2-4 逃げられません
朝になるまで、シャールーズはアフタルを抱きしめたまま眠っていてくれた。
夜って怖い。
目覚めたアフタルは、顔を赤く染めた。
べつに何かあったわけではないけれど。王女である自分が、相手が精霊とはいえ男性の腕の中で夜を過ごしたなんて。
「しっかりしなくては。わたくしは王宮に戻り、今後のことを考えないといけないんです」
「今後って、なんだよ」
アフタルの独り言を聞きとがめたシャールーズが、尋ねてくる。
なんだか不機嫌そうだ。
やはり甘えすぎたのが良くなかったのかもしれない。
あくまでの主従の契約なのだから、わきまえなければ。
部屋の扉がノックされる。
「お目覚めでいらっしゃいますか?」
扉を開いたのは、巫女だった。
ベッドに並んで腰を下ろしたままのアフタルとシャールーズを一瞥して、彼女はなぜかうなずいた。
「お食事を用意しております。こちらでどうぞ」
案内されたのは、食堂だった。
大部屋に泊まっていた巡礼者の男性が、すでに朝食をとっている。
テーブルに並べられているのは、麦の粒が入ったスープに平たいパンだ。
シャールーズは、食事はいらないと辞退した。
「シャールーズは食事をとらずに平気なのですか?」
「まぁ、こういった物は食わねぇな」
「では、どこから栄養を?」
アフタルが席に着こうとした時、シャールーズが椅子を引いてくれた。
そして彼は向かいの席に腰を下ろした。
「そうだな、想いってヤツが糧になるかな」
「想い、ですか?」
「俺らは愛でられ、大切に思われることで宝石になれる。捨て置かれたら、それは単に色がきれいな石でしかねぇ」
そんな風に考えたことがなかった。
宝石は、その存在だけで尊いものだと思っていたから。
「たとえ天の女主人に命を吹きこんでもらっても、誰かに愛され、求められなければ俺らはこうして出てこられねぇ。だからアフタルには感謝してるぜ」
「い、いえ。わたくしなんて」
水差しに入った水を、シャールーズはグラスに注いでくれる。
アフタルは礼を言って、グラスを受け取った。
切ったレモンが入った水は爽やかだ。だけど、じっと見つめられていると、食事がしにくい。
それに夜と違い、妙に丁寧というか優しいというか。
主従が逆転していたのが、元に戻ったみたいだ。
食事を終えたアフタルは、支払いのことを巫女に相談した。
今は手持ちがない。正直に王宮に戻るとは言えないので、一度家に戻ってからお金を持ってくると告げたのだが。
巫女は「いいのですよ」と首をふった。
「でも、泊めていただいて何も払わないわけにはいきません。明日……いいえ、午後には相応の金額を用意してきます」
たしか巡礼途中に病気で倒れた人は、無償で泊まれるはずだが。アフタルは巡礼中でも、病を得ているわけでもない。支払いは当然のことだ。
「そうですね。無料ではありますが、無償ではないと言えば、分かっていただけるでしょうか」
「え?」
巫女の言葉は、思いがけないものだった。
「そちらの殿方は、旦那さまですか?」
「いえ、違いますが」
「それはよかったです」
にっこりと巫女は微笑む。
「未婚の女性が、男性と同じ部屋に泊まることを拒まない。それにそちらの殿方からは、異教の匂いがします」
「匂い、ですか?」
「ええ。我らが信奉する女神とは相容れぬようですね。では、お嬢さまはこちらへ」
どういうことなのだろう。
疑問に思いながらも、アフタルは巫女に誘導されて、別室へ向かった。
「待て。俺も行くぜ」
「いいえ、ここからは異教の殿方にはご遠慮いただいております」
「関係ねぇだろ。俺はアフタルの僕なんだぜ」
「少し時間をいただくことになりますので。こちらでお待ちください」
丁寧な口調だが、巫女は断固としてシャールーズを伴うことを拒否する。
神殿の雑用でも手伝うのだろうか。食事と泊まるところを与えてもらったのだから、それくらいはするつもりだけれど。
(でも、わたくしは掃除をしたことがないんですけど。大丈夫でしょうか)
雑巾を使う時は、一度濡らして……そのまま拭けばいいのだろうか。辺りが水浸しになるような気もするのだけれど。
列柱の廊下を進み、まずは水浴びをするように命じられた。
確かに手や足が汚れていては、掃除をしても意味がない。
「大変でしたね」
「えっ? あ、はい」
なぜアフタルの状況が分かるのだろう。何も伝えていないのに。神に仕える巫女は、やはりなんでもお見通しなのだろうか。
簡単に体を水で洗うと、小部屋に通された。
壁にはタイルの欠片でモザイク画が描かれている。
右手に舵、左手に豊穣の角を持つ女神の絵だ。
「もう大丈夫ですよ。こちらの神殿を訪れるのは、フォルトゥーナ女神の信者ばかりですから。蛮族はおりません」
巫女はそう言いながら、床に絨毯を敷きクッションを並べた。そして寝台の寝具を整える。
「さきほどの蛮族には、先に出ていくように話しておきますから。お嬢さまは、何の心配もなさらなくて良いのですよ」
「蛮族って、もしかしてシャールーズのことですか? わたくしと一緒にいた」
「ええ、脅されていたのではないですか? 夜間、命令口調のような声が聞こえていましたから」
「脅されていたわけではないんです」
それは誤解だ。
アフタルは慌てて首を振った。
「そうですか? なら、いいのですが」
「えっと、掃除をしますね。道具はどこですか?」
「あら、まぁ」
巫女は、さも驚いたという風に口をぽかんと開いた。
「あなたのお仕事は掃除ではございませんよ。聖娼です」
「聖娼……ですか? 聞いたことがありません」
「では説明いたしますね。神聖娼婦といった方が、分かりやすいでしょうか。信者の男性に身を任せ、報酬をいただき、そのお金を神殿に奉納するのです」
「え?」
「神聖な儀式ですよ。誇りを持ってください」
「でも、見知らぬ男性に抱かれるということですよね」
「異教徒の男性と閨を共にするような、恥ずかしいことではございませんよ」
「シャールーズとは、何もありません」
巫女は完全に誤解している。
「まぁ、そう興奮なさらずに。元来、大地母神の神殿で聖娼は行われていたのです。珍しいことではありません。神殿に寄進してくださる方に、神の力を授ける必要がありますから。女神の力は、女性から。正当でございましょう?」
理解できない。
アフタルは巫女と言葉が通じない絶望に囚われた。
「名誉なことですよ。本日の寄進者は、ロヴナ・キラドさまですから」
その名前に、耳を疑った。
「嘘……ですよね」
「女神に誓って、嘘など申しません」
巫女は頭を下げると、部屋を出ていった。
だめだ、逃げなければ。
アフタルは扉を開けようとしたが、鍵が掛けられているのかびくともしない。
「開けて! 開けてください!」
ドンドンと木の扉を叩く。窓は、と見ると鉄の格子が嵌められていた。
ありえない。娼婦の真似事をするなんて。しかも相手がロヴナだなんて。
(いえ、大丈夫です。ロヴナが、わたくしなんかを抱きたいと思うはずありません)
けれどそれは、ただ相手がロヴナから見知らぬ男性に代わるだけのことなのでは?
ここには急を報せてくれる早馬もいない。
その時、鍵が開かれる音がした。
小部屋に入ってきたのは、やはりロヴナだった。
アフタルの姿を認めて、大きく目を見開いた後、皮肉な笑みを浮かべた。
「おやおや、どこかで見たことがあると思ったら。へーえ」
にやにやしながら、ロヴナがアフタルの頭からつま先まで舐めるように眺める。
「まさかこのような場所で、君に会うとは思わなかったよ。で、なに? 王女をやめて商売することにしたの? でも商品が貧相だなぁ」
アフタルはロヴナに背を向けた。
見られたくない。どんなに巫女が、神聖な儀式だと言い張っても、無理なことは無理だ。
「お願いです、見逃してください。あなたも、わたくしなんて嫌でしょう?」
「そりゃそうさ」
その言葉に、少しほっとした。
フィラという恋人がいるのに、聖娼を抱きに来ているのは理解できないが。さすがに捨てたばかりの元婚約者に手を出すほどではないらしい。
「あの……通してもらえませんか?」
「なんで?」
ロヴナの体が、入り口をふさいでしまっている。
「見逃がしてくれると言いました」
「言ってないよ。君のことが嫌だと言っただけ。ま、鍵ならあるけどね」
「貸してください」
アフタルは手を伸ばしたけれど、指先が鍵をかすめただけだった。
カタン……。
格子の間から外に投げ捨てられた鍵が、小さな絶望の音を立てた。