(3)
彼女はシセルから少し離れたところで、小さな板を耳に当てて、何やら言っていた。どうやら、あの板で誰かと話しているらしい。遠見の水晶球みたいなものだろうか。この世界には魔法がないはずなのに、とシセルは思った。
「いえ――どこから来たのか、ここがどこなのかも分からないと言っていて――……ええ、はい……名前は。十五、六くらいの男の子です」
不思議な板を使い、彼女は自分のことを誰かに相談しているようだった。シセルはしばらくそこで待っていたが、手持ちぶさたになり、ふと、手を広げてみた。
掌に意識を集中させる。流れる水を強く思い浮かべ、空中からそれを取り出そうとする。空中の魔素から水を編む。もっとも簡単な魔法の一つだが――。
シセルの手には、水が溢れだすどころか、少しの湿り気も帯びてはこなかった。やはり、体力が回復しても、魔素の乏しい世界では、魔法は使えない。
(……駄目か……)
その後も、何度か手を開いたり閉じたりしているうちに、彼女が戻ってきた。
「とりあえず、警察に電話したら、来てみて下さいって。多分……最低限の保護は受けられるんじゃないかしら。それも聞いてみてって言われたけれど」
「えっと……」
シセルが戸惑っている様子を見て、彼女は優しく言った。
「分かる? 大丈夫よ。案内するから」
「あ……」
彼女の黒い瞳が、自分を優しく見ていた。
その瞳に、なぜか、よく知っている水色の瞳を思い出す。
彼女も、何故だろうか、誰にでも優しかった。位の高い巫女だということを、忘れそうになるほどに。
「……ありがとうございます。あの……あなたの、名前は」
「え? ええ……私は、ハシムラカズミというの」
「ハシム・ラカズミ、様……」
シセルがそう繰り返すと、彼女は何故か苦笑して首を振った。
「ハシムラ・カズミよ。ハシムラさんでいいわ」
「ハシムラさん。……ありがとうございました、本当に」
深々と頭を下げるシセルに、彼女は、どういたしまして、と答えた。
「交番まで案内する」と言ったハシムラの言葉を、シセルは丁重に断り、自分で行けると言って、彼女の家を出た。話を聞く限り、コウバン、という場所は恐らく、傷ついたり迷ったりした人間や、他の土地から流れてきた人間を、受け付ける場所なのだろう。王都や、比較的大きな町にはそのような場所がある。
だが、そこに行ってもどうにもならないことが分かっていた。シセルはもともとこの世界の人間ではないのだ。
それに、言葉が通じるため、一見分かりにくいことだが、シセルにはこの世界の文化や、文字が分からない。
第一、シセルが唯一できたこと、魔法が使えない。
この世界で、シセルに何ができるというのか。
いや、いいんだ、と自分に言い聞かせる。自分の役目はたった一つ、勇者を送り出すこと。それを達したのだから、もうシセルに残された役割はないのだ。
(勇者は、もう、皆と共に、魔物と闘っているのだろうか)
剣の巫女、ガーベラに導かれ、世界を救っていると、そう信じたい。
どれだけ強く念じても、向こう側の世界は見えてこなかった。
シセルはぼんやりと、街行く人たちを眺めていた。することがないし、できることが何もない。できるだけ腹が減らないよう、大人しくしているのが最善だったし、何かする気力もなかった。
ただ、浮浪者が居ると、周囲に迷惑そうな顔をされるので、ある程度は人目を避けるように歩き回っている。ただ、シセルの容姿は少し浮いているので、どこにいても人の視線を感じた。
この世界の人々は、シセルの世界の人々より、全体的に体格が良く、背も高い。目や髪の色は様々なようだが、概ね黒や茶色が多いようだ。シセルの金属のような髪の色は、どうやら目立つようだった。
居心地が悪いのは、自分がこの世界の住人ではないから、当然なのだろうが。
何もできず、公園の隅で蹲っていても、空腹に押されて立ち上がれば、それなりにどうにか食べるものは見つかった。公園で食事が配られている日もあれば、どうにもならなければ店の裏のゴミ箱からも食べものは手に入った。
どうにか、生きていくことはできそうだった。だが、こんな生活を続けて、何の為に生きているのか分からない。
そう思うたび、シセルは思い直す。魔物と勇敢に戦い、命を落とした魔術師もいる。それができない自分は、こうするべきなのだ。
夜は、公園に戻ってきて、長椅子で眠る。雨が降った日は建物の軒下を探す。
この世界の建物は、多くが石や岩のようなもので作られていて、高い。王城にしたって、聖教会の本堂にしたって、ここまでの高さではなかったかもしれない。そんな巨大な塔がいくつも立ち並んでいる周りに、またいくらか大きな家がいくつも立ち並び、そして多くの人々が出入りしている。
周りを観察している間に分かったことだが、この世界は魔法がない代わりに、魔法以上の力が発達しているようだった。
例えば、この公園にある、取っ手を捻るだけで水の出る井戸は何とも便利な物だった。力も必要なく、簡単に水を汲める。水を編む魔法には、どこででもできるという利点はあるが、幼い子供も簡単に水を飲んでいる様子を見れば、この井戸の方が便利なような気がした。
夜にあちらこちらで街を照らす白い火は、夕暮れになれば自動で灯ることを知ってシセルは驚いた。師はよく、椅子に腰かけながら、指を一振りして燭台に火をつけていたが、暗くなれば勝手に火がつき、朝になれば消えるのなら、こちらの方が優れている。
一番驚いたのは、馬なしで走る馬車だ。中には小屋ほどの大きさのものもあり、その速さも、馬車とは比べ物にならない。
魔法の力が貧しい世界。だが、その文明は、貧しいとはとても思えなかった。
(師は、勇者様をこの美しく豊かな世界にお迎えできることを光栄に思うと言っていたが、僕が自分の目で見たこの世界は――本当に、僕の世界より貧しいのだろうか)
それに何より、勇者には――こちらの世界に家族がいた。弟思いの、優しい女性だった。勇者には友だっていただろう。恋人だっていたかもしれない。
はっとして胸が痛んだ。
自分は、覚悟の上でこの世界へ来た。だが、彼には、突然の別離となったはずなのだ――。
ある夜、公園の隅で眠っていたシセルだったが、騒がしい話し声が聞こえて、目が覚めた。
「……」
目を開けると、少し離れたところに、若い男が何人かいた。時々大きな笑い声をあげていて、何か飾りをつけているのか、歩くたびジャラジャラと音を立てた。
シセルは何となしに、彼らを観察していた。異世界の人々や物事を見ているのが、最近のシセルの日課だ。
だが、ふと彼らと目があった。多くの場合、人々の方から目を逸らしてくるが、その若い男たちは違った。逆に近付いてきたのだ。
「何ガンつけてんだよ、ああ?」
「……っ?」
シセルが驚き、戸惑っていると、男は急に怒鳴った。「ッカトしてんじゃねえぞオラァ!」
何を言われたのか分からない。魔術で勇者の言葉を受け取ったはずなのだから、そんなはずはないのだが。
「おい、コイツ外人だぜ」
「外人のホームレスかよ」
男たちはシセルの周りに集まってきた。シセルは身を引いた。
「……な…何なんだ」
男たちはニヤニヤと笑っていたが、その顔からは悪意がはっきりと感じられた。逃げなければ、そう思った瞬間、最初に怒鳴ってきた男が殴り掛かってきた。
「っ!」
シセルはそれを受け、まともに地面に転がった。痛みに顔をしかめていると、他の男に体を踏みつけられた。
「や……やめ」
「金持ってそうか?」
「いや、何の荷物もねえ」
「シケてんな」
そんな声が頭上で聞こえた。シセルの声は聞いていない。
「案外ホームレスってのは金持ってるって」
「前やった奴はそれなりだったぜ」
「コイツ汚ねえ」
男はゲラゲラ笑いながら、シセルをもう一度蹴った。勢いで転がり、シセルはその隙をついて逃げようとした。
「くっ……」
魔法が使えれば!
簡単な魔法でも、こんなごろつきを威嚇するくらいはできる。
そもそも、魔術師のローブを着ていれば、喧嘩をふっかけてくる者はいなかった。シセルは大した魔術師ではなかったが、魔術師の強さというのは外目には分からないものだ。このローブを着ているだけで、一定の敬意が払われる。
だが、この世界では、シセルが着ているのは、ただの黒いぼろ布だ。
「……っ」
必死に走った。男たちが追い掛けてくるのではないかと恐ろしく、できるだけ人が居そうな明るい方に向かって走った。
息があがり、もう走れないというところで、シセルはようやく後ろを振り返った。男たちはいなかった。
苦しい息を整えながら、壁に寄りかかる。近くにいた男女が自分を避けるように歩いて行った。
息が落ち着いても、それでもそれ以上動けなかった。
この世界で、これ以上、これからどうやって生きていけばいいのだろう。何の力も持たず、乞食のように残飯を食べ、灰色の塔の隙間で、地面を這いつくばっていればいいというのか。
これ以上、生きていかなくてはいけないのか。
涙が溢れた。
だが、それでも。シセルは身を守るため、反射的に必死に走ったのだ。