のタネにもなるし、ハルくんの優しさが嬉しかったんだと、あの時の礼を素直に伝えるきっかけにもなる。
まあ、なんとなく恥ずかしくなって──「秘密」なんて強がっちゃったんだけれど。
──そういうところは、私も変わってしまったのかもしれない。
──いつか、本当のことを素直に告げられる日は来るのだろうか。
水面に揺らめく月を眺めながら、私はそんなことを考えていた。