10-4 懐かしい未来
「ラウル」
アフタルは腕を広げて、ラウルを抱きしめようとした。
けれどラウルは戸惑ったように後ずさる。
「無事でよかったです」
「姫さまも」
答えてはくれるのに、アフタルと視線を合わせてくれない。ただ目を伏せて、自分の足下を見つめているだけだ。
シャールーズは腕を組んで、黙っている。
ただそうして立っているだけで、シャールーズの威圧感はすごい。
「……私は、姫さまのお役に立つことができませんでした。使えない守護精霊なんです」
ラウルの声はか細い。手に巻かれた白い包帯は、見ているだけでも痛々しい。服の下も同じような状態なのだろう。
「そんなことありません。わたくしは知っています。ラウルは矢を射られてからも、わたくしのことを追いかけてくれていたじゃないですか」
「だろうな。詳しいことは分からんが、ラウル、お前は池に手を浸けた状態だった。アフタルを救おうとする気持ちは本物だ。それに俺も矢を受けたことがあるから分かるが。あれは痛ぇし、治りも遅い」
シャールーズが言葉を添えてくれる。
基本的におとなしいアフタルと、真面目なラウルでは、軽口を叩くこともほとんどない。
二人で話す内容も硬く、主従としては正しいのかもしれないが、打ち解けているとは言い難い。
でも、時折ラウルが見せてくれる愛らしさを、アフタルはとても好ましく思っている。
「私は、たとえ自分が割れても姫さまをお護りすべきでした。こんな腑抜けた自分が、姫さまの守護精霊を名乗る資格はありません」
「ラウル……」
アフタルはラウルの前に進んだ。さらにラウルは後退するから、壁に背中が当たってしまう。
傷の痛みに、ラウルは顔をしかめた。
「ねぇ、わたくしを見てください。守護を降りるなんて、言わないでください」
そっと手を伸ばし、ラウルの頬に触れる。ラウルが、びくっと身をすくめたのが分かった。
「ふふっ」
「え? なにか? 私は妙なことをしでかしましたか?」
「いえ。思い出してしまって」
アフタルは笑みを浮かべた。ラウルは怜悧な印象だし、冷ややかで相手との間に壁を作りやすいのだけれど。
弟という立場だからなのか。どこかティルダードに似たところがある。
「姫さま?」
「猫とハリネズミを恐れていたラウルのことが、頭に浮かんで。あんなにも愛らしいのに」
思いがけない内容だったらしい。ラウルは突然顔を真っ赤にした。
「アフタルさま。ひどいです、そんなことを皆の前で言うなんて」
「ごめんなさい。これは内緒ですね」
アフタルは口の前で、人差し指を立てた。今更だけど。
「でも、わたくしのことを名前で呼んでくださいましたね。嬉しいです」
「姫さま」
「アフタル、ですよ?」
二人の間に沈黙が流れる。にやにやして眺めているのはミトラとミーリャだ。シャールーズは、眉を寄せて顔をしかめている。
「お前ら、本当に面倒くせぇな」
シャールーズにいきなり背後から両腕を掴まれて、アフタルは驚いた声を上げた。
「な、なにを?」
「はいはい。愛情表現、愛情表現」
そのまま腕を上げさせられて、アフタルはラウルを抱きしめる格好になった。
(そうでした。精霊の糧は主の愛情と信頼)
それまではシャールーズに腕を操られていたアフタルだが、自分の意思でラウルを抱きしめた。
ラウルは体を強張らせたけれど。アフタルが抱きしめ続けるので、とうとう体の力を抜いた。
「アフタルさま」
背の高いラウルが、アフタルの肩に顔を埋める。
「これからも、あなたのお傍に置いて頂けますか?」
「一緒にいてくれないと、寂しいです」
まるで猫が頭をこすりつけるように、ラウルはアフタルの頭に自分の額を寄せた。ここが自分の居場所だと確認するように。
「あんた、心が広くなったのね」
ミトラが、感心したように呟いた。もちろんシャールーズに向かって。
「広くなんかねぇ」
「いいの?」
「よくねぇ」
ぶすっとした表情で、シャールーズは呟く。
「けど、ラウルが元気がないのも、俺は嫌なんだよ」
「あんた、寂しがりだもんね。それに弟妹のことも好きだし。あたしがいない間、寂しかったでしょ」
「うるせぇ」
ミトラの言葉は、どうやら図星だったらしい。
◇◇◇
「そういえば、なんでラウルは元気なんだ?」
ふと、シャールーズは思い出して尋ねた。
自分が矢を受けた時と比べても、ラウルは傷の手当てを受けただけで動くことができている。
無論、アズレットに射られて、シャールーズが三王国の湖に落ちた時に比べれば、ラウルの受けた矢は少ないが。
「力を分けて頂いたのです。私はまだ朽ちてはいけない、石に戻ってはいけない……と」
「力? 誰が」
シャールーズとアフタルは顔を見合わせた。ラウルは柔らかに目を細める。
「懐かしい方です。またお会いできるとは思いませんでした。お姿が変わっても、あの方は私達の『おばさま』なんですよ」
おばさま。
ラウルがそう呼ぶ相手は、一人しかいない。
シャールーズは、思わず身を乗りだした。
「そうか、約束したもんな」
必ずまた会えると、おばさんは言った。堂々としながら、どこか陰りのある女神の姿ばかりを思い描いていたが。信仰の途絶えた地で、神の姿で存在し続けることはできないのだろう。
(にしても、反則だろ。性別まで変わるなんてよ)
やる気のない怠惰な近衛騎士団の副団長の姿に、シャールーズは思わず苦笑した。
なるほど、確かに力がなくとも武芸に秀でていなくとも出世できるはずだ。
正妃パルトは、ササンの正体に気づいていたのだろう。
そしてティルダードがラウルの名前も正体も口にすることができなかったのは、おばさんの力によるものだろう。
我が子そのものであるラウルの存在を守ったのだ。
「女神が人となって生きる。神話の終焉だな」
でも、それも悪くはない。
人々から忘れ去られて、あんなにも寂しい顔を見せられるくらいなら。人として巷間に生きる方がよほどいい。
「俺らのおばさんなら、ティルダードを護り、導いてくれるだろうさ。ま、今は兄ちゃんっつーか、将来はおばさんじゃなくておじさんになるんだろうけどな」
もう戻ることの叶わない、遥かな島。
けれど懐かしい光景は、形を変えて続いていく。これからも。