(7)
自分のアパートに帰ってきたナターシャは、部屋に入ってぎょっとした。部屋の明かりがついていないものだから、てっきりシセルは寝ているのだと思っていたら、ぼんやりとした表情で、佇んでいたのだ。
「な……何だ、起きてたのかい」
「……。お疲れ様です、ナターシャさん」
ナターシャは、ふと溜息をついた。そして、鞄を置いて、コートをかけながらシセルに言う。
「……なあ、私のことは、エリスと呼んでもらえないか」
「……どうして」
「普段その名前で通しているからね、もしあんたがうっかり人前でそう私を呼んだらおかしいだろう。それにもう、ずっとその名前で呼ばれていなかったんだし――」
「だって、そっちが本当の名前なんでしょう!」
ナターシャは驚いた。シセルが、自分に反発するなんて、初めてのことだったからだ。
「もう捨てたんですか、向こうの世界のことは……」
「……シセル」
ナターシャが黙っていると、すみません、とシセルは謝った。いや、とナターシャは首を振った。その気持ちが理解できないわけではない。
「……分かってます。分かってます……この世界には魔法がない……だから、向こうの世界に行く方法はない……」
吐き出すように、シセルは頭を抱えた。
「帰りたいかい、自分の世界に」
ナターシャは、優しい声で聞いた。シセルは、そのまま、首を振った。だが、それは、否定の意味ではない。
どうしようもない、帰れない、と。
帰りたいのかどうかは、分からない。いっそ、勇者の召喚など、何もかもなかったことにしたかった。勇者は、本当なら、単なる少年として、ハシムラの傍にいるべきだったのだ。
だが、自分の世界の仲間の傍に、勇者を立たせていたい気持ちも確かにある。五十年前、ナターシャが召喚した聖女は、確かに人間側の勝利で戦いを終わらせたはずだからだ。
そこまでの複雑な思いをナターシャは察しなかっただろうが、少し考えて、溜息交じりに言った。
「……あんた、本当に、何も知らずにこっちの世界に連れてこられたんだね。召喚の碇の役目は、勇者を安全に連れてくることだけじゃない」
「え?」
その言葉に、シセルは顔を上げた。
「碇とは、召喚する相手を、世界をまたいで呼び寄せるため、引き換えに送り込む力。そして……一方的ではあるが、碇の方が異世界に行こうとすることで、強制的に相手にも元の世界から、異世界側へ引き寄せる力を反作用として発生させる」
シセルは頷いた。
「つまり……召喚した相手が帰る時は、また同じように、碇が必要となる」
「帰ることが、あるのですか?」
「私はそう聞かされていた。だから、こちらの世界の戦いが終わるまで、生き続けるようにと、……命じられていた」
ナターシャは、遠くを仰いだ。シセルは胸が痛んだ。少なくとも、ナターシャがいた頃に起きていた戦争は、終わっていると伝えている。それでも、ナターシャが向こうに戻っていないということは。
「聖女は、向こうの世界に残ることを望んだか、いや……恐らく、命を落としたんだろう」
「……では、勇者は……」
激しい魔物との争いに、否応なく巻き込まれたはずの彼は。
「こっちから向こうの世界を知ることはできない。だが……それでも待つしかない」
後悔はいくらでもある。その全ては、取り戻せない。
だから、今できることは、勇者をこの世界に返すために、生きていくことなのだ。
それは、途方もないことだった。窓の外に、隣の建物の、汚れた灰色の壁が見える。空さえ、見えなかった。
職場である灰色の城から出たシセルは、ふう、と溜息をついた。ずっと立ちっぱなしで、体が強張っている。急に辞めてしまったという人の代わりに、今日は随分長く働くことになってしまった。
今日は一度ナターシャの家に帰らず、直接ハシムラとの待ち合わせに行った方がいいだろう。
電車から飛び降り、そして、明かりの煌々とついた店でパンを買った。透明の袋に入ったパンは、今日シセルが作ったパンのどれかなのだろうか。時間がなくて、パンを片手に走った。
少し遅くなってしまったが、ハシムラの部屋についた。扉を叩くと、内側から返事が聞こえた。かなり間が空いてから、扉が開き、ハシムラが顔を出した。
「ごめんね……せっかく来てもらったのに……ちょっと今日は、行けないみたい」
「どうしたんで……」
そこまで言って、シセルは、ハシムラの顔色が悪いのに気が付いた。ハシムラは咳込み、ううん、ごめんね、と言った。
「……あの……」
「じゃあ、ごめんね……しばらく来てもらわなくて、大丈夫だから」
俯いたハシムラが扉を閉じる前に、シセルは勢いこんで言った。
「何か、食べたいもの、ありますか」
「……え?」
扉が細く開いて止まる。
「あの……もし大変だったら……僕でよければ何か買ってきます……けど」
最後の方は、消え入りそうな声になっていたのが自分でも分かる。それでも、ハシムラはそれを聞いた。シセルの声は時々情けないほど小さいけれど、ハシムラは、それをちゃんと聞いてくれる。
ナターシャにハシムラのことを話したことがある。
「……召喚された勇者の、姉だって?」
ナターシャは、シセルの話を聞いて、唇を噛んだ。
「はい……。本当なら、僕は……彼女にとっては、憎むべき相手かもしれません。弟の真実を黙っているのは、卑怯なことなんでしょう。それでも、少しでも罪滅ぼしができるなら、彼女の役に立ちたいんです」
「……」
ナターシャは、しばらく考えていたようだったが、首を振った。
「あんたが何を考えても、絶対に自分の世界のことは話すな。たとえ卑怯だと思っても、絶対に」
「はい……。」
「私から言えるのはそれだけだ。あとは……やりたいように、やればいいさ」
シセルは頭を下げた。
黄色の果物を抱え、シセルは走っていた。
コンビニでいいの。お弁当と、できたらバナナか何か。ハシムラの言葉を繰り返す。
小さな事でも、ハシムラの役に立てることが、シセルには嬉しかった。この程度が嬉しい自分のことが、偽善のようで、まだ嫌でもある。
だけど今は、白い灯りに照らされた道を走った。
明日も今日と同じ、灰色の日が来ることが分かっていても、それでも自分は、ここにいた。
主人公が俺YOEEEを連発する、鬱展開、シリアスてんこもりの物語。
降りかかる理不尽、それを撥ね退ける力がなくても、でもどうにか生きていかなくてはいけないっていう閉塞感に、寄り添いたかった。
のかもしれない。(恥ずかしい恥ずかしい)
お読みいただきありがとうございました。