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体調が少しずつ良くになるにつれ、あの人、婚約者であるアシュナード様が頻繁にお見舞いや贈り物を送ってくる様になった。この感覚は何だろう。アシュナード様が花束やお菓子、ドレスやアクセサリー等を贈られる度にドロドロとした気持ちと泣きたい気持ちが溢れてくる。
戸惑う私にアシュナード様が私が記憶喪失になる前の仕打ちの数々を打ち明け謝罪なされた。でも、謝罪をされても、『今』の私には分からない。他人事のような感じしかしないのだ。ああ、さぞや社交界で周りに馬鹿にされていただろうな、としか思えない。何故『リリィ』はそれに耐えていたのだろう。
今日もアシュナード様はお見舞いに来た。誰かに殴られたのだろうか、綺麗な顔に青痣を作っている。大方、お兄様にでも殴られたのだろう。アシュナード様が来る度にお兄様は怒鳴り声を上げ帰そうとしているのは知っている。
「リリィ……調子はどうだい?今日は君が昔好きだったアレンの実を持って来たんだ」
「アシュナード様、申し訳ありません。私……アレンの実が嫌いなんです。昔はよく食べていた記憶はあるのですが、この間出された時もどしてしまって……」
「……そうか。それじゃあ、これは使用人に渡すとしよう」
「アシュナード様、罪の意識でこんな事しなくても良いのですよ?私はもう貴方が知ってる『リリィ』では無いのですから。きっと貴方が知っている『リリィ』は死んだのです」
好きだった食べ物、花、本、どれも此れもアシュナード様が私の中から消えてから嗜好が変わってしまった。
「……すまない」
「『私』に謝られても。貴方が贖罪したいのは死んだ『リリィ』なのですから」
どうして『リリィ』はこの方に執着したのだろう。アシュナード様から聞いた限りの仕打ちを聞いて、何故それでも婚約破棄もせずに我慢していたのだろう。両親や兄に嘘をついてでも婚約破棄をしなかった理由が分からない。
(どうか、貴方の記憶の中で色鮮やかに眠らせてください)
何処からか声が聞こえてくる。
頭痛がする。思い出してはいけないような気がして思考を止める。ドロドロとした仄暗い感情が心を占めるからだ。この感情は誰のものだ。
「……今のリリィ、リリーナは何が好きなんだい?」
「それを聞いてどうなさるのです?でも、そうですね……『リリィ』の話で貴方の顔が歪む瞬間が好きです。ふふっ、変でしょう?」
自分でも歪んでおかしい嗜好だと思う。アシュナード様が『リリィ』の話をし、私を通して『リリィ』を見て、綺麗な顔が歪んでいく瞬間が何故か嬉しいのだ。
この感情は『リリィ』が器に過ぎないこの体に残したモノだろう。大概吐き気がする感情だ。
「アシュナード様は何故今更になって『リリィ』に執着するのですか?自己満足の罪悪?それとも贖罪?なら、婚約破棄しても結構ですよ?」
ああ、また綺麗な顔が泣きそうに歪む。気持ち悪くて、嬉しい、愛しい。
(もっと私を見て)
また何処から声が聞こえてくる。
「それは……出来ない。みっともないだろう?君を諦めきれず縋る私は」
「ええ、本当にみっともない」
そう言いながら仄暗い笑みを浮かべる私は誰なのだろう。ああ、やはり『リリィ』は生きている。歪んだ形で確かに私の中で生きているのだ。ならば。
「アシュナード様、賭けをしましょう?」
「賭け?」
「先程『リリィ』は死んだと言いましたが、訂正しましょう。彼女はまだ確かに私の中で生きてます。だから賭けをしましょう?ええ、貴方が『リリィ』を取り戻せるかどうか。期限は一年、取り戻せなかったら婚約破棄というのはどうでしょう?」
「……分かった。その賭けに乗ろう」
ああ、その一筋に光る希望に縋る姿を絶望で彩りたい。もしも、歪んでしまった『リリィ』を取り戻したらアシュナード様は絶望するのか、それともアシュナード様も歪んだ形になるのか。一緒に堕ちてくださるかしら?考えるだけで楽しくて仕方ない。
また、鼓動が高鳴る。何が正しいのかなんて分からないけど、『リリィ』の心はまだここにある。強がって、傷ついて、逃げて、捨てようとして、歪んでしまっても、それでも砕けない彼女の心。その感情に名前をつけるとしたら何と付ければいいのか。私には分からない。
さあ、観客席には私独り。馬鹿らしい物語の幕が上がる。
貴方が囁くのは本当の心か、偽りの言葉か。
『リリィ』が囁くのは偽りの言葉か、本当の心か。
形の無いモノばかりの中で『私』が信じるのはどちら?
もう幕は上がってしまった。