プロローグ
悲鳴が聞こえる。怒号と断末魔が広がる。砂塵が舞い、視界が塞がれる。無尽蔵に駆け回る戦場の最中で、頭が真っ白になっていく。
バシャ、と赤が地に飛び散った。
死肉の臭いが鼻にこびり付く。どれだけ剣を振り回しても、どれだけ魔法を駆使しても、
赤が、赤が、赤が、積もっていく。
目の前に広がる光景が、ただ遠く離れた夢のように感じられた。あぁ、夢なら早く覚めてくれ、とそう願っても映る景色は変わらない。
人が、人が、人が人が人が人が、山のように積み重なっていた。誰も彼もが呼吸を止めて開ききった眼で俺を見つめていた。
「た………けて……」
か細い声が聞こえる。振り向くと、小さな手のひらが此方へ伸ばされていた。虚ろな瞳で伸ばす指先は真っ白で、小さな唇からは夥しい赤が溢れ出て、必死に生きようとゆっくり体を引きずりもがいている。
「たす、け…て……いたい、よぉ……」
大きな眼からボロボロと雫が溢れ、俺に、助けを乞うていた。
荒くなる呼吸が苦しくて、気を抜けば見も蓋も無く泣き喚いてしまいそうで、細い腕を伸ばして救いを求めるその手を取ろうと、
俺も腕を伸ばした。
「ハジメーーー!!!!おっきろぉーーーー!!!!」
「ぐぇっ…」
どすん、と音を立てて腹に衝撃が襲いかかる。古いベッドがぎし、と嫌な音を立て、後一つでも重りが乗れば脆い木板は崩れてしまうだろうと容易に想像できる。
薄く目を開けて見ると、ニカッと歯を見せて笑う子供がいて、その後ろには同じような笑みを浮かべる子らが俺の顔を覗きこんでいた。
そして、その横で腕を振り回してもジャンプする準備を始めるやつらを見つけて慌てて重たい体を起こす。
「待て待て待て!!ベッド壊す気か!」
「壊しても直すのハジメだから大丈夫!」
「俺が大丈夫じゃないだろ!」
尚もベッドを揺らして刺激するワルガキを押さえつけ、キャーキャーと楽しげな声を上げる子供らを牽制する。
が、時すでに遅し。勢いよく助走をつけて跳び跳ねてきたことにより、脆い木材はバキッと嫌な音を立てて憐れにもその支えを無くしたのである。
「あ、こらっ…ばか!ま、っ……あああぁぁあぁぁああああ!!!!!!!!!!!」
その大絶叫は朝日が輝く青空の中、村中に響き渡った。
「がっはははは!!そりゃ朝から災難だったなぁ!」
「笑い事じゃねーよこんちくしょー」
コンコン、と音を鳴らしながら崩れた足の部分を補強していく。その哀愁漂う背中をバシバシと力強く叩くのは村で一番老いた男、ハンジである。朝から響く絶叫を聞きつけ、慌ててやってきたものの事情を聞くと途端に大口を開けて笑い始める。その横では「ごめんなさーい!」と両手を合わせて許しを乞う原因の子供、カシューと苦笑いで修理を手伝ってくれる子供達の中で一番年長のテツがいた。
「カシューったら、止めといた方がいいって言ったのに」
「うぇーー、ごめーーん!」
「はいはい、わかったわかった」
大きなため息をつきながら、涙目になっているカシューの頭をかき回して怒っていないことを伝えると、カシューは途端にパァッと笑顔になった。その様子を見て、くす、とテツは笑みを浮かべる。
「で、トールはどこいった?」
「逃げたね」
にっこりと普段見ない笑顔で問い掛けてくるハジメへテツがそう返すと、ちっ、とかなりでかめの舌打ちが返ってきた。ハジメが起きる際に思いっきり腹の上へのし掛かったワルガキはいち早く逃げ出していたらしい。
今度顔見たらとっちめる、そう心に決めて作業を再開した。
「それにしても、ハジメ大丈夫?」
「何が」
無心で釘を打ち付けるハジメにおずおずと伺うようにカシューが聞いてくる。心当たりが全くなく首を傾げると、カシューは眉を下げて心配そうにハジメを見つめ返した。
「すごく、魘されてたから……」
す、とハジメは目を細める。開け放たれた窓から穏やかな風がふわり、と肌を撫でた。険しい顔でハジメを見つめるハンジに手を振り、カシューに向けて安心させるように笑って見せた。
「大丈夫だよ、心配すんな」
こつん、と額を指で突くと、「痛い」と抗議の声が上がったが、カシューの表情は朗らかなものだった。
3大国。この世界は三つの国に分かれて統治されている。
軍事力に優れたエゼル大国、豊富な土地に恵まれたユーラ大国、他2国と一切繋がりがなく、鎖国状態となっているアレスト大国。そして、その3大国から外れた場所にある魔物の国、マーラン。
かつて、大国と魔物の国は大きな戦争を繰り広げた。5年という月日を掛け、多大な犠牲を出したその戦争は3年前、大国の勝利という形で終わった。
しかし、戦後その被害は各地で様々な災害を巻き起こす。人手不足、飢饉、横暴な取り立て、奴隷商人の横行、その他にも決して表沙汰には出来ないような悪行が広がり、各国の治安は悪化を辿る一方だった。
3年という月日で何とか経済を回せる程度には立て直したようだが、それでも国の害意というのはなかなか取り除けるものではない。
この村、リマー村もその被害の一つである。戦争に必要な人材をかき集めるために村の若い男女は皆戦場へ赴き、村では老人と子供しかいない状況で作物も育たず、いつ魔物の襲来が来るかわからない日々に怯える毎日を繰り返していた。
そんなある日、村の入り口で行き倒れていた青年―ハジメ―を見つけ、数少ない食料を分け与えた。住み処を与え、衣服を整え、素性もわからない得体の知れない男を、それでも村人達は快く迎え入れた。
その日から、ハジメはこの村を守り続けている。
ブモォォッ
荒い鼻息と共に猪のような魔物が脇目も振らずに突っ込んでくる。その体躯はハジメの体の数倍近くあり、涎を垂らす口からは鋭く堅い牙がその体を貫こうとその切っ先を向ける。
ハジメは体勢を低くし、一気に地面を蹴った。突進してくる猪をものともせず相対し、右手に構えた剣を振りかぶる。
スパンッ
空気を切るような音と共に、猪の体は勢いを殺しきれないまま大木に突っ込んでいく。そして、勢いよく顔面をぶつけ、ズルズルと巨体を滑らせる。地に転がった猪は足から腹にかけて、鋭利な刃物で切り取られたかのように断面がよく見えるほど鮮やかに斬り落とされていた。
「ふぅ……今日は猪鍋かな」
息を吐いて、剣にこびりついた血を払い鞘に収めると、しっかりとした足取りで猪に近づく。びくびく、と痙攣する猪の牙と下半身の足をを掴み、その体躯の差をものともせずに引き摺っていく。
魔物との戦争でその数は減ったものの、魔物自体は今も世界に蔓延っている。知性のない魔物は人を襲い、凶暴化し、新たな餌を求めて近隣の村を襲う。人々を救うために、国に騎士隊と呼ばれる討伐隊はいるものの、滅多に国外へ出ることはないため、頼りにはならない。大国の外の人間は皆、これらの魔物を己らの力で仕留めるのである。
しかし、先の戦争により戦える若い男達がいなくなったことでリマー村の人間は魔物に対抗できなくなってしまったのである。そこで、村で唯一戦い方を知っているハジメが村外の魔物の駆除と食料の確保を行っている。最初こそ村の皆も止めていたものの、ハジメの実力と判断力を見てその一切を任せることにした。ハジメという男は、そこいらの魔物風情では太刀打ちできない実力を持っていたのだ。
剣の腕前、魔物が襲来したときの対策、そのための罠の作り方、避難指示、はたまた国の上級騎士が扱うレベルの魔法術の高さ。ただの村人とは思えないほどの強さを持ったハジメを、村の全ての人間が尊敬と感謝と信頼の感情を向けていた。
「風」
単純な単語と共にぶわり、と強風が流れる。それはハジメの体を浮き上がらせ、質量のある猪ごと空中へとその身を飛ばした。生い茂る木々を上空から眺め、村の位置を把握し、素早く先程とは少し離れた場所へ降り立つ。
重たい音と共に地面を擦り、地に足をつけると困ったように息を吐いた。
「大分遠いとこまできちゃったな…」
上空から確認した村の位置はここから全速力しても20分はかかるであろう場所にあった。獲物を深追いする余り、随分と森の奥深くまで来てしまっていたようだった。
仕方ないか、と腹をくくり重たい猪を引き摺って森の中をさ迷い歩く。木々の隙間から陽光が射し込み、鳥の鳴き声やさわさわと葉が揺れる音が心地よく響いた。その穏やかさに思わず笑みを浮かべる。
あぁ、今日も平和だ。
ハジメは変わらない日常を愛していた。
足を止める。ざわざわと騒ぎ始めるように強い風が隙間を縫ってハジメに振りかかった。揺れる黒髪をそのままに、ハジメは意識を集中して五感を研ぎ澄ませる。
音、匂い、気配。一つ足りとも逃さない。目で見える景色以外にも感じれる全てを使って、違和感の正体を掴む。
暫くして、ハジメは目的の方向から反れた方角へ歩き出す。その足取りは軽いものの、決して一ミリ足りとも隙はなかった。
ぱき、と小枝を踏みしめ、目線まである木の枝を掻き分けて、一歩ずつ進んでいく。
そして、それを見つけたハジメはふ、と息を呑み、目を見開いた。
それは少女だった。白い髪、白いワンピース、まるでお伽噺に出てくるお姫様のような。幻想的で、美しい、少女だった。