香りが運ぶ風の恋心 ~昔あげた香水のおかげで(香水師になる)チャンスをつかんでしまいました?~
『いつか君を連れていくから』
だれだっただろうか。
毎晩夢の中に出てくる彼、それはやわらかそうな銀髪、エメラルドのような緑の瞳の少年ということだけしか覚えていないくらいおぼろげなもの。
たしかそのとき、私は彼になにかを渡した記憶がある。
……けれど、いつまでたっても私をとりまく環境は変わらない。あの人は幻だったのだろうか。
* * * * * * *
商店街が立ち並ぶにぎやかな街中、多くの買い物客でにぎわっていた。
その中でも『ブレン調香店』は未婚の貴族女性たちの間では有名で、この日も団体で店に押し掛けていた。
「あら、今月の新作じゃない。早速今日の夜会につけていこうかしら?」
「ちょっと待ってよ。それ、私が買おうとしていたんだけど!」
「知らないわよ。だいたいアンタ、今日の夜会に誘われてなんかいないじゃないの」
「う、うるさいわね! いいじゃない、べつに今日の夜会に参加しなくたって!」
着飾った女性たちの気迫あふれるやり取りを遠くからぼんやりと眺めているマノン。
十三歳にして小さな体つきの彼女が着ている服は客たちとはかけ離れた、つぎはぎだらけのお仕着せ。自分と同じくらいの年の女性たちが着飾っていたり、香水をつける機会があったりするのが羨ましかったが、どうせ自分はお貴族様に憧れはあってもそこに入れる存在ではなかった。
マノンの店、『ブレン調香店』は彼女の曾祖父の時代から続いていて、そのころから貴族のための香水を作っていて、彼女もその後継ぎとなるべく五年前、八歳から調香を行っている――――のだが、今は満足に調香もできない状態だった。
というのも――
「そういえばこないだ頼んだはずの化粧品、まだ届いてないの? あのお店に行って、催促してきて頂戴」
「マノン、私のフラスコどこに行ったか知らない? あれがないと、次の納品のための作業ができないんだけれど」
「おい、マノン。お前、俺の部屋の掃除を早く終わらせろよ」
また始まったか。
自分を呼ぶ声にうんざりしながらも、いつものことだからと仕方ないとあきらめた彼女は店の奥に入っていった。
血のつながった母親や兄弟姉妹ならばこんなことにならなかっただろうか。それはどうだかわからない。彼女の母親はすでに死んでいて、三年前の春に押し掛けるようにこの人たち――どこぞの子爵令嬢であるアイリスがマノンの父親の後妻、そして彼女の前の夫の娘であるジェーンとユージンが養子としてやってきた。
もともと貴族だったからか、彼らの姿は美しい。栗色の毛は柔らかそうで、ふわっとした巻きが羨ましい。
ちなみに行方不明の父親もそこそこ貴族らしい容姿で、小さい頃はその綺麗な金髪でよく遊ばせてもらった記憶がある。それ以上に母親が死んでから喪が明けぬうちから多くの女性に結婚を申し込まれていたのをマノンは覚えている。
しかし、その娘である彼女は地味だ。母親がそうだったのか聞いたことがないから知らないが、艶もない藍色の髪にそばかすだらけの顔だ。
どんなに仕事を押し付けようが人はまず外見で判断する。客人はみな、継母たちのことを父親の血縁者であり、マノンのことはただの下働きだと思っている。
そんなマノンの父親は一昨年の冬、調香のための原材料の取引のために南方の国までに行ったきり行方不明になった。書類上は行方不明者としてまだ戻ってくる可能性を残しているが、実際にはもうその可能性は低いとマノンも思っているし、乗り込んできた三人に至っては我が物顔をして店に居座っている。
――とはいえ、彼らもある程度の知識はあるらしく、今までマノンが父親とやってきた調香作業を彼女から奪って、自分たちの作品を『ブレン調香店』のものとして売っている。そのことに多少の腹立たしさあれども、自分は法律とか店の決まり事なんて知らないから、どうでもよくなっていた。
彼らに言われるがままでも、この家から追い出されないようにしないと。父親が戻ってきたときにこの店がなくなっていてはいけない。
そう思っているうちにだんだんと雑用の量が多くなっていき、今では調香作業ができる時間はだれもいないとき、三人ともが寝静まった夜だけになっていた。
そんなマノンがわかりましたよと言って出掛けようとすると、先ほどいた女性たちはあれほど騒いでいたのに目当てのものがなかったらしく、もうこの店なんて来ないわよと捨て台詞を吐いて出ていくところだった。
父親のもとに継母たちが押しかけてきて以来、こういった客が多くなったとマノンは感じた。
「お客さんの目当ての香水か」
道中、本当にお客さんが欲しいと思う香水について考えるマノン。
店を開いた曾祖父と祖父はオーダーメイドの販売しかしていなかったらしいので、おそらくそういったものの販売ができていたのだろうが、父親が店主になってからはより多くの香水を作るためにオーダーメイドをやめたので、少なからず本当にお客さんが欲しい香水というものを手に入れにくくなったのかもと思ってしまった。
「まあ、私が店主になることはないだろうしな」
今店の実権は継母と血のつながらない兄妹が持っている。
先にあの人たちが死んだとしてもマノンに店の実権を取り戻せるかわからないし、仮に取り戻せたとしても離れていった人たちが戻ってくるとも限らない。
まあいいやと思考を放棄し、仰せつかったことをしに行く。
一通りの用事が終わって店に戻ると、なにやら緊張した雰囲気が漂っていた。
「……――これではありませんねぇ」
店の奥、調香室から聞こえてきたのはユージンのものではない若い男性の声だった。
部屋にいるのは継母と義姉と、見知らぬ青年の三人。義兄はどこかに行っているようだ。
しかし、この青年はいったいなにしに来たんだろうか。
たしかに調香をしているところを見てみたいという客は少なからずいるが、普段は見せることはない。しかし、その様子を見せているということはなにかあったのだろう。
様子を伺いに部屋に入っていくと、義母たちの着ているものよりもさらに立派な服を着ている二十歳くらいの青年がだれかの作った香りを嗅いでいる姿が見えた。
この人の髪、綺麗。
昔会ったことのあるかもしれない銀髪の少年よりは好みではないが、それでもサラサラとした流れるような黒髪の人がバサリと試香紙をパサリと捨てる音が聞こえてきた。
それに継母たちが悲鳴を上げる。
なるほど。
この人はなにか『香り』を探しているようだ。
しかし、それを再現しようとした継母たちの努力は無に返ったらしい。
「おや? そこにいらっしゃるのは……ーー」
出入り口に立ちぼうけしてるマノンに気づいた青年が声をかけると継母たちは慌てて彼女を隠そうとするが、青年のほうが一歩早かった。
「もしよければこの香りを一度、作っていただけませんでしょうか?」
その質問にどう答えようかと思って継母を見ると、どうせできないでしょうから、やってみるだけでもやってみなさいと言われてしまった。
青年に頷いて、彼が持っているガラス瓶を受け取り、蓋を開けて香りを嗅いだマノンはなぜその香水がここにあるのか気になったが、今はまずこの香水をもう一度作ることが先だ。
十分程度だろうか。
だれもなにも喋らず、ただひたすらマノンが調香する音だけがしていた。
「できました」
すべての香料を入れ終わり、きちんとかき混ぜた彼女は青年にそれをつけた試香紙を渡す。多分間違っていることはないが、それでも作ったのは五年前。自分の記憶力にいささか不安になりながら作ったものを渡す手は少し震えてしまった。
受け取った青年は目を閉じてそれを嗅ぐと、これですとマノンの手をとる。
それに驚くのは手を握られた本人のマノンだけではなく、継母たちもだった。
「いや、おかしいわ。この子がまったく同じものを作れるはずなんかない!」
「そうよ。いつも私よりも下手な香水を作って廃棄処分してるのに」
アイリスとジェーンがそれぞれ抗議の声を上げるが、青年はそれを軽く無視して、さらにマノンの手をしっかり握る。
「私と一緒に王宮まで来てもらえませんか?」
彼の言葉に首を傾げるが、青年にとっては決定事項だったようで抱きかかえられながら馬車に連れこまれた。
さっきは裏口から入ったので気づかなかったそれは、三頭仕立ての豪華なもので、こんな下町に停まってるせいで周りからの目が怖くなったマノンだが、青年はそんな彼女に構うことなく馬車に乗りこむ。
馬車の中、一生座ることがないだろうと思っていた座り心地のいい生地の席に座らさせられた。
「突然連れだすような真似をして申し訳ございません」
二人が座り馬車が動きだすと、青年に開口一番、謝罪された。どういうことだと訝しんだマノンに、彼はふわりと笑って事情を説明した。
「私の主人が五年前にもらったこの香水を作った人を探してまして。もちろん五年の間にここ以外にどこかに行ってしまったかもしれないし、万が一のことがあったかもしれない。それでも見つかったら連れてこいと」
青年がした説明はマノンにとって納得いくものではなかったが、それ以上のことを言う気にはならなかったようで、青年は笑顔になったものの、続きを聞くことはできなかった。
「到着しましたよ」
これは立派なところだ。
馬車が止まった場所は噂には聞いていた王宮。ここで夜会が開かれるんだとか、ここはこの国を支配してる人が住んでいるんだとか少し現実味のないことを考えていた……が、さあ行きましょうと言って、青年は先ほどのようにマノンを抱きかかえたまま建物の中を進んでいく。
青年はかなり身分の高い人のようで、すれ違う人たちが次々と頭を下げるのが抱きかかえられたままでもわかってしまったマノン。自分とは住む世界が違うことを思い知らされた彼女は逃げようともがくが、青年が抱きかかえる力は十三歳の少女に振り解けるものではなかった。
やがて王宮の奥、警備が厳重なところに着いた。扉の前に立っている騎士たちに青年が目で合図すると、敬礼した騎士たちがその扉を開く。
開かれた扉の向こう側には、この王宮の中でもより豪華な部屋になっていた。
「えっと……?」
マノンが説明を青年に求めるも軽く無視した彼は部屋の中央に置かれたソファに彼女をおろした。ちょうどそのときに部屋の奥から人が入ってきた音がしたので、今度はいったいだれかと思ってみたマノンは息をのんだ。
「やっぱり君だったか」
入ってきたのは声変わり前の少年で、彼女の夢の中に出てきた少年と同じ容姿で、声もいつも聞くものだった。彼もマノンの姿を見てそう言ったということは、もしかしてあれは現実だった……――?
「現実だよ、マノン・ブレン。君に五年前、一度会ったことがあるんだ」
少年はマノンに向かって微笑みながら言う。
自分に向かって微笑まれることなんてこの数年間なかったから一瞬どきりとしてしまったが、きっと他意はない、はず。
しかし、彼はそのほほえみを崩さないまま、マノンの頭をそっとなでる。
「あの日、君にもらった香りが今までに嗅いだものの中でもっとも繊細でもったいなくてつけられなくてね。いつかこれを作ったくれた人に会いに行こうと思ってたんだ。でも、その人の名前とか知らなくてね。でも、公務以外では王都から一度も出たことがないから、きっと王都の中にいるんだろうって去年、探し始めたんだけれど、だれもこの香水を作れなくて、もしかして僕の記憶違いだったのかとあきらめかけてたんだ」
銀髪の少年はそう言って、マノンを連れてきた青年から香水瓶を受け取る。
「でも、ここに蝶の飾りがあるでしょ? これと同じ香水瓶をたまたま母上が使っているのに気が付いたから、それを買った店に行ってもらうことにしたんだ」
「おかげでたちの悪い人たちに絡まれるところでしたよ」
「アハハ、リオネルって第二王子の僕よりも人気があるもんね」
彼がそう言うと、リオネルはかなり苦い顔をした。どうやら何かがあったらしいと思ったが、なにも聞くことはできなかった。
「で、私をここに連れてきたのはなんのためでしょうか?」
銀髪の少年は自分で第二王子と言ったし、青年も彼の側仕えなのだ。
自分の香水に用があるならば、これと同じものを作れという命令だけでもいいはずだ。それなのに彼らは自分をここに連れてきた。
マノンがそういぶかしんで尋ねると、第二王子がマノンの手をむぎゅっとつかんできた。
「ねえ、君ここで働かない?」
「はぁ!?」
いきなりの頼み込みに思わず声を上げる彼女。しかし、リオネルも第二王子の言葉にうなずいている。
「この王宮には二十人以上の香水師がいる。もし君が望むならば家に帰すこともできるけど、ここで調香の腕を磨いてみてもいいんじゃないかい?」
それは誘惑だった。
『お客さんの目当ての香水』
それを作るのにこの王宮香水師は最高の環境だ。
彼らの噂は聞いていて、いつか、ひょんなことからでもいいから王宮で香水師として働いてみたいと思っていたし、曾祖父の時代からそれは悲願だったらしい。
でもまさか、それが現実になるなんて。
「あ、あの、父が行方不明で……――!!」
「知ってるよ。でも、残念なことに同時期にあの地方に行った人たち、全員戻ってきてないんだ。国としても捜索してもらいたいが、あの地方から来るなと言われていてね」
目の前が真っ暗になりそうだったが、かろうじてここは王宮だという思いだけで踏みとどまっていた。
「だから、君を保護するためでもあるんだけれどね?」
意地悪っぽい声で言う王子。
そこまで言われて拒否できるマノンではない。たしかに『ブレン調香店』は大事ではあるけれど、それを投げ出しても香水師になりたい。
「謹んでお受けいたします」
そう頭を下げると、そこまで言わなくてもいいんだけれどねとウィンクしながら返す王子。どうやら王子の中では正式決定していたようで、すぐに案内係の女性が来て工房や王宮内につくられた私室に連れて行ってくれるらしい。
「そうだ。これから僕のことはジェイドと呼び捨てで呼んでね」
「私のこともリオネルと呼び捨てで結構ですよ」
最初に入ったこの部屋から出ていくとき、少年と青年、それぞれ微笑みながらマノンにそう言う……が、もちろんマノンに二人を呼び捨てで呼ぶ勇気はない。
二人ともそれを感じとってはいるようだが、あえて無理強いはしなかった。
マノンがこれからここで調香の腕を磨いて、十五年後、国内でも有数の香水師になることはまだこの時のだれも知らなかった。
彼女が世話役の女性――と見せかけたジェイドの母親である王妃に連れられて行った後の彼の私室にて。
「しかし、殿下がユージンと同一人物だとよく気づかれませんでしたね?」
「まったくだよ。ま、でも、仕方ないんじゃないかな? だって言葉遣いだってかなり変えていたんだし、そもそもあの二人の目の前で彼女を救うことなんてできなかった」
「そうですが」
ジェイドとリオネルはマノンが出ていったほうを見ながら話している。
「なにより髪の毛の色が違うだろ?」
そう言ったジェイドはひと房、髪をつまんできゅっとこする。すると、今まで銀色だった髪が栗色に変化した。
「毎朝これをするのは大変だったし、彼女をこき使うことには気が引けたが、それでも見守るのにはそれしかなかったからな」
「はいはい。あなたの執着は五年前からでしたもんね」
「…………うるさい。そういうお前も気に入ったみたいじゃないか」
「ええ、気に入りましたよ。あそこまでの繊細さは彼女にしか出せませんからね」
同じ調香でもなぜかマノンが作るものはやわらかく、義母と義姉が作ったのはとげとげしいもので、同じ香水と呼べるような雰囲気はなかった。
「ぜひ私の妻になって『エーベフェルト』ブランドを盛り上げていっていただきたいものです」
「断固拒否する」
「あなたには言ってません」
「うっさい」
ジェイドとリオネルは兄弟のような関係で、気心が知れている。だからジェイドが店主が行方不明になった『ブラン調香店』に潜入するという話を切り出したとき、最初は反対したリオネルだったが、あえて香りに目がない子爵夫人を王子に近づけさせ、彼女の子供に成りすますことを提案した。
そうして三年間自分の手元にいたマノンに五年前に出会った物証を突きつける。
完ぺきとは言えない方法だけれども、彼女がなにも気づかないのならばそれはそれでよかった。
籠の中の小鳥はどちらに飛んでいくのか。
彼らはマノンを巡って毎日攻防戦を繰り広げることになった。