(6)
夜遅く、ナターシャの家に帰ってきたシセルは、できる範囲で部屋の片づけをしていた。
女性の家を勝手に片付けるのは申し訳ない気持ちもあるがが、ナターシャは夜遅く仕事をして、昼に寝ている生活のようで、家の中は散らかりやすいようだった。なので、失礼にならない範囲で手伝うようにする。
朝になってナターシャは帰ってきた。そして、シセルに一枚の紙を渡した。左上に、“仲崎シセル”と書いてあるのだけは分かる。
「履歴書だ。あとで写真も撮らないと」
「何ですか、これ」
「文字が書けなくて正体不明でも、働く場所が見つからないこともないのさ」
ナターシャは当然のように言った。
「明日は店を休みにしてきた。明日、バイト先に行って面接だ」
「は……働く? 僕が?」
「当たり前だろ、アンタ若いくせに、私みたいな婆さんに養ってもらうつもりでいたのかい」
呆れるナターシャに、シセルは慌てて言った。
「そうではないですが……僕なんかにできることがあるのでしょうか……。僕は魔術師でしたが、この世界では何もできません。ここで魔法が使えないのは、ご存じでしょう」
「知ってるさ。私だって正教会では魔法を使ってたからね」
「……。」
「とにかく最初は私が探してきた仕事をやってみな」
ナターシャは有無を言わせずそう言って、疲れているからと寝てしまった。
シセルは邪魔をしないよう、隣の部屋でじっとしていた。そして、考える。
ナターシャの言うことは正しい。シセルは働くべきだ。だが、シセルにできることは何もない。
そもそも――シセルがこの世界に来る役目に選ばれたのも、シセルが一番向こうの世界で役に立たなかったからだ。
シセルは、魔術師の弟子として、一生懸命勉強してきたつもりだ。難しい理論も、複雑な呪文も、覚えてきた。
だが、どうしてもシセルは、魔法を素早く展開させることができなかったのだ。魔物との戦争が激化し、魔術師の一団が騎士団の援護として戦場に向かった時――シセルは、ほとんど何もできなかった。めまぐるしく変わる戦況、魔物の動きに合わせ、反射で魔法を選び唱える――。
味方と敵の血が飛び散り、悲鳴と爆音が響く。そこでシセルは、魔物を倒すことも、味方を守ることもままならなかった。
戦場の只中で取り残され、そして何もできず帰ってきたシセルは、次は戦場には連れて行かれなかった。
仲間の魔術師が、シセルに防護の魔法を張っていたから、生きて帰ってきたのだと、師から知らされた。何もできなかったどころか、完全な足手纏いだったのだ。
魔術師としても役に立たなかった自分が、この世界では、その魔法さえ失っているのだ。
「……だけど……行くしか、ないか……」
何をして働くところかは分からないが、今の自分には、ナターシャの言うことを聞くよりほかに方法はないのだ。
夕方、起きてきたナターシャに、シセルは謝った。そして、明日はよろしくお願いしますと頭を下げた。ナターシャは、少し考えたあと、こう言った。
「なあ、シセル。ちょっと考え方を変えてみなよ」
「……考え方ですか?」
「この世界では魔法が使えない、魔法がないからだ。……だったら、魔法が使えないってことは何の問題でもないじゃないか。この世界に生きている人間は、みんな魔法以外の何かをやってるんだよ」
翌日、シセルはナターシャに駅に連れて行かれた。駅の周りの店などは、よくハシムラと来ていたが、駅に入るのは初めてだ。あの、高速で走る巨大な馬のない馬車に乗った。あまりに巨大で、もはや馬車というより動く家である。
「電車に興奮しないでくれ、目立つ……」
ナターシャはぼやいた。
そして降りたところで、今度は小さな部屋に入れられる。人が入れる大きさの箱で、中には椅子と、鏡がある。
「あ、あの、何をすれば」
「そこに座って、真っ直ぐ前を向いて、真面目な顔をしてればいい。いいかい?」
「え、はい」
「黙って、目も閉じるんじゃないよ」
ナターシャの言われた通りにしていたら、急に眩しい光がシセルの顔にまともに当たった。目を白黒させていると、しばらくして、シセルの小さな肖像画がいくつも出てきた。シャシン、とハシムラが言っていたものだ。
その後も、この世界のものをいくつかナターシャに教えられた後、連れられたのは灰色の大きな城だった。のっぺりとした巨大な壁と、煙突。城ではないなら、砦といってもいいかもしれない。
「ここは?」
「パンを作る工場だよ」
「はあ……パン屋ですか? こんな大きな場所が?」
「パン屋……とは違うね。ここではパンを作るだけ。作ったパンは他の店に運んで売るのさ」
ナターシャの見つけてきた仕事とは、パン屋の厨房だったのか。料理はそう苦手ではないので、何とかなるはずだ。
その中で、白い服と帽子を着た男の人が、二人に応対した。
「工場責任者のヤマセです。お電話いただいた、仲崎さんですね。さっそくですが、履歴書はお持ちですか」
「……はい、よろしくお願いいたします」
シセルは丁寧に挨拶をした。ナターシャも挨拶の後、簡単に言い添えた。
「私の親戚の子なんですが、外国生活が長かったもので、言葉は一通り大丈夫なんですが、文字の読み書きが苦手なんです」
「ああ、大丈夫ですよ。留学生の人もたくさん働いてますから」
ヤマセと名乗った男は、何日くらい働けるか、何時に働けるかという質問をいくつかした。
「昼に働けるんですか。それは助かります。学生さんはあんまり昼入ってくれないんで。では、じゃあ案内します」
「え……と」
「あと制服のサイズも確認させてください」
「え、じゃあ……、ここで働かせてくださるんでしょうか」
「はい。お願いします」
あまりにもすんなりと、仕事が決まり、シセルは却って戸惑ったが、気合を入れ直し、シセルはヤマセについて行った。
夜の街を歩くハシムラは、シセルを見て、微笑んで言った。
「何だかシセル君、最近元気ね」
「そうでしょうか」
「きっとその、親戚の方がいてくれるからよ」
シセルは頷いた。ナターシャのお陰であることは間違いない。
落ち着いた場所で眠り、温かい食事を食べるということがどれほど大切か、身に染みた。
それに、日中、やることがあるというのも、良いのだ。
パン作りという言葉から想像していた仕事とはだいぶ異なり、工場の中の作業は、単調な単純作業の繰り返しだった。次々に自動で運ばれてくるパンに、決まった具を乗せるなどの簡単な作業。確かに、これなら言葉が分からなくてもできそうだ。
給料はそう良い仕事じゃないから、ある程度こっちの世界のことを分かった頃に転職するよう、ナターシャは言っていた。なので、仕事のない時は、可能な限りテレビや本を使って、勉強もした。
「……そうよね。最初は倒れていて、何もわからなくて……でも、親戚の人が見つかって。本当に、良かったよね」
自分を気遣ってくれる言葉に、シセルは、胸が締め付けられるような思いがした。
「……ハシムラさんの、お蔭です」
「え?」
「倒れていた僕を、助けてくれて……」
嘘ではない。シセルは、ハシムラに対して嘘の事情ばかり話していた。だけど、ハシムラがいなければ、今の自分はいなかった。そう心から思う。
自分のするべきことを見つけなかったら、街の片隅で、死んだように眠ったまま、朽ちていたかもしれない。
そして、できることなら、ハシムラの役に立ちたい。
ハシムラを見ていれば、日々疲れているのが分かる。弟がいなくなって、もう随分経つ。心労は、どれほどだろう。それに、日中は仕事をして、その後、夜は遅くまで弟の手がかりを探して歩き回るのだ。そんなことをずっと続けていては、肉体的にも限界が来る。
もどかしい、と思った。彼女の弟が見つからない以上、シセルに手伝えることはない。役に立ちたいのに、何もできないことはシセルが一番分かっている。
「……シセル君も、毎晩、付き合ってくれてありがとう」
ハシムラは、そう言って返した。シセルは首を振った。そう言ってもらえる資格など、自分にはない。彼女がそう言うのは、優しいからだ。
優しくて、そして、続く戦いに心を痛めた、水色の瞳を思い出す。ガーベラは、正教会では位の高い巫女だったが、誰にだって、自分のような落ちこぼれの魔術師にだって、優しかった。
あの瞳に見つめられた時も、シセルは役に立てない自分がもどかしかった。
彼女の力になりたかった。だけど、言いだせなかった。自分には、そんな力がなかったから。
だけど、それを正直に言っていたら、僕は今どうしていたのだろう。