2-5 助けてください
「なぜ……」
逃げ場のなくなったアフタルの声は、かすれていた。
「ところで君、どうしてこんな所にいるの? 王家はフォルトゥーナ女神を信仰してるわけじゃないよね。ぼくにふられてヤケになってるのかな」
「ありえません!」
即答すると、ロヴナは口もとをゆがめた。
「あなたなんでしょう? わたくしを誘拐させて、闘技場に売り飛ばしたのは。殺すほどに憎んでいたのですか?」
「なにそれ」
「……違うんですか?」
「ふぅん。そういう方法もあったんだ。気付かなかったよ」
ロヴナの声が、低く湿り気を帯びる。
「まぁ存在自体が迷惑な女って、いるよね。ぼくにふられた憐れな君がいたら、今後うちと外国の交易に支障がありそうだしさ。昨日さぁ、君を追い返しただろ。そしたら父と母が激怒してね。フィラとの結婚は認めないなんて叱られるし。散々さ」
ロヴナは腕を伸ばすと、アフタルの胸ぐらを掴んだ。
「無礼です。手を離しなさい」
「へーえ、ぼくに命令するんだ。夫になっていたかもしれない相手に? そうだよね、王女さまだもんね。たとえ結婚したとしても、ぼくのことを見下すよね」
「ええ、見下します。けれどそれは身分に対してではなく、あなた個人の特質に対してです」
負けたくない。こんな男に屈したくなどない。
アフタルは拳を握りしめた。
怖くないと言えば嘘になる。個室に閉じ込められ、自分のことを嫌悪し憎悪する男と二人きりなのだから。
「ほんと、腹立つよねぇ」
ロヴナがアフタルの両肩に手を置くと、そのまま後ろに突き飛ばした。
「……くっ」
壁で背中をしたたかに打ちつけ、アフタルは痛みに歯を食いしばった。
「あのさ。高価な宝石をあげたんだからさ、君の方から婚約を破棄したと両親に言ってくれないかな。できるよね『わたくしは我儘ですから、気が変わって結婚が嫌になりました。傷心のロヴナさんを、優しいフィラさんが慰めてくれたんです。わたくしも、フィラさんを推薦いたします』ってさ」
「何を勝手なことを。わたくしにそんなことを言う義務はありません」
痛みに顔をしかめながらも、アフタルは気丈に返した。
「勝手ねぇ。君、今の自分の立場が分かってるの?」
ロヴナの手が、アフタルの頬を力任せに叩いた。
狭い部屋に、高い音が反響する。
アフタルは乱れた金髪の間から、眼前の卑怯な男を睨みつける。
痛いけれど、初めて叩かれた時のようなショックはなかった。
この男は、簡単に暴力をふるうのだと知っているから。
「なんだい、その目は。気に食わない」
再び平手が飛んでくる。
さすがにまた叩かれてやるほど、お人よしではない。
後方に避けると、ロヴナの手が空を切った。ロヴナは体の均衡を崩し、みっともなくよろけた。
じっとりとした瞳が、アフタルをとらえる。
なぜ避けるのだと、その目は言っていた。
「君さ、この部屋にいるってことは、神殿娼婦だからね。王女という身分は意味をなさないよ」
ロヴナが拳を握りしめる。
まさか叩くのではなく、殴るつもりなの?
アフタルは息を呑んだ。
怖くても、つらくても。あの闘技場で、豹に襲い掛かられた時のことを思えば、耐えられる。ただ脅えているだけの弱い王女でいたくない。
深緑の目で、哀れな元婚約者を見据える。
「婚約を破棄してくださったこと、感謝いたします」
「なっ」
「気に入らないことがあると暴力をふるう。そんな癇癪持ちの子どもが夫になるなど、今考えればとても恐ろしいこと。どうぞ暴君を気取り続けてください。恐怖政治を強いるあなたの小さな王国に、わたくしがいないことが幸いだと思います」
ロヴナの顔が、見る間に赤く染まっていく。首筋も耳もだ。
「お、お前」
「わたくしはサラーマ王国の第三王女。あなたに『お前』呼ばわりされる筋合いはありません」
かっとなったロヴナが殴りかかってきた。
アフタルはスカートをつまみあげ、ロヴナの下腹を足で蹴とばした。
――いい? アフタル。男性に襲われそうになったり、無理強いされそうになったら、股間を狙うのですよ。そして大声で叫ぶのです。
――恥ずかしいですって? はしたないですって? 何を言っているの。わたくしたちの可愛い妹が危機に陥ることに比べれば、なんてことないわ。常に護衛の者がいるとは限らないのよ。致命傷に至るほどの威力をもたらすためには、躊躇してはダメ。
――いっそ、釘の棒をいつも携帯させた方がいいかもしれませんね。
――いい考えだわ、ヤフダ姉さま。専用の棒を作っておきましょう。
脳裏をよぎったのは、ミトラとヤフダの言葉だ。
(お姉さま。アフタルは負けません)
初めてのことなので、狙いは外れてしまったけど。
それでも思いがけない攻撃を受けたロヴナは、腹部を押さえて呻いた。
「誰か!」
叫ぼうとして、アフタルははっとした。
来てほしいのは、誰かじゃない。
たった一人、彼だ。
「シャールーズ!」
アフタルは叫んだ。大事な人の名を。
「シャールーズ! 助けて!」
彼と別れた食堂から、この小部屋までは離れている。声が届くとは思えない。それでもアフタルは疑うことがなかった。
シャールーズが来てくれるのを。