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蜃気楼に乞う

作者: 待木ハル

 ぐい、と差し出されたのは見慣れた赤い炭酸飲料の缶だった。お礼を言いつつ、受け取った缶のプルタブをそっと開ける。途端に聞こえた破裂音を閉じ込めるように口をつければ、渇いた喉に冷えた炭酸が爽快に流れ込んだ。一つ息をついて隣に視線をやれば、少年が同じデザインの黒い缶を開けるところだった。

「なに一人だけカロリーオフってるんですか先輩」

「運動部にカロリーは大敵だからな」

「女子みたいな発言っすね」

「まるで女子と交流があるような発言だな」

「……ぐっ」

 痛いところを突かれて誤魔化すように、もう一口コーラを煽る。部室棟や体育館に繋がるこの一階の渡り廊下は、朝だと人通りが少なく、外で朝練をしている生徒達の声がよく響いてくる。その中には当然女子生徒の楽しそうな声も混ざっていて、思わず溜息が零れる。

「おかしい……共学のはずなのにどうして僕の周りには女子がいないんだ」

「教室で同じ空気吸って勉強してるじゃないか」

「え、何その変態くさいポジティブ」

「まあ、それだけが青春とは言わんさ」

「だからって、毎日野郎二人で朝からジュース片手にお喋りしているのを、僕は青春とは認めませんからね!」

 登校して、授業が始まる前に飲み物を買っておこうと思った僕と、朝練終わりに水分補給をしようと思った碓氷先輩が、自販機で同時にお金を入れようとしてうっかり手が触れ合ってしまうという、ベタな少女漫画イベントを発生させてしまったのは一ヶ月前のことになる。それからというもの、自分の方が先輩だからと碓氷先輩になぜかジュースを奢られつつ、予鈴のチャイムがなるまでの十分ほどを雑談しながら過ごすのが日課となってしまったのだ。さすがに先輩から飲み物を奢ってもらってすぐに教室に戻れるほど、僕の心臓は鋼ではない。

「なんだ、俺とのお喋りじゃあ不満なのか」

「いや、別に不満って訳じゃないですけど、むしろ旧知の仲かよってくらい話しやすいですけどね、でもあわよくば、せっかくなら、女子との方がもっと楽しかったかなーみたいな……」

「あまり幻想を抱きすぎるな。現実はギャルゲーのように簡単には攻略できない」

 先輩のド正論に口を噤むと、タイミングよくチャイムが割って入った。缶の残りを一気に流し込み、空き缶をゴミ箱に放り込む。重そうなエナメルバッグを背負い直す先輩に「じゃあまた明日」と軽く会釈をすると「ああ、またな」と薄く微笑んでくれた。

 朝は碓氷先輩とお喋りして、適当に授業受けて、放課後は友達と遊んで帰ったり、たまに部活に出たりして。男子高校生の日常なんて毎日同じようなことの繰り返しだ。別にその毎日に退屈しているわけではないけど、もう少し非日常的なエッセンスがあってもいいと思うのは我儘だろうか。

「だからっていきなり異世界転生とかは困るよなあ……」

「漸くん、異世界に行ってたかは知りませんが化学の授業は終わりましたよ」

 頬杖をつきながらぼんやりとしていれば、冷ややかな声とともに影が差す。顔を上げればクラスメートの吾妻くんが、呆れた表情で目の前に立っていた。

「異世界には行ってないけど夢の世界には行ってたよ」

「別に上手いことは言わなくていいんですよ」

 今日も絶好調な吾妻くんのツッコミを聞き流しながらふと奥の教壇に視線を移せば、千代田先生が無慈悲にも黒板の板書を消している最中だった。声なき悲鳴が漏れる。

「……見事に真っ白なノートですね」

「真っ白じゃないよ、日付は書いてあるから!」

「そんなの何のプラスにもなりませんけど?」

 そんなやり取りをしているうちに黒板を消し終えた千代田先生は、教室にいる生徒たちを見回して口を開いた。

「誰か集めたプリント職員室まで持っていってくれないかー?」

 その言葉に騒がしかった教室内が僅かにざわめく。この次は体育なのだ。ただでさえ短い休み時間に着替えなくてはならないクラスメートたちは難色を示し、互いに顔を見合わせる。そんな様子を眺めて、僕は勢いよく立ち上がった。

「先生、日直ですし僕が持っていきますよ」

 手を挙げながら近付けば、先生は驚いたように振り返る。日直なのは事実だし、どうせ自分は体育に出ないから一番適任だろう。決して、先ほどの授業態度を挽回するためではない。先生の元まで駆け寄り、教卓の上に積んであった宿題のプリントの束に触れる。その瞬間、ぱしんと乾いた音がすぐ近くで響いた。頭で理解する前に、じんわりと熱くなった右手と険しい顔つきの千代田先生に、手を払い落とされたのだと気付いた。

「……お前はいい」

 まだ呆然と右手を見つめる僕に、頭上から苦々しげな言葉が投げ捨てられる。びっくりはしたけれど、それに対して思ったよりもショックな気持ちにはならなかった。それよりも「やっぱりか」という気持ちが強いのは、千代田先生からの拒絶は今日が初めてではないからだ。授業で寝ていたからとかそんな理由ではなく、記憶の限り、どうやら僕は千代田先生から嫌われているらしい。特に思い当たる節はないので、いわゆる生理的に無理というやつなのだろうと結論付けている。今日も駄目かと少し落ち込んでいると、その横から伸びてきた手がプリントの束を取り上げた。視線を辿れば、面倒くさそうな吾妻くんが隣に立っている。

「俺が運ぶからいいですよ」

「え、でも吾妻くんだってまだ着替えてないじゃん」

「大丈夫ですよ、俺は誰かさんと違って優等生ですから、例え遅刻しようがたいして咎められません」

「す、すごい、的確に貶してくる……」

「事実でしょ。先生もそれでいいですよね?」

 淡々と話を進めていく吾妻くんに、千代田先生も圧されるように頷いた。先生に続いて教室を出て行く吾妻くんを見送っていると、ふいに彼が振り向く。

「どうせこの後、保健室でサボるんでしょ。俺のノート持っていっていいから、少しは勉強してくださいね」

「あ、ありがとう……!」

 なんて完璧なツンデレさんなんだ。普段は辛辣な態度ばかりで「あれ、本当に友達だよね?」と定期的に確認したくなるような扱いだけど、こうやって何だかんだ世話を焼いてくれるところに秘められた優しさが滲み出ている。飴と鞭の使いこなしが見事だぜ。友達に対して飴と鞭を使いこなすってどうなんだと一瞬脳裏に疑問が過ったが、頭悪いから分からないと匙を投げる。吾妻くんから借りたノート片手に上機嫌だったせいか、無意識にスキップしていたらしい。保健室のドアを開けたところで、ドン引きした相模先生が迎え入れてくれた。

「保健室にスキップで来る生徒はお前くらいなもんだよ、葉山」

「あ、失礼しまーす」

「なんだ、またサボりか?」

「サボりじゃないよ、次は体育なの。見ればわかるでしょ?」

「いや、全くわからねえよ。どこ見てもヒントなんてないだろ」

「ちょっと先生、これから勉強するんだから静かにしてくれません?」

「理不尽がすぎる!」

 養護教諭の相模先生とは、保健室の常連のおかげですっかり仲良しだ。最初こそ女性でないことに落胆したものの、気さくで話しやすい先生は、僕含めた生徒から意外と人気がある。軽く雑談を交わした後は、本当に体調の悪い生徒の邪魔にならないよう、先生に一声かけて隣接した相談室に向かう。ここは週に一回、外部から呼んだカウンセラーの先生が生徒の相談に乗るときに使う部屋のため、普段は空いている。応接室のように向かい合ったソファーの片方に腰を下ろすと、僕はさっそく吾妻くんから借りたノートを広げて、書き写す作業に取り掛かった。

 バサリ。

 もうほとんど写し終わるという頃、突然何かが落ちる音がした。ぐるりと室内を見渡せば、冊子のようなものが床に落ちている。どうやら壁面の本棚から滑り落ちたようだった。戻すつもりで拾い上げてみれば、それは端が日に焼けた大学ノートで、表紙には「相談ノート」とマジックで書かれている。興味本位でぱらぱらと中を捲ってみれば、おそらく色んな生徒が書いたであろう相談事と、それらに対して同じ筆跡の人物からの回答が添えられていた。相談内容も本当にさまざまで、進路の悩みから恋の悩み、対人関係の悩みなどがあり、深刻なものからふざけたものまで多岐に亘っていた。ドアのガラス越しに相模先生がコーヒーを淹れているのを確認すると、相談ノートを手に保健室を覗いた。

「ねえ先生、この相談ノートってなに?」

 持っていたノートを翳せば、先生はコーヒーに砂糖を入れる手を止めて目を丸くした。

「お前、そんなもんどっから出してきたんだ?」

「違うよ、本棚から落ちてきたんだって」

 僕が相談ノートを差し出せば、受け取った相模先生はおもむろにページを捲り、やがて思い出したように声をあげた。

「ああ、これは俺の前任の先生がやってたやつだよ」

「前任?」

 相模先生いわく、この相談ノートというのは気軽に悩みを相談して欲しいという思いから、カウンセラーの資格も持つ前任の先生のアイデアでやっていたことらしい。悩みはあるけど保健室に来づらいという生徒のために、共有スペースである図書館や食堂、視聴覚室などにこの相談ノートを設置し、匿名で悩みを相談できるようにしていたという。

「今はやってないんですか?」

「いや、ほら、俺はカウンセラーの資格は持ってないし、前任からも無理して続けなくていいって言われたし……」

「……面倒だったんですね」

「あのね、何でも前年踏襲すればいいってもんじゃないの。教師っていうのは自分に合った向き合い方で生徒と接すればいいの」

 胡乱げな視線を向ければ、それから逃げるように相模先生は僕にノートを押し付けて、元の場所に戻すよう指示する。コーヒーを持ってデスクに行ってしまった先生を尻目に相談室に戻った僕は、再び手元のノートに目を向けた。

 もし自分だったら、どんな悩みを相談するだろう。それは、本当にちょっとした好奇心だった。誰も見ていないのをいいことに、気付いたら僕は、まだ半分ほど残っていた未使用のページにペンを走らせていた。


『化学の千代田先生が僕にだけ冷たいんですが嫌われてるのでしょうか。日直だったので手伝おうと申し出ても無碍にされてしまいます。別に好かれるつもりで言ってるわけではないのですが、なんだか千代田先生に嫌われているままなのは悲しいです。……それとも、これは、もしや禁断の恋心でしょうか。』


 誰も見ないと分かっているのに、書いているうちに気恥ずかしくなって少しふざけてしまった。文章を読み返して失笑する。

「……馬鹿らし」

 回答なんて期待していない。反応が返ってきたところで、解決するとは思えない。それでも心の内を言葉にしたことで幾らか気分は軽くなった気がして、そっと元の棚にノートを戻した。


 放課後、特に用事もないため下校しようと下駄箱に向かうと、自分のクラスの傘立てに見慣れた金髪が座り込んでいた。金髪、ピアス、着崩した制服とヤンキー三拍子が揃った外見は初対面ならビビるだろう。だが本人の内面を知ってる上、ほぼ毎日のようにこの光景を見ていれば、さすがに慣れるというものだ。

「常陸先輩、おまたせしました」

 別に待ってるようこちらからお願いしているわけではないけど、と副音声で付け加えながら声を掛ける。片膝を立ててスマホを弄っていた先輩は、僕の声に顔を上げると表情を緩ませた。

「おー漸、おつかれー」

 靴を履き替えていると、スマホをしまった先輩も立ち上がる。ピンクのリュックにライトグリーンのカーディガンが目に眩しい。学生生活でこんなに色が氾濫しているのはこの人くらいだろう。しかしそんな派手なリュックに目を向ければ、全身から陽キャオーラを出す先輩にはそぐわない、二頭身にデフォルメされた可愛い女の子のキーホルダーがぶら下がっている。

「今日はいつものゲーセン行こ。メリーちゃんの限定フィギュアが今日からなんだよ」

 決して、陽キャの冷やかしなんかではない。そう、常陸先輩はこの見た目でガチオタである。そもそも、この先輩と仲良くなったきっかけこそ、あのキーホルダーを拾ったことが発端である。可愛い女の子――メリーちゃんのキーホルダーが先輩のリュックから落ちたとき、偶然少し後ろを歩いていた僕が拾い上げ、それから先輩の後姿を五度見した。「いや、そんなまさかな」と思いながら今日が命日覚悟で声を掛けてみれば、先輩は僕とキーホルダーを見比べて泣きながら土下座をキメてきたのである。ちなみに僕の人生で後にも先にも、生で土下座を見たのはこれ一度きりだ。

 それから同ジャンルにハマっていて、唯一の特技でもあるUFOキャッチャーの腕前を見込まれた僕が、先輩と仲良くなるのに時間はそう掛からなかった。今ではこうして部活のない日は毎日のように遊んでいる。

「そういえば前に話したOVA、ついに来週ですね」

「うん、カラオケでブルーレイ観れる部屋予約したから、受け取ったらそのまま直行で鑑賞会しよーね」

「ぬ、抜かりない……」

「当たり前じゃん、嫁の晴れ舞台は大きい画面で観ないと」

 満面の笑みでメリーちゃんについて熱く語る常陸先輩を見ていると、僕もそれにつられ、すっかり今日学校であったことは記憶の隅に押しやってしまったのだった。


 次の日、僕は相談室で愕然と立ち尽くしていた。手にした相談ノートには、昨日の僕のふざけたお悩みが書き込まれている。そして、その下には確かに昨日はなかった回答が書き込まれていたのだ。僕は先ほどから何回も目を通した、その回答を改めて読み直す。


『千代田先生は君のことが嫌いなわけではありません。ただちょっと、見つめ合うと素直にお喋りできないタイプなだけです。そんなタイプの攻略法はとにかく押せ押せ、むしろ寄り掛かるくらいの勢いで行くべきです。共同作業が二人の距離をぐっと縮めるチャンスかも☆』


「……思ったよりノリ軽いな」

 今までの相談ノートの回答と見比べると、勿論筆跡は違うし、回答の書き方も全く異なる。なんだろう、この占いみたいなテンション。どう考えても回答者は別人だ。そこまで考えて、一番犯人の可能性が高い、相談ノートの存在を知っている人物の元に向かう。

「相模先生、突然ですが問題です」

「何だよ、いきなり。綺麗に手挙げやがって」

「僕の悩みはなんでしょう。十秒以内にお答えください」

「あ? あー……勉強ができない、とか?」

「残念、そんなこと悩んで解決するレベルはとうに超えてるんですよ!」

「いや、胸張って言う事じゃないだろ」

 呆れた様子を見せながらも付き合ってくれる相模先生は、僕の意図が本当に分からないのか首を傾げている。でも、まだ先生が演技派という可能性も残っている。先生の「ちゃんと勉強しろよ」という言葉は聞こえない振りをして、問題を変えてみる。

「では、第二問」

「……まだあるのかよ」

「自分は相手のことが嫌いではありませんが、相手は自分のことが嫌いな場合、どうします?」

「そんなの……こっちも嫌いになればお互い一生関わり合いにならなくていいんじゃね?」

「……」

「何だよ」

「……相模先生って本当に教員免許持ってます?」

「持ってるよ!」

 ノリだけなら相模先生っぽいと思っていたが、先ほどの教師らしからぬ回答に容疑者からは外れそうだ。鬱陶しいと先生から追い返され、相談室のソファーに転がって再び相談ノートを広げる。相模先生が犯人じゃないなら、昨日まで本棚に眠って埃を被っていたこのノートに誰が返事を書いたのだろうか。暫く考え込んでみたが、他に心当たりもない。ノートを見つめたまま小さく唸っていると、ふとあることを閃いた。

「だったら、相模先生のことを書いてみるか」

 起き上がると、相模先生がデスクに向かっていることを確認してペンを取る。


『相模先生はいつも保健室にいますが、大丈夫なのでしょうか。生徒としては有難いのですが、もしかして職員室に居場所がないのではと心配です。例え他の先生と上手くやれていなくても、僕にはどうすることもできませんが。それとも、仕事をサボるために一人保健室に入り浸っているのでしょうか。』


 せっかくだからと常々疑問に思っていたことを書き込んでみた。これでもし相模先生が犯人なら、この書き込みを見て何かしらのリアクションを取るはずだ。ちょうど二時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、僕は昨日と同じようにノートを戻して相談室を後にした。

「課題のノート、誰か準備室に持って行ってくれないか」

 千代田先生と話すチャンスは存外すぐにやってきた。三時間目の化学の授業が終わった後、昨日と同じように先生が教室内に呼び掛ける。普段断られている手前、どうしようかと躊躇していると、脳内にあの相談ノートに書かれた押せ押せアドバイスが蘇った。クラス分の重いノートを運ぶのはみんな嫌なのか、誰も名乗り出ることなくざわつくクラスで僕は席を立った。

「千代田先生、僕が持っていきますよ」

「葉山、お前は……」

「でも、重いから半分だけ。もちろん残りの半分は先生が持ってくださいよ?」

 駄目元でアドバイスにあった共同作業を提案してみれば、先生は渋い顔をして何かを言い澱んだ。手伝うと言ってるだけなのにこんな表情されるってことは、やはり嫌われているのは間違いないのかな。先生の表情に諦めにも似た気持ちでそんなことを考えていれば、後ろから聞き慣れた声が掛かった。

「一緒に持っていくならいいんじゃないですか?」

「吾妻くん!」

「授業中は寝ている漸くんが少しでも挽回しようと名乗り出ているんです。その気持ちを少しは汲んであげたらどうですか?」

「ば、挽回とかじゃ……」

「それに、」

 相変わらず吾妻くんは、僕のフォローをするつもりがあるのかないのか分からない。思わず言葉を返そうとした僕を遮るように、吾妻くんは僕を一瞥して言葉を続ける。

「その態度、逆に贔屓に取られかねませんよ」

「……分かったよ」

 千代田先生に鋭い視線を投げる吾妻くんの言葉の真意が分からずにぽかんとしていると、先生が観念したように重いため息を吐いた。え、なに、どういうこと。なんか僕だけ置いてかれてる。

「ほら葉山、半分持て。とっとと運ぶから付いてこい」

「え、あ、はい!」

「……ただ、これで居眠りが帳消しにはならないからな」

 僕の腕にノートを半分載せたと思うと、千代田先生はもう半分を持ってすたすたと先を行ってしまう。慌てて追いかけるために教室を出ようとすると、吾妻くんが「良かったですね」と微笑んでいた。

 結局、そのあと準備室に着くまで先生との会話は一切なかった。それでも先生に拒否されないだけで十分なのに、運んだあとは感謝の言葉も貰えた。アドバイスを本気で信じてはいないけど、進歩したのは間違いなくあの相談ノートのおかげだ。見るか分からないけどお礼でも書いておこうかと、五時間目を抜け出した僕は本日二度目の保健室に向かっていた。

「先生、お邪魔しまーす」

「葉山、保健室はそんな友達の家感覚で来るところじゃねえぞ」

「まあまあ、五時間目の国語なんて出たって寝るだけだし」

「完全にサボりじゃねーか」

「先生こそいっつも保健室に入り浸ってサボってるじゃん」

「俺はここにいるのが仕事なの!」

「はいはい、大人しくしてるから部活始まるまで相談室貸してね、先生」

 先生との会話もそこそこに、今日出された宿題を持って相談室に入る。保健室に通じる引き戸を閉めたところで、真っ先に相談ノートをしまった棚へと足を向ける。何気なく棚から抜き出して、自分の書いたページを探していると手が止まる。

「……うそ」


『大人の事情にはあまり踏み込まず、そっとしておくのが一番です。それに保健室をよく利用している君ならわかるでしょうが、灯りのついた家と真っ暗な家のどちらに帰ってきたいと思いますか。つまり、まあ、そういうことです。それに考えてごらんなさい。逆に、保健室の先生が職員室で何をするというのでしょうか?』


 午前中に書いた内容に対する回答がすでに書き込まれていた。ふざけた文章なのは相変わらずだが、ちゃんとこちらの問いかけには答えてくれている。このノートの存在を元から知っていなければ、こんな真似は出来ないんじゃないだろうか。そうなると、ますます疑念が高まるのは隣の人物だ。

「先生、任意同行願います!」

「お前大人しくするって言ってから、まだ五分も経ってねーぞ」

「そんなことより先生、今日二時間目に僕が来てから今まで何をしてましたか?」

「なんだ、取り調べごっこかよ?」

「答えてください!」

 デスクまで近寄り、点けっぱなしのライトスタンドを先生の顔に当てる。不意打ちで光を食らった相模先生は某アニメ映画の悪役のように顔を覆って呻いた。効果は抜群だ。

「もー分かったよ、今日だろ? ずっと保健室で仕事してたよ」

「具体的に何を?」

「月初めに配る保健だより作ったり、この前の出張の報告書作ったり」

「その時間、先生以外に誰か保健室に来ました?」

「そこの名簿見れば分かるけど、調理実習で指切った一年の女子と、昼休みにこけて膝擦りむいた二年の男子の二人だけだな」

「アリバイを証明する人は?」

「いや、基本一人だったからいないけど」

 じっと相模先生の目を見つめてみたが、おじさんの割に澄んだ瞳を不思議そうに瞬かせるだけだった。居心地悪そうに逸らすこともない。その様子に嘘をついている感じもなく、僕はますます頭が混乱する。

「ふむ、今日のところはこれで解放してあげましょう」

「お前、俺も一応先生だって分かってる?」

「じゃあ、僕は勉強に戻るので」

「ええ……最近の子の飽きっぽさ怖い……急に放り出すじゃん」

 必要なことを聞いた僕は相談室に戻り、そろそろ真面目にやるかと一旦宿題を広げる。しばらく気を紛らわせるように数学の問題を解くことに専念していたが、気付くとあの相談ノートを広げていた。シャーペンをくるりと回して考える。何か書こうと思ったが、そんなに誰かに相談したいような深刻な悩みがあるわけではない。少しだけ迷い、純粋に疑問に思っていることを書いてみることにした。

「漸くん、部活行かないんですか」

 書くことに集中しすぎていたせいか、背後から掛けられた声に肩が盛大に跳ねた。咄嗟に相談ノートを数学の教科書の下に滑り込ませて振り返れば、鞄を持った吾妻くんが保健室に繋がるドアにもたれて立っている。時計を見れば、五時間目はとっくに終わっていた。

「迎えにきてくれたの?」

「通り道だから寄っただけですよ。ほら、鞄持ってきたから準備してください」

「あ、ありがとう……ちょっと待ってて」

「……珍しいですね、部活ある日は真っ先に行くのに。寝てたんですか?」

「ううん、ちゃんと宿題やってたよ。ちょっと集中してたみたい」

 少し訝しむ吾妻くんの視線を笑って誤魔化して、受け取った自分の鞄に、慌てて机上の教材を詰め込んでいく。週に一回しかない部活のことを、すっかり忘れていた。鞄を肩に掛けて吾妻くんに駆け寄れば、彼はさっさと保健室を出て行ってしまった。安定のツンデレ具合である。

「あー……一緒に持って帰ってきちゃった」

 部活を終え元気に帰宅した僕は、自分の部屋で鞄を開けたところで固まった。他の教科に紛れて、一冊だけ年季の入ったノートが入っている。件の相談ノートである。吾妻くんが呼びに来た時に戻し損ねて、まとめて鞄に入れてしまったのだ。学校で広げていたページを見れば、質問の文章が中途半端な部分で切れている。どうせ誰も気付かないだろうし、質問を書いたら朝イチで戻せばいいか。そう一人納得して、僕は質問の続きを書き込んだ。


『毎日のように僕にジュースを奢ってくれる先輩がいるのですが、僕はご利益のある仏様かなにかと間違われているのでしょうか。それとも気付かないうちに新興宗教の教祖にでもなったのでしょうか。』


 翌朝登校した僕は、教室には寄らずに真っ直ぐ保健室へ向かっていた。さすがに相模先生も出勤していないので、職員室から適当な嘘をついて鍵も入手済みである。クラス棟とは中庭を挟んで向かい合っているこちらの教科棟は、人気がなく静かだ。二階の職員室を出たとこにある階段を下りれば保健室は目の前だ。あまり音を立てないように鍵を開け、無人の保健室に入ったところで鞄から相談ノートを取り出す。戻す前にもう一度変な事を書いてないか確認しようと思い、歩きながらページを捲る。

 バサリ。

 ノートが指から滑り落ちて、床に叩きつけられる。急にどくどくと心臓が激しく暴れまわり、思わずしゃがみ込んだ。微かに震えた指先を見つめ、落としたノートをそっと拾い上げる。


『安心しなさい。君には後光も差していなければ、カリスマ性もありません。よって君はそう思われるほどの徳を積んではいないし、君にお供えしたところで徳は積まれません。さて、そこで君に質問ですが、君はジュースを奢ってもらっているからその先輩と仲良くしているのですか?』


「……急に辛辣じゃん」

 疑問符で渦巻く脳内に吐き気がする。いろんな言葉が駆け巡って、ようやく口から零れ出たのはそんな間の抜けた一言だった。

「……漸?」

 保健室からの帰り道、静かに呼び掛けられて顔を上げれば、碓氷先輩が自販機の向かいのベンチに腰掛けていた。どうやら無意識に朝の日課の場所に向かっていたらしい。

「おはようございます、碓氷先輩」

「おはよう……なんかぼうっとしてたが大丈夫か?」

「大丈夫です、ちょっとまだ眠くって」

 心配そうに覗き込んでくる碓氷先輩にやんわり首を振れば、先輩は黙ったまま自販機へ向かう。そうしてすぐに「ほら」と差し出されたのは、運動部御用達の青いスポーツドリンクのペットボトルだった。

「まだ春だけど、だいぶ気温が上がってきたから気を付けろよ」

 いつになく真剣な口調に戸惑いながらも、貰ったばかりのスポーツドリンクに口を付ければ、少しだけ混乱していた頭がすっきりする。隣で同じようにスポーツドリンクを飲んでいる先輩を一瞥し、ついさっき見たばかりの回答が頭を過る。

「碓氷先輩は何で毎日奢ってくれるんですか?」

 今まで一番聞きたくて聞けなかった質問が口から滑り落ちる。先輩は一瞬驚いたように目を見開いたが、またゆっくりとペットボトルに口を付けた。

「俺がそうしたいから、そうしてるだけだ」

「でも、ずっと奢って貰ってるのも罪悪感すごいんですけど」

「別に気にしなくていい」

 一向に折れない先輩にどうしたものかと頭を抱えて、ふと鞄の中に入っている物を思い出す。ビニールのラッピングを一つ掴むと、隣の先輩に差し出した。

「じゃあ代わりにマフィン貰ってくれません?」

 男子高校生が手にするには些か不釣り合いなリボンでラッピングされたマフィンに、先輩は暫し僕の手元を見つめていた。

「漸が作ったのか?」

「はい、昨日部活で作ったんです。僕、料理部なんで」

「料理部?」

「あ、別に料理男子って訳じゃないですよ。ただ、食費が浮くので入ってるだけです」

 そう、料理部に入っているからと言って別に料理が好きでも得意でもない。ただ、男子高校生は常にお腹が減っている。そこでいかにお金を掛けずにお腹を満たせばいいかと考えた結果、料理部に行き着いただけだ。ちなみに部費は親が払ってくれるので、実質タダで週に一回美味しいものが食べられるのである。残念ながら女子の手作りではないが、指示通りに作っているため味は保証できる。同じお腹を空かせた男子高校生であれば、喜んで受け取るだろうと踏んでの提案だったが、その予想を裏切って先輩は申し訳なさそうに首を振った。

「悪い、そのお菓子は受け取れない」

「や、やっぱり女子の手作りじゃないと駄目でしたか……」

「違う違う、ただ俺は、施しを受けないと決めているんだ」

「え、先輩って武士かなにかですか?」

「まあ、剣道部だからほぼ武士みたいなものだな」

「ラ、ラストサムライ……」

「でも、気持ちだけは貰っとくよ、ありがとな」

 少女漫画のイケメンポジションしか言わなそうなセリフを言って、先輩は笑った。女子なら完全に撃ち落とされそうな笑顔だったが、僅かに強張ったそれが僕はどこか引っ掛かった。

 しかし、僕はそれよりももっと引っ掛かっていることが一つあった。教壇で授業を行う千代田先生にバレないよう、そっと視線を斜め後ろに移す。隣の列の二つ後ろに、姿勢よく真面目に板書を写している吾妻くんがいる。その姿を確認して、僕は化学のノートの下に敷いた相談ノートをそっとずらした。結局、相談ノートはそのまま鞄に戻して持って来てしまった。朝開いたときと変わらず、僕の鞄に入れっぱなしだった相談ノートには回答が書き込まれている。少し時間が経って冷静になった僕は、この不思議な現象を受け入れ始めていた。


『クラスメート、僕にとっては友人の子がいるのですが、僕にだけ敬語を使ってきます。最初は礼儀正しい子だと思ってましたが、どうやら彼が敬語を使うのは僕だけのようです。僕が馴れ馴れしいから心のディスタンス的な意味で敬語を使うのでしょうか。』


 誰が書いているにしろ、僕の質問に答えてくれるのは間違いない。すごい頼りになるアドバイスをくれる訳じゃないけど、僕のことを理解しているような回答をくれるから、気になることは全部聞いてみようと思ったのだ。吾妻くんに対する相談を書き終えた僕は、満足した気持ちで文章をなぞり、そっと目を閉じた。

 キーンコーンカーンコーン。学校中に鳴り響くチャイムに、意識が急激に浮上する。ああ、また化学の時間に寝てしまった。覚醒しきらない頭で反省しながら、千代田先生に消される前に急いで板書を写そうとシャーペンを握る。


『親しき仲にも礼儀ありと言うし、あまり気にしなくていいのではないでしょうか。むしろ君だけに敬語というのはディスタンスの詰め方が向こうも分からない、うっかり拗らせ照れ屋さんかもしれません。敬語キャラだと割り切れば何かが開花するかもよ☆』


「いや、ペース早いな!」

 ノートの隙間から見覚えのない文章が覗き、思わず立ち上がる。授業が終わった直後の静かな教室内に椅子を引いた音が響き、クラスの視線が一身に集まる。

「何のペースが早いんだ、葉山。授業か? そりゃあ寝てる奴からしたら早いだろうよ」

「……やっべ」

 この距離からでも分かる千代田先生のガチギレ具合に、久しぶりに血の気が引いた。


「はあ、めっちゃ疲れた……先生、ヒーリングで回復して」

「俺はヒーラーじゃねえよ。どうした、そんなふらふらで」

「今日はほんとに病人。先生にめっちゃこき使われたー」

 昼休み終わりに保健室に入れば、遅めの昼ごはんを食べていた相模先生が目を丸くした。それを横目に持ってきた鞄をベッド脇に放り投げ、ベッドにダイブする。硬いシーツに嗅ぎ慣れた薬品の匂いが鼻を掠めた。

「もう寝る。放課後まで寝るからあとよろしくね」

「だから鞄持って来てんのか……で、なんでそんなこき使われたんだ?」

「授業中寝てたら怒られた」

「ただの自業自得じゃねえか」

「そうだけど、だからって理科室掃除はひどいでしょー」

「理科室……?」

 僕の話を呆れたように聞いていた相模先生が、弁当を食べる手を止めて振り返った。ベッドでごろごろしていた僕は、先生に見つめられ小首を傾げる。あれ、なんか変な事言ったっけ。

「それ、誰先生だ?」

「誰って、化学の千代田先生だけど……」

「掃除って一人で?」

「ううん、千代田先生と一緒。途中で先生が呼ばれちゃったからそこで解放されたけどね」

「……そうか」

 急に食いついてきた先生を不思議に思いながらも説明していれば、先生は話を聞いてどこかほっとしたように昼ごはんを再開させた。黙々と食事をする先生に、僕は思い出したように起き上がり、鞄の中からあのマフィンを取り出した。

「先生、これ余りものだけどあげる」

「お、昨日作ったのか?」

「そう、先生には無実の罪を着せるところだったから……お詫びね」

「え、この前のまだ続いてたの?」

 戸惑ったようにマフィンと僕を見比べる先生の肩をポンと叩き、「真っ直ぐに生きろよ」とサムズアップしてベッドに戻る。カーテンを引いているところで「ちょ、説明!」という先生の声が聞こえたが、カーテンで締め出した。再度ベッドに寝転んだ僕は、鞄から相談ノートを引っ張り出す。眠気に抗いながら新しい書き込みを走り書きしてまた戻すと、今度こそ布団に潜り込んだ。

 次に目を覚ましたのは、ちょうど帰りのホームルームをやっている時間だった。起き抜けに相談ノートを確認した僕は、少し早いが身支度を整える。

「お、そろそろ起こさなきゃと思ってたんだよ。大丈夫か?」

「うん、完全復活。ちょっと忘れ物したからもう行くね、ばいばい」

「気を付けて帰れよー」

 相模先生に見送られながら保健室を出ると、そのままクラス棟の三階へ向かう。以前聞いていた三年二組の教室へ足を進めながらも、廊下を通る三年生たちの突き刺さる視線に手汗が滲む。


『部活のない日に一緒に遊ぶオタク友達の先輩がいるのですが、いつも下駄箱で僕のことを待っててくれます。その先輩と話すのは楽しいし何の不満もないのですが、先輩が僕以外に友だちがいるのか心配です。そもそも先輩は受験生のはずなのに、こんなに僕と遊び歩いていていいのでしょうか。先輩の進路の責任まで僕は取れません。』


『友達がほとんどいない君に心配されるのもその先輩からしたら心外でしょうが、もし心配なら、一度その先輩のクラスを覗いてみなさい。あと、その先輩の受験の心配についてですが、先輩がオタクなら問題ないと思います。オタクは推しのためならどんな壁も超えてくる生き物です。』


 ホームルームが終わった直後なのだろう、まだ生徒で賑わう教室を後ろのドアからそっと覗く。すぐに見つけた特徴的なカラーリングの少年は、何人かのクラスメートに囲まれて楽しそうに談笑していた。

「おい明楽、今日みんなでカラオケ行くんだけどどう?」

「ばっか、こいつは水曜日以外は誘っても絶対に来ねえよ」

「うん、そうなの。ごめんねー」

「何だよ、彼女とでも帰ってんのか?」

「違うよー。けど、大事な友達と約束してんの」

 緩く笑う常陸先輩の言葉に息を呑む。水曜日は、僕の週に一度の部活の日だ。どうして、別に後輩の僕と遊ばなくたって友達はいるじゃないか。眼前の光景に呆気に取られていると、もう一人の顔馴染みの先輩が常陸先輩に近付いた。

「明楽、」

「おー春翔。これから部活?」

「ああ。……お前、あんまり無理させるなよ」

「はいはーい。そんなん分かってるよ」

「ならいいけど。……じゃあまたな」

「うん、また明日」

 常陸先輩と短いやり取りを交わしているのは碓氷先輩だ。二人とも自分の交友関係についてはほとんど話さないから、まさか友達だとは知らなかった。次々と与えられる情報を処理しきれずに困惑したまま立ち尽くしていると、エナメルバッグと竹刀を担いだ碓氷先輩がドアに近付いてくるのに気付く。僕は踵を返すと、逃げるように走り出した。


 急いで帰宅した僕は、自分の部屋で、机に広げた相談ノートと向かい合っていた。帰る途中で常陸先輩には家の用事を思い出したと断りの連絡を入れた。心配するようなスタンプが連打されてきたので帰宅した旨を伝え、明日は必ず遊びに行くことを約束すれば笑顔のメリーちゃんスタンプが返ってきたので大丈夫だろう。誰にも邪魔されない静かな自室で、深呼吸をする。それでも、意気込んでシャーペンを握りしめた指先は小刻みに震えていた。

 実のところ、ずっと喉元を微かな違和感が蔓延っていた。何が違うと明言できないけれど、どこかがずれている感覚。意識的に目を背けてきたのは、他でもない自分自身だ。もう一度大きく息を吸い込むと、相談ノートにずっと聞きたかった一文を綴る。


『ねえ、僕は何か大事なことを忘れてしまったのでしょうか。』


 心臓の鼓動が耳元で煩い。堪えるようにノートを見つめ続ければ、短い一文が浮かび上がる。普通ならあり得ないその現象を目の当たりにしても、もう今さら驚きの感情は湧いてこなかった。


『本当に、知りたい?』


 その問いかけは、おそらく最終確認だった。言外にその後は責任を取らないという意図が、その短文に滲み出ている。それでも僕は、随分と見知ったその筆跡を信頼していた。本当に僕は頭が悪い。どうしてすぐに気付かなかったのだろう。相談と回答が同じ筆跡だったことに。


『知りたいよ』


 そう一言返せば、一拍置いてノートには長い長い文章が綴られ始めた。


 その日は、職員会議があるため短縮授業の日だった。

 最後の授業の体育を終えた僕は、春翔と明楽と三人で自販機へ向かっていた。

「はあー汗だく。真夏に外でサッカーとか、ただの拷問じゃーん」

「うう、めっちゃ頭ふらふらする……焦げる……」

「二人とも大丈夫か?」

「逆に春翔はなんでそんなに平気そうなわけ?」

「部活だとさらに防具を付けるからな。半袖半パンなだけマシだ」

「何それ、聞くだけで倒れそう……」

 ゾンビのようにだらだらと歩きながら自販機に着いたところで「あ」と声を上げたのは春翔だった。財布のチャックを開けながら振り返れば、ポケットに手を入れたまま固まっている。

「しまった、財布忘れた」

「どこに?」

「家に」

「もー出たよ、春翔の天然殴り込み」

「悪い、今度返すから今日だけ奢ってくれ」

「しょうがないなあ……ってあ、僕も百五十円しかないや」

「じゃあ明楽に借りるから、漸は自分の分を買ってくれ」

「え、俺財布持ってきてないよ」

「え」

「だってーこのあと着替えたら帰るだけだし、いっかなって」

「じゃあなんで一緒に来たんだよ……」

「えー一人だけ仲間外れは寂しいじゃん」

「かまってちゃんかよ」

 隣で繰り広げられる二人の不毛なやり取りを聞き流しながら、僕は持っていた小銭を入れるとスポーツドリンクのペットボトルを選び、春翔に差し出した。

「ほら、春翔にやるよ」

「いや、別に水飲めばいいし、お前だって喉乾いてるだろ」

「春翔はこの後、少し練習してから帰るんだろ。水よりこっちの方がいいでしょ。僕は明楽と一緒に帰るだけだからさ、気にしなくていいよ」

「そうそう、それにそんな優しい漸くんには、帰りに俺がマック奢ってあげるから心配しないの」

「え、明楽それほんと!」

「うん、この前宿題写させてくれたお礼だよー」

「わーやった、ほら明楽もこう言ってるし、春翔も気にすんなよ!」

「ああ、じゃあありがたく貰うわ。ありがとな、漸」

 ペットボトルを押し付けるように渡せば、春翔はようやく受け取って破顔した。それから一旦教室に戻り部活に行く春翔と別れたあと、明楽とどこに遊びに行くか計画を立てながら廊下を歩く。すると突然、後ろから大きい声で呼び止められた。教室から急いで駆け寄ってきたのは、担任の千代田先生だった。

「お前ら、悪い。ちょっと頼みたいことあるんだけどいいか?」

「どうしたの千代ちゃん」

「この後すぐに会議に行かなくちゃいけないんだけど、最後の授業で使った理科室の片づけが間に合わなくて。器具と薬品を準備室に運んどくだけでいいからお願いできるか?」

「えー何それめんどー」

「千代ちゃん、いっつも僕らに頼んできません?」

「いやーなんだかんだお前ら引き受けてくれるから頼みやすくてさあ。頼む、鍵は職員室の俺の机の上に置いといてくれればいいから」

 焦った様子で時計を確認しながら懇願する千代田先生を見兼ねて、一つ溜息を吐いてその手から準備室の鍵を受け取った。ぱっと顔を上げた先生が目を輝かせる。

「貸し一つですよ」

「ありがとな! ほんと助かったわ!」

 両手を合わせてお礼を言うと、先生は足早に職員室へ続く階段に消えていった。一気に静けさを取り戻した廊下で、二人の間に沈黙が流れる。

「ちょっと漸、なんで引き受けちゃうのさ」

「準備室に運び込むだけでしょ。僕一人でぱぱっと片付けてきちゃうから、明楽は先にマック行ってて」

「えーでも……本当にいいの?」

「すぐ追いつくからさ。その代わり先に着いたら僕の分も注文しといて」

「おっけー。セットはいつものでいい?」

「うん、喉乾いたからジュースだけLサイズにしといてくれれば!」

「了解。じゃあイベ周回しながら待ってるからねー」

 スマホ片手に手を振る明楽を見送り、僕は鍵を手に理科室へ急いだ。理科室に入れば各テーブルの中央に、ビーカーなどの実験器具と使った薬品瓶が置かれている。僕は両手に持てるだけ抱えると、併設された準備室のドアを開けた。

「……うっ」

 開けた瞬間、むわりとした灼熱の熱気が襲い掛かる。理科室と違い締切りになっていた準備室は熱気がこもり、尋常じゃない室温になっていた。あまりの暑さに、どっと汗が噴き出す。

「なんで準備室ってカーテン黒いんだよ、余計暑いじゃん」

 ぶつぶつと文句を言いながら準備室の机に運び込んだ器具や薬品を並べる。滴り落ちるような汗に理科室に置いた鞄からタオルを取ってこようかと考えた時、ぐらりと視界が歪んだ。

 ごとん。

 鈍くて重い音に、何が起きたのか分からなかった。うっかり薬品瓶でも落としたかと首を動かそうとして、自分の視点がやけに低いことに気が付いた。左頬に感じる僅かにひんやりとした木の板の感触に、先ほどの音は自分が倒れた音だったと理解する。ゆっくり身体を起こせば、軽い眩暈はしたものの立ち上がれた。腕時計を見ても時計の針はほとんど進んでなくて、気を失ったのは一瞬だったと安堵する。ずきずきと痛む頭を我慢して、何とか最後の器具を運び込むと気が緩んだのか、再び力が抜けて座り込んでしまう。

 これはちょっと本格的にまずいかもしれない。経験したことのない身体の感覚に危機感を覚え、保健室という単語が頭に浮かぶ。さすがにこの状態で帰るのは難しいから、少しだけ保健室で休ませて貰おう。明楽には保健室に着いたら連絡すればいい。そこまで考えて理科室を出ると、鞄を引き摺りながらふらつく足で歩きだす。窓の外は運動部の声で騒がしいのに、授業で使う専門教室しかない教科棟は人気もなく恐ろしく静かだった。人を呼べないのは辛いが、幸いこの階段を降りれば、目の前が保健室だ。半ば自分を励ますように階段を降りていると、だんだん視界が暗くなっていき目の前が見えなくなってくる。舌打ちをこぼし、手摺りに手を伸ばそうとすると、足元ががくんと沈み込んだ。踏み外したと思う間もなく、盛大に階段を転げ落ちる。全身の痛みに耐えていると、最後にがつんと強かに頭を打ち付けて動きが止まる。混濁した意識の中で、うっすら目を開けると保健室のドアが視界に入る。そのドアに「不在」と書かれた札が下がっているのを捉え、今度こそ意識を手放した。


 ぐい、と見慣れた青いスポーツドリンクのペットボトルを差し出せば、春翔先輩は目を見開いた。自分も同じ物を購入して、隣に並ぶ。

「先輩には一生分ってくらい奢って貰ったんで、たまには奢らせてくださいよ」

「でも、俺は、」

「それと、これからはもう奢ってくれなくて結構ですからね」

 押し付けたペットボトルを握りしめて戸惑う先輩を遮るように宣言すれば、先輩は弾かれたように顔を上げた。その強張った表情に哀しみが見え隠れしていて、僕は吹き出してしまう。

「別に今日で終わりってわけじゃないですよ。ただ、ジュースは自分で買えるからさ、碓氷先輩は今まで通り、僕の話し相手になってくれれば嬉しいんです。それじゃダメですか?」

 以前先輩がしていたように顔を覗きこんでみれば、一度くしゃりと歪めた後、少し眉を下げて破顔した。それはずっと僕が見たいと思っていた、春翔先輩の笑顔だった。

「よし、決まりですね。じゃあ、すいません春翔先輩、今日はこのあとちょっと用事があるので失礼しますね!」

「……用事?」

「はい、もう一人の友達のところです!」

 階段を三階まで一気に駆け上がれば、運動部でもないのでさすがに息が上がる。大きく深呼吸してから三年二組の教室を覗けば、探し人はすぐに見つかった。先輩の名前を呼べば、まだそんなに人数のいない教室内で彼はすぐに気付いて近寄ってくれる。

「おはようございます、昨日はすいませんでした」

「おはよー漸。それは気にしてないけど……珍しいね、教室に来るなんて」

「はい、実は明楽先輩にお願いがあって」

「お願い?」

 きょとんとする先輩に、悪戯を仕掛ける子どものような気持ちで胸が弾む。

「今日はまたゲーセンに行きましょう。でも、ずっと言おうと思ってたんですけど、やっぱり先輩目立つから駅前のマックで待っててください。必ず、行きますから」

「え、え?」

「ああ、それから、この前先輩の欲しかったフィギュア獲ったんですから、マックは奢ってくださいね!」

 それじゃあまた放課後に、と言いたいだけ言って踵を返す。明楽先輩はしばらく困惑して呆然としていたけれど、階段を降りる時に「わかった!」と元気な返事が聞こえたので問題ないだろう。緩む口元をそのままに二階の廊下を歩いていると、自分のクラスの前の廊下に吾妻くんが立っていた。挨拶をすると、彼はこちらを振り向き、真っ直ぐに僕を見つめた。

「漸くんは、記憶が戻ったんですか?」

 大きくはないけれどよく通る澄んだ声に、僕は笑って首を振った。

「別に戻ってないよ、でも何があったかはようやく分かった」

「……そうですか」

「まあ、僕は戻らなくてもそんなに困ってないんだけど。でも、毎日明日は来ちゃうからさ、もったいないかなとは思ったよ」

 僕の拙い本音でも、賢い吾妻くんは理解してくれたのか小さく頷いてくれる。それを見て、彼にもずっと言わなければいけなかったことを思い出す。

「そうだ、吾妻くん」

「なんですか?」

「あの時、最初に見つけてくれてありがとう」


 高校二年生の二回目の夏が、もうすぐやってくる。


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