(2)
寒さに、シセルは震えた。
すっかり日は落ちたが、こちらの世界では、白い炎を宿した角灯があちらこちらに立っており、夜でも街が真っ暗闇になることはないようだ。
(異世界は、炎の色さえ違うのか)
シセルは、公園の長椅子に腰かけ、これからどうするか考えた。あの後、しばらく歩き回ってみたが、この世界の風景は、シセルのいた世界とは何もかもが違っていた。
この世界の人々の多くは、黒い髪に黒い瞳、薄い砂色の肌をしている。金の髪に金の瞳のシセルは、それだけで目立つようだった。さらに、服が目立つ。魔術師のローブを着た者は、ここには誰もいない。街を歩くシセルを、人々が奇異の目で見て避けるのを、否応なく感じた。
「……この世界の服……か……」
いや、それ以前に食事だ。段々と体の痺れが取れ、意識にかかった靄が晴れてきた時、シセルに襲い掛かってきたのは、強烈な疲労と空腹だった。
強力な魔法を使った後であれば疲労は仕方ないが、休んでいれば魔力は回復するはずだ。だが、空腹は何か食べないことにはどうしようもない。
途方に暮れた。衣食住さえままならないなど、この世界に来る前にちゃんと想像していなかった。
シセルは長椅子に横になり、ローブを体に巻きつけ、強く目を閉じた。
僕はここで生きていけるのか。
いや、そもそも、生きていく必要があるのか。
自分の役目は、勇者を世界に送り届ける碇だ。その役目は充分に果たされたはずだ。ならばもう、自分の役目は終わりではないのか。
そのままいつの間にか、眠りについた。
師が、シセルの前で古い本を開いている。鍵をかけられ、長い間開かれていなかった本は、頁をめくる度に冷たい匂いがした。
『碇とは、召喚すべき者をこちらに引き上げるための力』
偉大なる師の魔力をもってしても、異世界より人を空間転移で呼び寄せるというのは難しい。同じ世界の中で場所を移動するのとは訳が違い、世界を構成する素子をいたずらに増やし、理を曲げることにもなる。
だが、碇として、異世界側に一人の人間を送り込み、そしてそれと引き換えにするという形でならば、比較的少ない力で、安全に相手を召喚できるのだという。
ちょうど、井戸汲みの重りのようなものだと師は言った。井戸の中に重りを落とすことで、水を汲んだ桶が上がるように。
『お前が異世界に行く意思が、この世界を救うのだ』
師はそう、力強く告げた。シセルは頷き、呪文を習った。何度も何度も詠唱の練習をした。
光が顔に当たり、目を覚ました。朝が来たようだった。体が冷え切り、強張っている。慣れない景色と、晴れているのに霞んだような空を見上げ、シセルは、自分が異世界に来たことを思い出した。
(……夢か)
師より、召喚の呪文を習った時の夢を見た。そう遠くない自分の過去の夢。魔術師にとって、もっとも価値なき夢だ。
魔術師の中には、未来のことや遠く離れた場所のこと、遥か過去の情景を夢として見ることができる者も多い。それは魔術師にとって力の一つである。
シセルも一通り、夢見の訓練は積んだが、あまり成果はあがらなかった。師は、これは生まれつきの素養だから仕方ないとだけ言ったが、努力する余地がないと告げられたと等しく、シセルは落胆した。
(それにしても……体が重い)
一晩寝たのに、魔力がほとんど回復していない。体のだるさは、取れていなかった。
異世界には魔法がない、と、師から聞いていた。それは、シセルの世界と違い、世界を構成するエーテルに、魔素がほとんどないため、魔法が発達しない世界だったという。それ故、異世界の人々は貧しい。ただし、そのため、魔素を喰らう悪しき生き物である魔物も少ない、と言う。
外で一晩寝ていても、魔物に喰われなかったという事実は、確かにその通りなのかもしれない。シセルは改めて意識を集中してみたが、周囲から魔力は感じられなかった。
魔法の使えない世界に来た魔術師。
シセルは頭を振った。
これから、どうしたらいいというのだろう。異世界のことについては、何も知らない。この世界ではシセルは無力だった。
いや、元の世界でも――僕は、無力だったのだけど。
何とか立ち上がった。だが、そのまま、体に力が入らず、シセルは前のめりに倒れた。受け身を取ろうという力さえも働かなかった。地面と体が、したたかにぶつかった。
「あ、あなた!」
女性の声がした。シセルは、薄目を開けてそちらを見た。そして、目を見開いた。
「あなたは……昨日の……」
「ど、どうしたの……大丈夫なの?」
シセルがこの世界に落ちてきた時、初めて会った女性だった。
「昨日も倒れていたわよね……ねえ、どこか悪いの?」
シセルは、困惑する彼女に何も説明できないままいた――が、その時、お腹が盛大な音を立てた。
「ごめんなさいね」
彼女は、そう謝った。シセルは、慌てて首を横に振る。
「私――昨日、手一杯で――本当だったら、倒れていたあなたのこと、気にしてあげるべきだった」
シセルは、もう一度首を振った。
彼女に連れられてきたのは、シセルが最初にこの世界で来た場所、つまり、彼女の家だった。大きな建物にいくつもの扉のついた、随分立派な家に住んでいるものだと思ったが、どうやら、彼女の家はこの一部屋だけのようだった。
そこで、彼女は食事を出してくれた。器に盛られた白い粒の集まりと、湯気の立つ茶色い塩味のスープ。どう使うのか、二本の細い棒が添えられている。シセルは、そっと白い粒に触れた。熱く、べっとりと手にくっついた。食べられないことはないが、べとべとして食べにくい。どうしていいか困っていると、彼女は、スプーンを出してくれた。
シセルは夢中になって食べた。だが、ふと気づき、慌ててお礼を言った。
「ありがとう……ございます」
「あなた、日本語は分かるのね」
「……はい」
言葉だけだ。言葉は、この世界に来た瞬間にもらった。シセルが、自分の言葉を、召喚された勇者に渡した引き換えに。共に戦う勇者が、こちらの言葉が理解できないのでは困ってしまう。
食事を終えると、どことなく体が軽くなってきた気がする。体に力が入らなかったのは、魔力欠乏というより、単なる空腹だったらしい。
「あなた、名前は?」
彼女はそう尋ねてきた。
「……シセル」
「シセルさん……外国の方、よね?」
「……」
異世界も、異国も、まあ似たようなものだろう。シセルは一応、頷いた。
「どこから来たの?」
「……」
答えられず、俯いた。彼女は自分の身を案じてくれているのだろう。だが、魔法のない世界の者は、異世界と交信ができない。異世界の存在は、シセルの世界から一方的に認知されているのだ。故に、答えることができない。
「分からないの?」
「……。」
沈黙を、彼女はそう取ったらしい。シセルは、曖昧に頷いた。
「困ったわね……。とりあえず……こういう時は、警察かしら。もしかしたら……あなたのご家族の方が、捜索願を出しているかもしれないし」
そう言って、彼女は俯いた。
「こういうことって、珍しくないのかしら……。私もね、弟が昨日から帰ってきていなくて、警察に届けたんだけど、何も連絡がないのよ」
いなくなったのは彼女の弟だったのか。家族だったのだ、と納得がいった。
日が高く上り始め、外が賑やかになってきていた。シセルの目が覚めたのは明け方だったから、彼女は、随分早い時間から外を歩き回っていたことになる。きっと、弟を探していたのだ。
「……弟さん……見つかると……いいですね」
シセルは、力なく、そう返した。
彼女は、ぐっと辛そうな顔をしたが、苦しそうに笑い、ありがとう、と言った。
だが、彼女の弟が見つからないことを、シセルは知っている。
恐らく――異世界に、シセルと入れ替わりで召喚された勇者は、彼女の弟なのだ。彼の持ち物の鞄の上にシセルが倒れていたのが、その証拠だ。