世界を捨てる、5年前 〜虐げられた聖女と青年の手紙〜
9歳の私は、突然親元から引き離された。
「……ママ?」
そこは教会のような場所で、白い衣に身を包んだ大人たちが小さな私を囲んでいた。
彼らは何かを話し掛けていたけれど、その言葉を私は分からなかった。
「パパ……ママ……?」
怖くて、心細くて、不安で、泣き叫んだ私を彼らは戸惑うように見下ろしていた。
心は恐怖でいっぱいだった。
幼心にあまりに辛い記憶だったんだろう。私はその前後のことをぼんやりとしか思い出せない。
はっきりと思い出せるのは、それから半年ほど経ってからのことだ。
私は変わらず、よく分からない教会のような場所に保護されていた。精神的に少し落ち着いてからこの国の言葉を覚えはじめた。すると彼らと意志が通じあえるようになった。
私を保護した大人たちは、神官、という役職であるという。
「貴方様は聖女です」
聖女、という聞き慣れない言葉を、当時の私は正確に理解出来てはいない。
「私たちに必要な尊い方でございます」
大人の言葉は少しも理解出来なかった。
けれど彼らは絶えることのない笑顔を浮かべながら私の世話をしてくれた。
幼い私に分かったのはたった一つ。
パパとママには会えないんだということだけだった。
――五年後。
私はいまだ、両親に会えていない。
14歳を迎えて、三度目の満月の日だった。
神殿のはずれに建てられた小さな建物が私の生きる場所。色とりどりのガラスの窓に囲まれたその建物は、教会のような厳かさも持っている。
実際に聖女が住まう、神に祈るための場所だった。
ここが今では私の世界のすべてだ。9歳から14歳に至るまで、神殿とこの場所以外には出たことがない。
「それでは聖女様。今宵もお勤めをお願い致します」
白い長衣を着た神官が礼を取りながら言う。
「分かりました……今宵も月の輝きがありますように」
「月の輝きがありますように」
神官は儀礼的な返事をすると建物を後にして行った。
親元で育った記憶は私の大切な宝物だ。
両親に愛され育ったと思う。
「どうしてパパとママに会えないの?」
私の問いに神官たちは決まって同じ答えを返した。
「聖女様は神殿で保護する決まりなのです」
この国では、長い歴史でずっとそうだったのだと語る。
「聖女様の祈りだけが、神からお力を分け与えられるのです」
聖女にしか出来ない役割。
それをするために私はここにいるのだと言う。
神官とは会話をする。勉強も受けさせられる。
けれど彼らは私の数少ない言葉を交わせる人間のはずなのに、心のこもった会話など出来たことはなかった。それが分かるのは、親元で、おそらく普通に育った記憶が私の中にわずかながらに残っているからだ。
五年。
初めは泣いて喚いた。次に身体を壊した。元気になった後は、何度もここから抜け出そうとした。
街まで逃げたことがある。
数日煉瓦造りの町をうろつき、お腹を空かせ倒れているところを神官に捕らえられた。
結局――子供の自分には逃げる場所などどこにもなく、一人では生きていけないのだと知っただけだった。
諦めてしまえば、日々は穏やかに過ぎていく。
食べることには困らない。学ばせて貰える。そして綺麗な住居と、心静かに祈れる時間が与えられている。住まいは草花と木々に囲まれ太陽の日差しと鳥の声に満たされている。生活は申し分ない。
私にしか出来ない役割が与えられている。きっと特別な人間なのだろう。役に立つ勤めを果たすことで、いずれ心から満たさせる時も来るのかもしれない。
けれどそう思えない……。
神官とも、世話役の女官とも、心が通わないどころか目を合わせることすら避けられているような気がするのだ。
何気ない会話が誰とも出来ない。
(ただ……寂しい)
幼いのだろうか。わがままなのだろうか。
(パパ、ママ……)
明るい笑顔で愛情を伝えてくれたはずの人たちがいない。
(会いたい……)
記憶はとうに朧げだ。
幼い身にあまる辛さは、私から大事な記憶まで薄れさせてしまった。
それでも何年経っても寂しさに慣れない。張り裂けそうな孤独を抱えながら空を見上げる。
月が昇る。
聖女には勤めがある。
月明かりの元、この一人きりの建物の中で、月に向かって神に祈れという。
満月の夜は特別だ。
祈りを怠ると、神官たちにもそれが分かってしまう。聖女の祈りは、この世界の魔力量を増やすためのものなのだから。
心を無にするように深呼吸をしてから、祈りの姿勢を取ると、私は言った。
「月の女神シャーリャン様。この世界の皆が幸福でありますように……」
祈りの言葉は限りなく存在するけれど、突き詰めればこの願いを祈るだけだ。
だけど本当は、心から祈れていないことも知っていた。私の世界はとても狭い。知らない人のことなど祈れない。だからひっそりと、心の中には家族を思い浮かべている。
「私の大切な人たちがどうか幸せでありますように……」
月にそう願うと、ぽたりと一粒の涙がこぼれ落ちる。
月のしずくのような涙が床に染みを作ると、暗い気持ちが湧き上がる。
――私は、幸せじゃない。
寂しさと、恥ずかしさが入り混じる複雑な思いが心を占める。
幸せじゃ、ない、なんて。
自分は健康だ。
聖女として、きっと敬われている。特別な役割を与えられ、豊かな暮らしをしているのに、幸せだと思えないなんて。
――自分はなんて醜いことだろう。
けれど、世界の人々の幸せを願いながら……私は自分の幸福を祈ることも出来ず、自分の笑っている姿すら、想像することが出来ないのだ。
「……寂しい……寂しいの」
口に出してしまえば想いは止まらない。
「……ふぅ……うぅ……っ」
嗚咽が止まらず口元を押さえながら床に膝を突く。
「ママ……っ」
瞬間。
カタン。
誰もいないはずの室内に静かな音が響く。涙に濡れた瞳を向けると、白い封筒が落ちている。
「……?」
神官の忘れ物だろうか。手に取ると封がされていない。自分宛のものかと思い、無造作に開けてから息を呑む。
「――え?」
便せんに書かれていたのは、神の言葉。子供の頃に知っていた言葉。
――聖女様しか知らないお言葉は、神の世界のお言葉なのでございます。
祈りは、神の言葉で捧げている。
この国の人々には読めない、懐かしい文字で書かれていたそれは、私宛の手紙だった。
『聖女様
突然のお手紙をお許しください。
僕は平凡な学生です。
ある夜の祈りの時間から、貴方様のお姿を拝見するようになりました。
とても信じられないような出来事でした。
目を瞑り祈っていると、どうしてだか閉じた瞳の奥がぼんやりと明るくなり、貴方様のお姿が映るのです。
清らかに神に祈るお姿から、聖女様に違いないと思いながらも、それを確認するすべもなく日々を過ごしてきました。
あまりに不思議なことです。
神の思し召しなのでしょうか。
けれど、貴方様のお姿を思い浮かべるだけで、僕は心が晴れるような気持ちになれることに気が付きました。
辛い日常を耐え、明日を生きる元気をもらえるように思えたのです。
この感謝をどうにか伝えられないかと思った僕は手紙を書くことにしました。
瞳の奥でだけ拝見出来る、幻の聖女様に手紙だなどと、馬鹿な考えだとお笑いください。
けれど、この手紙が貴方に届くことを、月の神シャーリャン様に祈りたいと思います』
――それが、彼からの初めての手紙だった。
14歳、最後の満月の夜。
『名前の分からない信者様へ
お手紙ありがとうございます。
あなたからのお手紙は、六月前と、そして一月前に届きました。
私だけが知るはずの言葉で書かれた手紙を受けとり、どれほどうれしかったのか、あなた様には思いもつかないことでしょう。
返事をしたくとも、手紙を送ることが出来るのか分からず、月日ばかりがすぎていきました。
けれど手紙を受けとったその時から、またこの神の気まぐれのような出来事がおこらないかと私はずっと待っていました。
そうして受けとった二通目のお手紙を読み、体をきづかってくれるやさしいお言葉に、私はうれしくて泣いてしまいました。
かつて学んだはずのあなたの使うお言葉を、私はだいぶ忘れています。学んでおらず読めない言葉も多いです。
あなたはどこに住んでいらっしゃるのでしょうか?
私と同じふるさとの方なのでしょうか?
どうかあなたのことをおしえてください。
シャーリャン様に手紙をたくします。
あなたに月のかがやきがありますように』
15歳、3度目の満月の夜。
『聖女様
返信をありがとうございました。
まさか聖女様から手紙を頂けるとは思わず、シャーリャン様と聖女様に心から感謝を致します。
僕もとても光栄で、心から嬉しかったです。
読めない字があったのですね。申し訳ありませんでした。
今後も送らせていただけるのであれば、宜しければふりがな付きで送らせて頂きます。
言葉が同じであると言うのなら、おそらく僕は今あなたの故郷に住んでいるのかも知れません。
ここは夜でも明るい不思議な街です。
僕は家族の居ない学生で、今は毎日勉強に追われています。
それと僕の名前ですが……今僕はこの街で、ツキトと呼ばれています。
月の人と書きます。
月の女神様のバチが当たってしまいそうな名前ですが、この街には、シャーリャン様への信仰はないようなのです。
聖女様の故郷はどのようなところだったのでしょうか?
宜しければお教え下さい。
月の輝きがありますように。
ツキト』
15歳、4度目の満月の夜
『月人様
お手紙をありがとうございます。
私も月人様とシャーリャン様に心から感謝致します。
お名前を教えてくださりありがとうございました。
とてもすてきなお名前ですね。
またふりがなをつけて頂けるお心づかいうれしく思えます。あらためて言葉を学んでいきたいです。
私のふるさとにお住まいかもしれないのですね。とてもうれしく思えました。
私は元々の名前を思い出せません。
はじめはおぼえていたのですが、一度ねこんだ時から昔のことをあまり思い出せなくなってしまったのです。今では誰からも聖女と呼ばれるのみです。
けれど雨の季節に生まれてきたことをおぼえています。
雨にちなんだ名前だった気がします。
家の庭には、雨の季節に咲く美しい花が咲いていました。
あの花は何という名前だったのでしょうか。
勉学にいそしんでいるとのこと。どうかお体にお気をつけてお過ごしください。心から応えんしております。
あなたに月の輝きがありますように』
15歳、7度目の満月の夜。
『聖女様
お手紙をありがとうございます。
お姿を拝見出来ない月が続き、返信が遅れてしまって申し訳ありませんでした。
お手紙を読ませて頂き、僕には思い付いた花があります。
紫陽花と言う花です。
桃色から青色まで、鮮やかな色で咲き乱れます。
正確には花ではなく、花の周りのガクの部分が色付き花のように見えると聞いたことがあります。
聖女様がこの街のどこかで生まれ育っていたのだと想像するだけで、忙しない日々の中で心が休まるような気持ちになれます。
いつかこの街にお呼びすることが出来たら、その時には、紫陽花の咲き誇る景色を一緒に見ることが出来たらと、そんなことを願ってしまいます。
あなたに月の輝きがありますように』
15歳、9度目の満月の夜。
『月人様
お手紙をありがとうございます。
お忙しい中、私のことを気にかけてくださりありがとうございました。
紫陽花、聞いたことがある気がします。
きっとその花なのでしょう。
私もいつかあなたの住む街に行ってみたいです。
けれど私は、この場所から外に出たことはありません。
私は私のつとめを果たさなくてはならないのです。
行くことは叶わなくとも、あなたの話を聞かせて頂けるだけで心がなぐさめられます。
幼い頃、家の近くのパン屋に行くのが好きでした。
母が好物のパンを買ってくれるのです。
果物の形をしたパンで、外はクッキーのように固く中はふわふわしています。
メロンパンと言ったと思うのですが、ここの者に聞いてもメロンという果物などないと言います。
もしかしてあなたの住む街にはメロンパンがあるのでしょうか?
あなたの好きなものも教えて下さい。
月人様に月の輝きがありますように』
16歳、1度目の満月の夜。
『聖女様
僕の住む街にはメロンという果物があります。
僕は手紙を受け取ってから、はじめてメロンパンを食べました。
果物の形を模したパンで、確かに外側は固く中はふわふわでした。
僕はもう何年もあまり食事に興味がなかったのですが、貴方が好きなものだと聞くと、とても美味しいものに思えて来て不思議です。
一時期メロンパンの流行りがあったようで、色々な種類が存在していました。
中にクリームがはいっているものや、実際にメロンの果肉の入ったものもあるようです。
聖女様に食べてもらいたいと思いながら色々な店を調べました。
そして今、雨の季節がやってきました。
紫陽花が満開です。
この花をあなたに送れたらいいのにと思いながら、枝を切ってきました。
僕はあまり自分の好きなものは分かりませんが、けれどあなたを思い出せるこの花のことを好きだと思えます。
手紙が送れるのならばどうかシャーリャン様、この花を聖女様にお届けください。
そして聖女様。
お誕生月、おめでとうございます。
あなたの生まれた日に、月の輝きのありますように。
ツキト』
――とさり、と、音を立てて青色の花が落ちてきた。
小さな花がたくさん集まっている塊のような花。正確には花のように見える部分はガクなのだと教えてもらっていた。
私はその花束を両手で抱えると、匂いを嗅ぐ。
草のような青臭さがあり、けれど少しだけ花の香りがした。
「……紫陽花」
言葉にすると、思い出していく。
生まれた家の庭には紫陽花が咲いていた。
『○○、あなたの生まれた年に植えたのよ』
ママがそう言っていたのだ。
両目からボロボロと涙が溢れ出す。
「……ママ、パパ」
もう顔も思い出せない。だけど、思い浮かべるだけで心が温かくなる。
だけど今は。
「……月人」
あなたのことを思い浮かべる時が、1番に心が安らぐ。
どうかあなたに月の輝きがありますように――
16歳になると、逃げる以外で初めて神殿の敷地を出る機会がやってきた。
「慰問……ですか?」
「そうです。皆が聖女様のお姿を一目見たいと思っております。これからは聖女様の優しさを伝える機会を作って行きたいと思います」
自分は軟禁されているのだと思っていた。
けれどそれは幼い年齢故だったのか、16歳からは外的活動もしていくのだという。
馬車に乗り町の小さな教会にたどり着く。
けれど聖女の姿を待ち望んでいる人は誰もおらず、着いた早々に子供たちに大泣きされた。
「うわ~怖いよ~~!」
「黒いー」
「怖いよー!!」
「わーーーおばけーーー!!」
ここは教会に隣接された孤児院なのだと言う。
何が起きたか分からず呆然としていたけれど、子供達のその素直な言葉から状況を少しだけ把握する。
――黒髪黒目が怖いのだ。
そう言えば神殿に来てから、黒髪の人に出会ったことがない。もしかしたらこの場所には、きっと存在しない色なのだ。
結局その日は孤児院に訪問しただけで、何も出来ずに帰らされた。
後日別の孤児院に連れて行かれたが、また同じように大泣きされた。
私を見つめる教会の神官たちからも、怯えのような視線を感じていた。
――心から、怖がっている。
神殿の神官たちとも距離があったけれども、聖女として敬われているのかと思っていた。けれど、こんなにも畏怖の対象なのだとは思ってもいなかった。それならば、目が合うことすら避けられていたと思っていたのは、気のせいではなかったのだ。
王城での、謁見もあった。
市街地での、式典の参加もあった。
けれどどこに行っても、人々から怯えられた。
子供の私を外に出さなかったのは、理由があったのだと知る。子供の頃こんな対応をされたら、私は泣き叫ぶだけだっただろう。
何度か孤児院を移ったけれど、どこも同じことになったため、ある時から月に2度の頻度で同じ孤児院に行くことになった。
そこでも最初は子供たちは怯え泣いた。
けれど院長たちが迅速に子供たちを嗜めたのが他の場所と違ったのだ。
そして月日を重ねるうちに、危険な存在ではないと認識したのか、次第に子供たちと少しずつ会話が出来る様になっていった。
「どうして聖女様は髪が黒いの?」
「私の父も母も黒かったからよ」
「悪魔じゃないの?」
「……普通の人間よ」
「聖女さまなのに?」
「ええ、そうよ。みんなと一緒。泣いたり笑ったり、大好きな人のために祈るのよ」
一年も過ぎる頃には子供たちからの心が寄せられるようになり、その孤児院への慰問は私にとって心安らぐ時間の一つになっていた。
そして心を開いてもらえていたのは、子供たちからだけではなかった。
「かつて、ここにも黒髪の子供が預けられていました」
「……黒髪の子供ですか?」
それは私と同じふるさとの人なのだろうかと考えながら、院長の言葉の続きを待った。
「本当のところは分かりません。その子には、かつての聖女様の血が混ざっているのではないかと噂されておりました」
「……そう」
「この子です」
見せてくれたのは一枚の絵。
孤児院の子供たちの絵姿を残したものだ。
絵の下には名前が残っていた。
「……ツキト」
おもわず呟く。
この国の言葉で、月の人と書かれていたのだ。
院長が言った。
「彼が10歳の時に姿を消して、もう8年になります」
ここの人たちは、私に本当に心を開いてくれているわけではないのだと思う。
私の背後にある神殿の存在をいつだって少し警戒している。
だけどきっとこのことを話してくれたのは、彼らの心に間違いなくある誠意からなのだと思う。
17歳、3度目の満月の夜。
『月人様
お元気にされておりますでしょうか?
働きながら学校に通う生活は、大変お忙しいことだろうと思います。
月人様の生活をお伺いするたびに、私も月人様のように、学ぶこと働くことを真摯に行って行きたいと、身が引き締まる思いになります。
私は孤児院に通うようになり、少しだけ世界が広がったように思えます。
月人様。
黒髪と黒目を持った人間は、悪の化身なのだと言う話を聞いたことがありますでしょうか?
人々は皆私の姿を見ると怯えます。
私のふるさとでは、そのような話はなかったように思うのです。
私の姿が見えているとおっしゃっていた月人様は、もしかして、恐怖に耐えながらも手紙をくださっていたのでしょうか?
無知な私は、今までそんなことにも思い至らなかったのです。
敬虔な信者である月人様に無理をさせていたのではないかと、心苦しく思っています。
どうかもう、ご無理はなされないでください。
シャーリャン様に、あなたの幸せを願っています。』
17歳、4度目の満月の夜。
『聖女様
忙しい日々の中で祈りの時間が取れず、返信が遅れていたことをお詫び致します。
また、大事なことを今まで伝えられなかった僕をお許しください。
僕自身も聖女様と同じく、黒髪黒目です。
聖女様に怯えることなどありえず、僕は聖女様のことを、とても美しい方だと思っています。
本当にこんな言葉だけでは伝え切れないほど……今まで目に映った全てのものよりも、清らかに澄んだ、触れたら消えてしまいそうに儚い月の光のような女性に思えています。
無理など少しもしていません。
僕は次の春に一度学生を終え仕事に就きます。
孤児である僕は、人より多く働かなくては生きていけず、人生には困難が数多く立ち塞がっています。
心が打ちのめされ、もう立ち上がれないと思ったことは幾度もありました。
恥ずかしいことですが、18年生きてきても僕には大切な人が出来ませんでした。
ずっと一人で生きるのかと考えることもあります。
けれど聖女様が僕を含めた世界のことを祈ってくれているのだと思えるだけで、前を向ける元気をもらえ、今日まで生きてくることが出来ました。
誰かのために祈れる貴方を尊敬してます。
月を見上げれば、いつでも心が少しだけ温まる気がするのです。
あなたのお姿を見ることが出来た僕は、どうしようもないほどの幸運を与えられていました。
あなたは、僕の生きる希望です。
どうか、気に病まないでください。
心ない言葉を真に受けないでください。
あなたは誰よりも、聖女らしくあられる聖女様です。
僕はそれを知っています。
ツキト』
9歳。
親元から引き離されてからずっと寂しくて、心が張り裂けそうだった。
14歳。
あの人からの手紙を初めて受け取った。
何度も手紙を交わし合い、翌年には紫陽花をもらった。
16歳。
孤児院への慰問は、私には成長の意味でも、知識的な意味でも、自由になる時間的な意味でも必要なものだった。
17歳。
人と心が通い合えることを少しだけ、また信じ始めた。
そして18歳。
私は考えている。
気が狂いそうなほどの寂しさを、ひと時でも埋めてくれる人がいる。
一瞬でも心が埋まったからこそ、見えてくる。
抱え続けていた寂しさ。
満たされて埋められる心。
けれど決して会えない人を切望する想い。
祈ることしか出来ない私は、私の心を救ってくれた人を、手助けすることも出来やしない。
私には何も出来ない。どうか、あの人が独りきりでいませんようにと、祈ることしか出来ない――。
綻びがあったのだ。それは最初から。
神官たちは、私に前任の聖女のことを話さないようにしていた。話を聞こうとするとそれとなく違う話題に変えられる。けれど、少し前までいたその存在を隠し通すことなど出来ないし、通う教会の人々は知っていた。図書室にも資料がある。
「まだ私は子供でしたが、遠目で見てもお綺麗な方でした。貴方様と同じく、黒髪と黒目の、異国の顔立ちの方でした」
そう話してくれたのは孤児院の院長だ。
「役目を終えられて、ご成婚なされたときにお見かけ出来る機会がありました」
その話を聞かなければ、『聖女の役目に終わりがある』ことも知らなかったかもしれない。
そしてもしも私と似ている人なのならば……同じ故郷の方だったのだろうか。
見つけ出した資料とも照らし合わせて、前任の聖女が役割を終えたのは今から21年前、聖女としての役割を担った期間は10年ということだった。
――私も、10年経てば解放されるの……?
そのことに初めて思い至った私は、神官たちに、遠回しにも直接的にも確認をしたのだけれど、明確な答えはなかった。
――『月の神シャーリャン様のお決めになることですから』
彼らは皆そのように答えた。
そして前任の聖女の前には、長らく聖女は居なかったのだと言うことも分かった。数百年も昔に居たとされる資料はある。けれど詳細は秘匿されているのかわからなかった。
神殿での神についての講義や、図書室の本を読み漁り、この世界の魔法の仕組みを理解していく。
「シャーリャン様のお力を、我々は使わせて頂いているのです」
神官は言った。
「神は信仰する者全てに、その祈りに応じたお力をこの世界に分け与えてくださいます。平和な時代が続き、神に真に祈れる者が減り続けました。とても嘆かわしいことです。世界からは聖力が激減しました。聖力は魔法の力の根源。聖力がなくては、人の傷も癒せず、また神の御心を授かれる教会を作ることも出来ません」
そうして言うのだ。
「しかし我々には聖女様がいらっしゃいます。欠乏した聖力は、聖女様が祈ることで満たされます。聖女様の祈りが、この世界を救ってくださるのです」
つまり、世界に足りていない魔法の力を、私の祈りで埋められるのだと言うのだ。
今の世界では、魔法が使えるのは一部の神官のみ。
魔法は、癒しの魔法や、火や風を起こしたりするものもあるらしい。
大病、大怪我を負った者は神殿に運ばれてくるのだけど、聖力を使うには大金を納めなくてはならない。魔法で傷を癒せる人は、一部のお金持ちだけらしい。
私には魔法は使えない。
祈ることで聖力を世界に増やすことだけが出来る。
聖力が増えると、神殿の魔法球の輝きが増すのだ。
神殿の奥深く、神殿長や、一部の者しか入れない場所に置かれている、蒼い天体のような球体。
私も年に一度ほどしか見ていない。
その魔法球には、聖力が溜め込まれているのだと言う。聖力が衰えると色をなくして行く。私が初めて見た時はほとんど輝きを無くしていた。
けれど今は、満ち溢れるように輝いている。
「聖女様のお祈りのおかげでございます」
日頃私を避けているような神官たちも、魔法球を前にしたときだけは、心からのように頭をさげてくれる。
この国は、とある大国の属国らしい。
何十年も前に、大国の暴君と呼ばれる皇帝により制圧され、魔法使いのいる稀有な国として、支配下に置かれている。
大国の力による支配は、けれど世界に平和をもたらしていた。
戦のない日々が過ぎる。戦を知らない子が育つ。
平和は人々の心から神への祈りを減らした。
そして必要ないものであるかのように聖力が欠乏していった。
けれどそれでは、まだ生きられるはずの人の命さえ、助けることができなくなる。
私に出来ることは祈ることだけ。
その祈りは、私に出来る唯一のことであり、そうして、こうして感謝もされている。
もうすぐ、19になる。
私は、一人、ずっとずっと考えている。
19歳、10度目の満月の夜。
『月人様
お手紙ありがとうございます。
学生に戻られてからの日々もお忙しそうですね。
働きながら学業もこなすなど、とても真似できることとは思えません。心から尊敬しております。
大変なご苦労をされていらっしゃるようですので、お身体をとても心配しています。
食べ物をしっかりととって、また休息もとってくださいね。
私の生活は変わりはありません。
ただ、この歳になりやっと……少しだけ、私自身の役割や、社会のために出来ることなどを、客観的に受け止められるようになった気がします。
私は子供の頃からずっと考えて来ました。
聖女とはなんなのだろうと。
親から引き離され、無理やり課せられた義務のように思っていたのです。
今ではもう両親の顔も思い出せず、健在なのかすら分かりません。
けれど確かに、この世界の聖力は減り続けています。
それを増やせる力を持つ人間が私しか見つからなかった。
そうしてその役割は、唯一無二のものであり、私の世界のために役立てることなのです。
私は望まれる限り、私の出来ることを尽くしたいと思います。
そんな風に受け止められるようになれたのは、あなたのおかげです。
私にはもう家族はいません。
祈れと言われても、何を祈ればいいのかも分からず、ただ漠然と祈るだけでした。
もしかしたら、心に大きな穴が空いていたのかもしれません。
暗闇に吸い込まれるように、私の中にあるはずの温かな想いはそこに飲み込まれ、誰かのために祈る気持ちになど心を込められなかった。
けれど……あなたからの手紙を頂いた年から、魔法球の聖力が増したのです。
心の穴が埋まっていくように、私の心が誰かの幸せを、心から願えるようになれたのです。
世界の人々の幸せを祈りながら……私はその中に確実にいる、あなたの幸福を願っていました。
魔法球の輝きが増す度に、私はあなたも幸福でいられているのではないかと感じて、嬉しかった。
聖女であることを受けいれられた今、やっと私は……自分の心に素直になれます。
私はこの先も聖女の役割を担って生きて行きます。
けれど神にもしも許されるのであれば、私はこれからも、あなたのために祈りたい。
苦労をして育ち、懸命に生きている、あなたの心が満たされますようにと、安らかな眠りにつけますようにと、聖女の前にただの人間である私が、そう祈ることをどうぞお許しください。
あなたに月の輝きがありますように』
19歳、11度目の満月の夜。
『聖女様
あなたからの手紙は、全てが僕の宝物です。
どうか僕にも、同じだけあなたの幸福を祈ることをお許しください。
あなたがいなければ、僕はもうとっくにこの世に生きてはいなかったでしょうから。
そして、一つだけ、僕と約束をして欲しいのです。
どうしても助けがいるときには、僕を呼んでください。
僕の名を、僕の存在を、心から呼んでください。
その時、僕はなにがあっても、あなたを助けに行きます。
ツキト』
20歳、1度目の満月の日。
神殿での昼の祈りが終えると、神官たちは私を取り囲み、恭しく頭を下げるとこう言った。
「今まで、長きに亘るお勤めをありがとうございました」
長きに亘るお勤め――?
突然の彼らの言葉に呆気に取られる。
「本日で、聖女様のお役目はおしまいでございます」
「……聞いてないわ」
掠れた声で言う。
今日で、終わり?聖女ではなくなる?
これはどう言うことなのだろう。
「シャーリャン様からのお告げがございました。魔法球はすでに満たされております。あなた様の祈りはもう必要ないとのこと。聖女様には退任されたのち、ハーレィム公とご成婚頂き、次代の聖女を迎えるためのお子をお作り頂きます」
――結婚して次代の聖女を迎えるための子を作る?
何を言っているのかも分からない。
そんな馬鹿なと思いながらも、けれど彼らが冗談など言うはずがないことも知っていた。
「嫌よ!」
咄嗟に叫んでいた。
心のどこかでは、願っていたのだ。いつか聖女ではなくなったときには、あの人を探しに行けるのではないかと、自由になれるのではないかと。
まさか聖女を退任したあとに、それ以上のものを課せられるようになるのだとは思いもしていなかった。
「シャーリャン様のお言葉は私どもの全てでございます」
彼らのゆったりと語る言葉に、背筋が凍るように思う。
違う。
本能的に私はそれを理解する。この世界で一番に神に近い私ですら、神の声など聞いたことはない。彼らに聞こえるわけがないのだ!
前任の聖女も20歳で退任した。初めから決まっていたに違いない。
彼らは神を信仰している。
いや違う、信仰している集団に属している。
もはや彼らの神の声は、その集団の意思の言葉なのだ。
神殿に必要なものを、神の言葉を代弁するように語るだけ。
神を信じているようでいて、神の名を偽れるほど、神への信仰を無くしている。
こんな世界では、聖力が欠乏して当然なのではないか!
心に絶望が渦巻く。
私はこれまでの人生、こんな人たちのために尽くして来たのか。
「嫌よ……嘘よ、嫌ぁ!!」
「聖女様」
「私を自由にして、叶わないなら、永遠にここに閉じ込めて!神に祈るわ。力を分けてもらうわ。それが私に出来ることなのでしょう?ずっとそう言って来たでしょう?そのために、私を攫って来たのでしょう!?」
神官たちは困ったような顔で立ち尽くしている。
「何をおっしゃっているのですか」
「聖女様どうされたのですか?」
「そのようなことをおっしゃられるものではありません……」
誰一人責められていると言う表情すらしていない。
そのことに私の方が困惑する。
「私の両親はどこの誰なの?誰も答えられないでしょう?それはあなた達が、聖女の力を持った私を、どこか遠い場所から攫って来たからなのでしょう?だれも私に前任の聖女の話をしなかったわ。私を都合よく使い倒すつもりだったからでしょう?ねぇ、私は役にたったでしょう?私のおかげで、たくさんの魔法が使えて多くの人が救えたのでしょう?これからも役に立てるのよ。祈らせてくれてもいいじゃない?結婚?子供?なんの話?私は、なに一つ聞いていないのよ!」
すると、神官たちの奥から、高位の神官が前に出てくると言った。
「聖女様。聖女様のお力は20歳を過ぎますと、徐々に失われて行くのです。ですから我々は、力の無くなってしまった聖女の代わりに、次代のお子が必要なのでございます」
それは最初から最後まで、彼らの都合だけの話だった。
「……私は人間よ」
そんな風に扱われたことは、たぶん一度もなかったけれど。
「私は人間なの!両親の子供で、人を愛する自由がある、ただの一人の女なのよ……」
困ったような顔をするだけで、彼らには少しも言葉が届いている気がしない。彼らは顔を見合わせ合った後、私に向けて腕を伸ばしてくる。
「聖女様向こうで休まれましょう」
「いや、離して!」
「落ち着き下さいませ」
「いや!」
「皆、聖女様を押さえて」
「いやぁ!!」
体を何本もの腕に拘束されて、身動きが取れなくなる。私は、そのまま心まで捕らえられてしまうような恐怖に襲われる。
今までもこれからも、私には自由はかけらも与えられず、神のためという名目のために使い倒されるだけ――
「いやぁ!!月人……月人!助けて、お願い助けに来て……!!月人……っ」
狂ったように彼の名を呼んだ。
どこに住んでいるのかも分からない人。
本当の名前だって、顔すら分からない。
けれどこの5年、確かに私の心を救ってくれた人。
あの人がいるから祈ることが出来た。
だけどもう祈ることが出来ないのだと言う。聖女の力は失われてしまうのだと言う。誰だか分からぬ人と、子供を作らなければならないのだと言う。
「もうやだ……もう、頑張れない……。月人……会いたかった……」
涙がポトリと床に落ちた瞬間。
涙から光が生まれる。
小さな光の粒が段々と大きくなり、神殿を包み込んでいく。神官たちが呆然としている。
「なんだ?」
「光?」
「ああ、シャーリャン様!」
光に飲み込まれると目が開けていられなくなる。
きつく目を瞑り、光に耐える。
いつの間にか、神官たちが私を拘束する腕を離していた。
両手で瞼を覆い、影を作る。どれほどの時間が過ぎたのだろう。
「……だれだ?」
「神ではない……」
「黒髪……?」
神官たちのざわめきが広がり、そろりと目を開ける。もう、光は消えていた。
目の前にうずくまっているのは、一人の青年だった。
黒い髪に黒いシャツ、艶やかな黒髪がさらさらと風に揺れている。
「なんだ!?」
「何者だ!」
彼は動かない。体を押さえ、何かに耐えるようにしていた。
「取り押さえろ!」
神殿長の声が響くと、彼はゆっくりと立ち上がった。
長身の青年は、整った目鼻立ちをしていた。
彫りの深い顔立ちの、その美しい顔で、彼は真っ直ぐに私を見つめている。
「……聖女」
それは私の故郷の言葉。
私は心のどこかで、もしかして、と思う。
「迎えに来たよ」
形の良い唇がそう紡ぐ。
「……月人」
確信を持って彼の名を呼ぶ。
私に向けられる漆黒の瞳は、穏やかそうに見えながらもどこか寂しそう。心の中で想像していた彼にそっくりだと思う。
私と彼の『神の言葉』の交わし合いに、神官たちが慌てる。
「お前はまさか10年前の」
「ああ似ている」
「不吉な子供!」
10年前?
私がここに連れてこられたのは10年前だ。
月人は彼らを一瞥してから顔を伏せ、肩を揺すって笑い出した。
「……ハハッ……ハハハハハハッ!!」
彼は人が変わったように、醜く歪んだ笑みを浮かべると、豪快に笑い出した。
「あははは!!ああ……おかしい!!」
狂人のように彼は語る。
「聖女の祈りを、10年!受け取り続けた!凄まじい魔力量になったよ。まさかこんなに力を抱えられるとは思いもしていなかった。ああ、この世界から追い出されて本当に良かったと思ってる。今なら、お前たち全てを殺すことが出来る!何て愉快なんだ!!」
彼の言葉に神官たちが困惑している。
「お前たちは俺を覚えていたのか?なのに、返還の儀は行わなかったのだろう?いいや、いいんだ、聞くまでも無い。廃れた儀式だ。聞いているよ。以前の、聖女の末裔からな」
「まさか……」
「生きていたことなど一度もないと……」
「我々は神のお言葉どおりに……」
ざわめき出す神官を、彼は一喝した。
「黙れ!!」
彼の言葉とともに、空気がどろりと暗くなる。
魔法だろうか。世界が闇に包まれるように感じる。
「なぜ俺が魔法を使えるのか不思議そうだな。教えてないものな、歴代の聖女にも、その子にも、その使い方を!使えるのに、教えなかった。……なぜだ?」
月人はその視線を神官たちの後ろに向ける。
「神殿長。久しぶりだな」
「……お久しぶりですございます。ツキト様」
彼の前に、神殿長が歩み寄る。
不機嫌そうな月人の睨みに、神殿長は礼を取ると言った。
「ご存命、心から嬉しゅうございます」
「どの口がそう語るのか。お前は殺されたいのか?」
またどろりと空気が暗くなり、神官たちが悲鳴を上げる。
「なぜ俺が生きてると思う?育ての親は誰だと思う?お前たちの捨てた、聖女の末裔だよ」
「……まさか」
「そのまさかだ。彼は生きていた。聖女の血を引きながらも、魔法の使い方を知る者。そして捨てられた者。俺に全てを教えてくれた者。今の俺の魔力ならば、ここにいる全員を殺すことも可能なんだ。分かるよね。神の力を感じ取れるはずの君たちならば、この力を感じられるよね?俺は君たちに人間扱いされなかったから、当たり前だけど君たちのことも人間には思えないんだ。この場の人間をぺちゃんこにしても、蟻を捻り潰すくらいの罪悪感は感じるかもしれないけど、その程度なんだ」
「そのようなことをおっしゃるのはおやめください。ツキト様」
神殿長のその口ぶりは、さっき私を諌めたときと同じ種類のものに思えた。責められることへの罪悪感などなく、清く正しい大人が子供を嗜めるような口調だ。
月人は片手を上げると、神殿長の前にかざす。
「死ぬか?」
彼の台詞とともに神殿長が床に倒れ込む。
「ぐはっぐはっ……!!」
「神殿長……!!」
「神殿長!」
喉元を押さえ、呼吸が出来なくなっているであろう神殿長は、苦しさに床をのたうち回っている。
「こいつはもういい。神官長」
「……は、はい」
「無垢な聖女様に、ご説明差し上げて?彼女は何も知らないんだ。だって当然だろう?君たちが何も伝えていなかったのだから」
「そのようなこと」
「……なんだ?」
月人が神官長に腕をかざす。
「ひぃ!」
「早く、説明しろ」
神官長はあたふたと慌てるようにしてから私に向き直った。
「わ、私どもが返還の儀を行わなかったのは……」
「違う」
月人が言葉を遮る。
「え?」
「もっと前からだ」
「前というと……」
「召喚の儀の話からだ」
――召喚の儀。
それは初めて聞く言葉だったけれど、神官たちの表情から、彼らが皆知っているものだと分かる。
「しょ、召喚の儀は今から10年前、ツキト様が10歳、聖女様が9歳のお年に行われました。前の聖女様のお子であるツキト様と引き換えに、神の国から聖女様をお迎えするための儀式でございます」
私とツキトを引き換えるための、儀式――?
今から10年前に行われたのは、別の世界から『聖女を召喚する』ための儀式だ。
しかし正確に言うならば、話は32年前に前任の聖女が召喚された時まで遡る。
世界から聖力が衰え始め、数百年ぶりに『聖女』を呼ぶことになったのだ。
欠けた聖力は、もうこの世界だけでは補えない。
ならば、余るほど聖力のある世界から引き寄せればいいのだと、それが、聖女召喚の発端だったのだ。
かつて落ち人が居た。異世界からの訪問者。
彼女は無限な聖力をこの世界にもたらし、世界に繁栄を与えた。
人々は彼女の功績を讃え、また月の使者として神を敬った。
けれど年月は人にそれを忘れさせる。
神への信仰が薄れ行く世界から、魔法の力の根源が失われていき、聖女そのものを魔力を補うための手段とした。
それがおそらく、間違いのはじまりだ。
かつて落ち人である聖女が、自らの力で元の世界に戻れた者がいた。その時の手段は、かつての世界の自分の持ち物と、自分自身を引き換えにするというものだった。
彼女は元の世界で、抱き枕と呼ばれる大きな枕を抱え毎晩眠っていたのだと言う。その枕と交換で、自分自身を元の世界に戻してもらえるように神に祈った。
その願いは叶えられた。
消えた聖女の代わりに、何かの人の形をした絵が描かれている抱き枕だけが残っていたと言う。
そして歴史の中で幾度も聖女召喚は行われる。
32年前の聖女召喚の儀式。
長く儀式はしていなかったけれど、神殿の者たちは長い歴史から知っていた。何かと交換されるのであれば、聖女を召喚することが出来るのだと。
聖女の血を引く末裔と引き換えに、新たな聖女を呼び出したのだ。末裔の子は当時12歳。何も持たされずに異世界に飛ばされた。
そして呼ばれた聖女は、月人の母。
彼女は当時10歳。20歳まで聖女をこなし、結婚させられ子供を産んだ。
そして月人が10歳の年。
新たな『聖女召喚の儀式』が行われた。聖女の子ツキトの体と引き換えに、聖女を呼び寄せるために。
「……なぜ返還の儀をしなかった」
「ひっ」
月人が腕を一振りすると、暗闇が落ちていくように、神官たちがバタバタと床に倒れて行く。苦しそうに体を押さえながらうめく。
「都合の悪いことを、何一つ話そうとしない。何も悪いことなど知らないような顔をして、大事な話を偽り続ける。それがお前たちだ」
月人が冷酷な表情を彼らに向けると、神官長の声が響く。
「私たちは何も悪いことなど!神に背くことなどしておりません!」
「……聖女」
月人のまなざしが私に向けられる。
「お前は、記憶を失ったことに疑問を感じていなかったか?」
「……え?」
「不自然なほどに、故郷の記憶を思い出せなくなっただろう?」
そう言われてみると、その通りだ。
幼いときに寂しくて泣き続けていたら、ある日高熱を出し寝込んでから思い出せなくなったのだ。
「こいつらがしたんだ」
「え……」
「魔法だ。頭をいじる。聖女が導いてくれた聖力を使い、こいつらはお前の記憶を消した」
「……」
私の記憶は、意図的に消されていた――?
まさか、と思いながらも、それを否定できるものはなにもないように思えた。
「……パパとママのことを忘れさせた……?」
「そうだろう?神官長」
振り向くと、顔を青くさせ喚いている。
「私は知らない!当時のことなど、私は関係がない」
「……」
別の世界から連れ去られ、無理やり家族のことを忘れさせられ、この世界のために働かせられた。そして婚姻をさせられそうになっていた――?
「あなたの充たした聖力は碌なことには使われていない。多額の金を寄付させるために、貴族たちのちょっとした傷を癒すために使われるくらいだ。なあそうだろう?神官長」
「ひい」
怯えるだけで何も答えない彼の様子が、その答えに思えた。
他の神官たちを見つめても、自分たちには関係がないように視線を逸らせる。
ここにいる人たちは、誰も、何も、悪行を犯した自覚すら持っていない。
「私」
「……ああ」
「私は、何のために生きていたの……?」
私の祈りで分け与えられた力で、私は1番大事な記憶を消されてしまっていた。
私が祈りつづけた年月、この人たちは、私を不幸にすることしかしてこなかった。
そして、役立てると思っていたわたしの役割は、想像とはまるで違うものとして使われていたと言う。
「私は……私は……!!」
ぼろぼろと涙をこぼす。
馬鹿みたいではないか。まるで都合の良い操り人形だ。なのに、ここの誰もが操り人形のようだ。意思を持って私を攫ったのですらない。
神の意思を、神殿の意思を、集団の意思を、彼らは遂行して来ただけ。
そんな愚かなものに踊らされ、逃げる場所などどこにも無く、いつしか私は考えることを放棄し、彼らの思惑通りに祈りを捧げようとしていた。
私は、吐き気がするほど、愚かだった。
「……聖女」
気遣わしげな月人の声が響く。
「聖女」
彼の声は心に沁み入るように静かに聴こえてくる。
「誰が許せない」
「え……?」
「記憶を消したのは、誰だ?」
「……」
「神官長か?神殿長か?責任者だけじゃないだろう。悪気もなくお前を虐げて来た、この世界で神を崇める者全てが憎いだろう?生きている限り、許せることなどないだろう?」
月人は醜く歪んだ顔で、笑う。
「誰を殺す?」
楽しそうに言う。
「罪には罰を。いくらでもそれを返せる力を、俺はあなたから受け取って来た。清らかな力で、汚物のような奴らを洗い流せるんだ。それこそが神に仕えるやつらに相応しい最期だろう?」
神官たちのざわめきと、悲鳴が聞こえる。
「わ、私たちは何も……」
「なぜ神の意思を信じない」
「やはり悪魔の子だったのか!」
罪には罰を――。
受けるに相応しい人たちの言葉が飛び交っている。
どう罰を与えたら、楽になれるの?
記憶を消され、彼らに連れ去られ監禁されるように過ごした幼少期の苦しみを、私は誰に償って貰えばいい……?
……否。
この人たちを全て殺しても、異世界に送っても、不幸な人生を歩ませても……きっと楽にはならない。幸せにもなれない。
ならどうしたら?
「どうしたら、いいの」
「……」
「きっと、生きてる限り、ずっと苦しい」
記憶は無くならない。確かに歩んできてしまった惨めな私の人生は取り返しなど付かない。
「どうしたら……?」
私も彼らも死んで、そして、全てが無になったら――?そしたら楽になる?世界が滅びた瞬間、私は解放される……?
「聖女」
月人が私を呼ぶ。
そうだ。月人が残されるのだ。私と取り替えられて生きてきた彼が。
「持てる力の全てで、彼らの命を奪って還ろう」
「かえる……?」
「本当は、そもそも返還の儀というのがある」
「……返還?」
「聖女を元の世界に戻せるのだ」
聖女を戻せる儀式?
「召喚してしまったならば、交換で送り込んだ俺と、あなたを引き換える儀式をすれば良いだけだったんだ」
私は月人と引き換えに戻れた――?
「昔は返還の儀が行われていた。けれど、返還の儀を行っても、帰れる者がほとんどいなかったんだ。丁重に生かされる聖女と違い、異世界に放り出される孤児など生き延びられない。戦や饑餓の時代なら数年すら生きられない。平和な国や時代があったとしても、俺ですら何度も死にかけてる。そして心が病む。……無理なんだ、生きながらえるなんて。そして、返還の儀そのものを、意味のないものとして行わなくなった」
「……月人」
私は顔を上げて彼を見つめる。
彼が困難な人生を歩んできたことを知っている。
今生きてくれていることが、奇跡のようなことなのだと、改めて思い出す。
「生きていてくれてありがとう……月人」
「……」
「神に感謝を……ああ、もう、神に祈る必要はないのに……」
瞳からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
月人からは困惑したようなまなざしを向けられる。
けれど心から感謝している。
彼の手紙は私を救ってくれた。
それを、静かに、思い出して行く。
彼の人生の困難を僅かながらに聞かせてもらっている。彼がひたむきに生き延びてくれたおかげで、私は救われていたのだ。
みっともない私の人生で、ただ一つ、清らかな光のようだった人。
「無事で……良かった」
彼が、生きていける世界を。
苦しんだ彼が、私を助けてくれた唯一の人が、せめて楽になるような罰を――彼らに。
彼は考えるようにわたしを見つめてから、小さくため息をついた。
そして困ったような瞳を私に向ける。
まるで普通の……青年のようだ。生きている月人。やっと会えた人。5年、私を励まし続けてくれた彼は今ここにいる。
嬉しくて、何故だか悲しくて、そして胸がズキリと痛む。
彼は、私と交換で違う世界に放り込まれた人だった。
初めから、私の存在を知っていたのだ。つまり彼の手紙は偽りに満ちていたのだ。
聖女の姿が瞼に映ると語っていたり、私の姿で元気がもらえると言っていた、あの手紙は、彼の本心ではなかった。
だけど……それでも構わない。彼の境遇を考えれば当然だ。なのに悲しい。心が破れそうに痛い。私は痛む胸を抱えながら、彼に伝えなくてはならない。
「私は、私の中の神様に、あなたのために祈るわ」
偽りだらけの人生で、たった一つ、私のものだと思えるもの。それは私の心だ。
「助けに来てくれてありがとう……」
たとえ来てくれた彼の本意が、この世界に戻ることだけなのだとしても、来てくれたことには変わらない。
「全部話してくれていても良かったの。知った今も変わらず、私はあなたのために祈ります。あなたが、幸せであるように。聖女の力が無くなってもずっと……私を救ってくれたあなたの幸せを願い続けます」
偽りの言葉で騙さなくとも、私は知らぬ世界に一人きりの彼のために心から祈っただろう。彼の願いがこの世界に戻ることなのだとしたら、どんな協力も惜しまなかっただろう。
胸が痛いのは、私の弱さだ。
私は、偽りの月人から寄せられる純粋な好意のようなものに、期待していたのだ。
言葉以上のものを欲して、私の欠けた心を満たしてほしいと、飽くことなく求めたのだ。なんて恥ずかしいんだろう。
ああ、そうだ、彼はこれからどうするのだろう。
彼を捨てた、この神殿に、復讐するのだろうか。
復讐――。
月人の言葉を思い出す『死にたいのか?』
彼は、殺したいのかも知れない。
どうしたら、私は彼の力になれるのだろう。
私に出来ることはあるのだろうか。
すると彼は真っ直ぐに私を見つめていた。
「……聖女」
「はい」
彼の呼び掛けに応える。
「世界を捨てよう。そしてあなたの名前を、探しに行こう」
彼は、予想もしない言葉を発した。
「紫陽花の咲く家を探そう。きっと、焼きたてのメロンパンが美味しい店が近くにある」
そう言うと、彼は私に小さな紙袋を手渡した。
「初めて行列に並んだ。一つ食べたが……まぁ美味しかったと思う」
紙袋を開けると、黄色のふっくらしたパンが一つ入っている。
「……」
「それが、メロンパンだ」
手に取ると思い出していく。
消されていたはずの記憶。ママの買ってくれたメロンパン。無邪気な子供時代の楽しい気持ち。
涙がボロボロとこぼれ落ちていく。
「……ふっ……ぅっ」
「……おいしいぞ」
そう言われても、今は胃が締め付けられるようで、食べられる気がしない。袋に仕舞い込み、大事に胸に抱える。
「パパ……ママ……」
「大丈夫だ。俺がいる。必ず、連れ帰り、思い出させる。俺の出来る限りのことをする」
「……あなたが?」
「そうだ」
漆黒の瞳は、揺るぎなく私を見つめている。
「俺はあなたに、決して嘘はつかない」
「……」
嘘はつかない……?
そんなはずはない、そう思いながらも、言葉を選ぶ。
「……この世界に戻ってきたのではないの?」
「まさか」
彼は笑う。
「10年前なら確かに、俺はこの世界に恨みしか抱いていなかった。復讐することしか考えていなかったと思う」
だけど、と彼は続ける。
「この世界になど、とうに未練はない。断ち切れたのはあなたのおかげだ。交わす言葉の一つ一つが、あなたからの変わらぬ清らかな心を受け取る年月が、俺を変えた。世界を妬み、激しい憎しみを持つ俺の心を、あなたが変えた」
彼は皮肉げに笑い、言う。
「あなたの手紙に、嘘偽りなど、どこにもなかった。本心から、俺の幸福を願う心を受け取っていた。俺は――あなたの前では自分を恥じるばかりだった。醜く、幼く、自分のことしか考えていない……あなたとはまるで違う」
醜いのだと語る彼の姿は、私を救ってくれた、懸命に生きていた一人の心の清らかな青年の姿にしか思えなかった。
月人は少しだけ泣きそうな表情をして言った。
「あなたがこの手を取るのなら、俺があなたを連れて行く。あなたの名前を探そう。どうかこの手を取って欲しい」
彼はそっと私に片手を差し出す。
それはまるで、私が心の底から望んでいた願望のような台詞だった。
私の心の底からの願い。
ずっと、一人きりで生きているようなこの世界で、私は彼の存在に満たされていた。
「私は……」
私の台詞に彼は不思議そうな顔をする。
「私は、ずっとあなたの幸せを願って来ました」
「……」
思い出せて良かった。
彼の幸せを願う時、私は心から幸福な気持ちになれた。忘れてはいけない。偽りの生活の中で、確かにあった変わらないもの。
辛くとも、苦しくとも、きっとこれからも変わらない。
彼は少し戸惑うような表情をする。
「私はこの手を取りたい」
心からの本心を伝える。
「けれど……」
心には罪悪感のようなものが湧き上がる。
「私がこの手を取ったとき、あなたは幸せでいられますか?」
私にはそれが分からない。
「必死に生きてきているあなたの姿を垣間見ていました。知らない場所に飛ばされて、きっとたくさんの困難があったことでしょう。だけどあなたの言葉はいつも誠実で、私の心はあなたの手紙を受け取るたびに洗われる気持ちになりました。あなたは、私の人生で、ただ一人、私を救ってくれた人です。私は、これ以上あなたの重荷になりたくない。あなたの人生が聖女である私のために苦労することになったのだとしたら、私のことは捨て置いて欲しいのです。私は、あなたに幸せになってもらいたい。これからも、ずっと」
すると彼は、するりと私の手を握った。
「聖女」
「はい」
「俺は……あなたとともにいられるのならば、この世界で一番の幸せな男になれる」
言葉を心の中で噛み砕くと、手のひらに、温かな感触を感じる。
「月人」
「……うん」
「ずっと、逢いたかった」
「俺もだ……」
目の前にいるのは、会ったばかりのはずの人。
だけど、その言葉を信じられる気がする。
「私は、あなたが居てくれればそれでいい」
「……」
「あなたの望むように。月人。あなたの決断が、私の望み」
月人は少し考えるようにしてから手を離すと、神殿長の元に歩いていく。
「あの日、あの場の責任者であったお前には、この場で借りを返してもらう」
床に倒れ伏したままの神殿長の前に月人は跪くと、彼に手を触れた。
すると光が溢れ、その光は神殿長を包み込むと、次第に月人の中に消えて行った。神殿長の体がピクピクと痙攣している。
「命の灯をわずかに残し貰った。ここに来るだけで、俺の命が消えかけていたからな」
「え……」
月人が顔を上げて言う。
「この世界と違い、向こうで魔法を使うのは命を削るんだ」
「……」
「しかし、足りない……」
月人は立ち上がると神官たちに向かい腕を上げ、見回すようにして言った。
「神に仕えながら、神に仕えていないすべての者から、俺へ、その命の光を」
途端に、彼らは悲鳴を上げながら床をのたうち回るように苦しみ出した。
「……つ、月人」
「大丈夫、殺さない。……彼らがしたことの代償だよ」
哀しげな瞳で、月人は彼らを見つめている。
「時限爆弾を、残していく」
月人は静かな声で語る。
「今度は、時空の穴を埋めることの代償だ。不自然に空いた穴を塞ぐために、これから発生する聖力も注ぎ込まれ続けるよう、魔法を構築して行く。聖力が足りないものからは、お前たちの命の力そのものが注ぎ込まれるように」
そして綺麗な笑顔で笑った。
「神に祈る心が試される時だ。真に神に祈れる者ならば、命の力まで取られないだろう。心清い者だけ生き残る世界など……もう、国として成り立つのか分からないが」
だけど、と月人は続ける。
「歪みの中に、一人落とされた俺だけが、この穴を塞ぐ権利と力を持っている。俺をこうしたのは、お前たちと、この世界だ」
暗い表情を作る彼の手をそっと握ると、月人は穏やかな表情で私を見つめ微笑んだ。
「俺の手は穢れている」
「……」
「それでも、来てくれるのか?」
「月人……」
一人穢れたのだと彼は語る。けれど、これはまるで、私の為に行ってくれたことのようではないかと思う。
神を信じぬ者たちと、この世界に足りぬという魔法の力が、私の人生をねじ曲げ苦しめた。
ここで生きてきた私には分かる。
きっと彼らは長くは生きられない。
神を信じているふりをした彼らは、きっと、神に守られていることを信じていただけなのだ。守ってくれるものがいないと知った世界で、自分自身に向き合えるはずのその機会に、きっと己の弱い心に押しつぶされてしまうだろう。
すました表情を浮かべていたその顔を、恐怖に歪ませながら、私と同じ憎しみを知るのかも知れない。
けれどそれでも、本来彼らが抱えるべきものを返すだけなのだ。
なのに、彼は一人で抱えようとする。
優しいのだ。
この世界の結末を、残酷さに慣れている私は、彼よりもずっと受け入れている。
月人に顔を近付けて、あなたは私の世界で一番綺麗よ、そう言うと彼は笑った。
「聖なる女の力を溜め込んだ俺の全てを使い、魔法球を解放せよ。この世界の聖力の全てを使い、俺と彼女を、もう一つの世界へ導け」
「そして、世界を閉じよ。穴を塞げ。残る聖力の全てを使い、二度と、開かぬように」
月人の低い声が響く。
「ないんだ。初めから。この世界に聖力など残されていなかった。なくなることを受け入れぬお前たちがただ歪みを作った。閉じた世界でせいぜいもがけばいい。いつか歪みが塞がるまで生き延びてみろ。俺たちは、もう――」
お前たちには囚われない、月人が小さな声で言った。
視界が歪む。
神官たちの姿が薄れて消えて行く。
私は、私の世界の全てだと思っていた場所から『消えて』行く――。
月人は世馴れた青年だった。
何も分からない私の世話をしてくれ、ゆっくりと世界を教えてくれた。私は世界と同じだけ、彼を知って行く。
門の前に紫陽花の低木が植えられた一軒家にたどり着いたのは、ひらひらとした雪の舞い降りる寒い日だった。
この家で待っていたのだと、年齢よりも老いて見える両親は泣きながら私を抱きしめてくれた。
月人の大学の卒業まで、私たちは離れて暮らした。私は私を取り戻す。好きだった漫画、大好きだった友達、優しい両親。やんちゃな弟。もう、形はだいぶ変わってしまったけれど、だけど確実にここにあった。
忘れていた、私が私でいられたときの心。失ったものは二度と戻らない、夢にうなされる日々も無くならない。けれどそんな私の心を動かすほどの、奇跡のように幸福な想いは、きっとこれからも湧いてくる。私が私である限り、私が、世界で一番美しいと感じたものを忘れない限り、誰かの優しさを感じられる限り、助け合いながら生きていることを忘れない限り……。
「月が、綺麗ですね」
高層ビルに囲まれたその場所は、夜空も明るい。
星はあまり見えないけれど満月は美しく私たちを照らしてくれていた。
「うん、そうだね」
かつては神の宿る月を、世界で一番の美しいものなのだと思っていたこともあったけれど、今は月ではなく、人の心の中に見え隠れするそれにこそ、美しさを感じている気がする。
穢れた心も清い心も、同じだけある人の心。
移ろいやすく、永劫に変わらぬ心を信じることなど愚かしい。
だから私は私の心に祈る。
自分を見失わないように。大切な人の幸せを願えるように。
どこに生きても、人の営みは変わらない。
私はまた、何かに飲まれるように私を見失うかもしれない。見失わなくとも、残酷な何かを選び取るかもしれない。
その可能性を、忘れない。
私はやっと少しの自由を手に入れただけの、ちっぽけな人間なのだから。
彼は少し照れたように笑った。
「えーとね」
「うん」
「この世界の文豪が言ったと言われている台詞があってね」
「うん?」
「言葉そのものの意味じゃなくて」
「……?」
「ダメだ。説明するのは恥ずかしいな」
恋人は私を後ろから抱きしめながら、少しだけ赤くなった顔を隠すようにして言った。
「美雨」
「うん」
「台詞の意味はね……」
「うん」
今夜も、月が私たちを照らしている。
END
(*月人side&その後も載せる予定です)
感想を教えて頂けると嬉しいです。
作者は敬語に自信がありません……誤字報告をお待ちしてます。
10/22 追記
終盤を3500字ほど増やしました。まだ二、三日悩んで改稿してるかも知れません。