前編 黒いフードの男の子
あの家に近づいちゃいけませんよ。
あそこには、怖い子がいるんですから。
お母さんはいつも呪文のように言っていた。
五軒隣の赤い屋根の家には、近付かないようにって。
あそこには怖ーい殺人鬼がいて、またいつ癇癪を起こして人を殺すか分からないから、絶対に近付いちゃダメよって言われていた。
殺人鬼の目印は、顔に大きな二つの傷があるのと、右の頬に大きなカサブタがついていること。
その子を見かけたら、関わらないで逃げなさいと強く言い聞かせられていた。
そうは言っても、当時のわたしは周りに〝オオカミちゃん〟と呼ばれるほどのお転婆で、人の忠告なんて右から左へ流れるだけ。
「言ってはいけない」「やってはいけない」と言われるとやりたがるという、非常にやっかいな子供だった。
これだけ聞くと、ひざ小僧と鼻の頭に絆創膏を貼っているようなやんちゃ少年を思い浮かべるかもしれないけど、わたしはれっきとした女児だ。
お母さんは女子たれとスカートを穿かせるけれど、そんなもの気にせず木登りしてずり落ちるような、そんな女児なのである。
必然的にわたしは周りの女の子から浮いていて、男子とばかり遊んでいた。
日々名誉の勲章が増えていく足を憂いたお母さんは、ついにスカートを諦めズボンを穿かせるようになり、それに合わせた赤いパーカーも買ってくれた。
それはヒラヒラが襟に付いたブラウスよりも、ピンク色のスカートよりも、わたしの心を踊らせた。
──赤ずきんちゃんみたい!
唯一女の子らしい部分であった童話好きの影響で、そのパーカーは大のお気に入りとなった。
そのうち周りに「赤ずきんちゃん」と呼ばれるようになり、しかし赤ずきんちゃんほど大人しくはないので「オオカミちゃん」へと自然に変わっていった。
オオカミちゃん呼びが不満だったわたしは、次第にそのパーカーを着なくなっていた。それでも、周りはわたしをオオカミちゃんと呼ぶ。
童話の中では嫌われがちな存在。
一匹でも生きていける存在。
いつしかわたしは、「殺人鬼くん」に自分を重ねるようになっていた。
***
おとこおんな、いつもそう言われてなじられる。
男の子からは「女のくせにいつもズボンを穿いている」と言われ、女の子からは「オオカミちゃんは男の子と遊んだ方が楽しい」と思われ、遠巻きにされる。
どっちでもないのなら、わたしはどこに行けばいいんだろう。
わたしは、自分の居たい場所が分からない。
とぼとぼと歩く道すがら、公園を覗き込む。
ズボンを穿いた男の子と、スカートを穿いた女の子で分けられていた。
それがわたしには馬鹿みたいな光景に見えた。大人になったらズボンを穿いている女の人なんて、そこらじゅうにいるのに。
公園で遊ぶ気にもなれず、近所をうろちょろして冒険気分を味わう。その内に、いつの間にか登山道の入口にたどり着いていた。
山とは言っても、普段の服装で登っても何ら問題のない、子供の足でも楽々登れてしまう小さな山だ。何度か男友達と虫捕りに来たことがあるから、それは間違いない。
来た時は夏真っ盛りで蝉がジーワジーワと喧しかったけれど、冬の今はしんと静まり返っていた。青い葉を茂らせていた木々は枝を剥き出しにして、冬の冷気に寒々しく震えている。
わたしも同じく震えながら、マフラーを口元まで引き上げた。
こんな寒い日に、たった一人でこんな場所で、一体なにをやっているんだろう。
そう思ったが、公園で見た光景を思い出すと、もう一度あそこを通ろうという気は起きない。せめて一時間か二時間ぐらい、あわよくば夕方まで粘って、絶対に通る必要があるあの公園から人がいなくなるまで、暇を潰したい。
今考えれば普通に違う道を通れば良いのだが、幼い上に馬鹿なわたしは、その考えに至らなかった。
変に頑固なところも災いし、一人ぼっちのオオカミちゃんは山の頂上に続く階段を、一段、また一段と踏みしめて登っていったのだった。
どれぐらい登ったのだろう。
山のあちこちに生えている植物を眺めて歩いている内に、ふと開けた場所に出た。
以前の虫捕りの時には気付かなかったが、登山道から枝分かれした小道があり、そこを辿ってここへ出たようだ。
くすんだ色の木の小屋があり、傍に錆びが目立つ金属のベンチがある。
そのベンチの上には、黒いパーカーのフードを目深に被った、顔が窺えない怪しげな人物が座っていた。
口元はマスクをしており、ボロボロのジーパンを穿いている。(今ならダメージ加工のジーンズでお洒落なのだと分かるが、当時のわたしにはそんな事分からない)ジーパンには銀色の鎖が付けられていて、何だか怖い人という印象だった。
その怖い人は手元に何かを持って、カチャカチャやっている。
よく見れば、わたしが誕生日に買って貰ったゲーム機と同じ物だった。
最近の洒落たものではなく、通信対戦が初めて導入された頃の、古めかしい携帯型ゲーム機だ。
最新のゲーム機が欲しいとねだった後のプレゼントがこれだったので大泣きしたものだが、今となっては持ち歩いて遊ぶくらい気に入っている。友達と話が合わない原因にもなっていたと思うけど、元々一人遊びに慣れていたわたしは、あまり気にしていなかった。
興味を持って少し近付くと、ゲーム機から流れている音楽はわたしの知っているものだった。間違いない。つい数日前、お母さんに頼んで買って貰った、有名ゲームのBGMだ。
「あ、あの」
親近感が湧いたせいか、思わず声を掛けてしまった。
相手は顔を上げず、ひたすら画面を見てカチャカチャやっている。ピコピコピローンとコインを取った音が鳴りつづけている。
声が小さくて聞こえなかったのだろうか。
イヤホンをしている訳ではないから、聞こえていると思うんだけど。
「あの! そこの黒いパーカーの人!」
少し大きめに叫ぶと、手がぴたりと止まった。テロテロテローンという落下音が聞こえて、少し申し訳なくなる。
相手はやっと顔を上げてこちらを見た。
「……なに」
酷くぶっきらぼうな返答だった。声変わりしかけているのか、声が若干枯れている。
わたしは相手の態度にも怯まず、こう言った。
「一緒に遊ばない?」
「やだ」
とても短いけれど、絶対的な拒絶の言葉だった。
「なんで!」
「あんたが誰か知らない」
もっともな反応だ。
わたしは大袈裟に溜息をつくと、鞄の名前欄を相手に見えるように掲げた。
「ふみのまつり! 桃園幼稚園の年長! 趣味は絵本とゲーム!」
「ふーん。そう」
言うが早いか、またピコピコやりだした。すごく頭にくる反応だ。
「わたしのこと教えたんだから、あんたのことも教えてよ!」
「なんで?」
「わたしが知りたいから!」
そう答えると、また手が止まった。再度聞こえる落下音と、ゲームオーバーを知らせる物悲しい音楽。
怒ったのか、相手はこちらをジロリと睨みつけてくる。
「……俺は、こうだゆうり。知ってるだろ? ここらじゃ有名人だしな。子供も大人も怖がって近付かない、怖い怖~い殺人鬼だよ」
ゆうりと名乗った男の子は、パーカーのフードを下ろした。
目の下と左頬に、大きな傷がある。何より目立つのは、右頬のカサブタ。変色してピンクっぽい茶色になっているその部分は、見た目にも分かるぐらいざらざらとしていて、まるで違う生物の皮膚を移植したようだった。
相手があの有名な、お母さんに近付くなと言われ続けていた殺人鬼であると知って、わたしの体は反射的に強張った。スニーカーの下の砂利が音を立てる。
ゆうり君はまた興味を失ったようにフードを戻し、画面に視線を落とした。
それが何だか悲しいことのように思えて、わたしは何も考えないまま口を開いた。