10-1 大潮の蓮
「やっと見つけた!」
短い髪をぼさぼさにして、ミーリャがシャールーズの元にやって来た。肩で息をするミーリャの顎からは、汗がしたたり落ちている。
「おい。アフタルが来ているってのは、本当だったんだな」
シャールーズは格子を鷲掴みにした。だがミーリャはそれには答えず、牢の格子を蹴とばした。
「バカっ! このアホ! あんぽんたん!」
なんで罵られてんだ? というか最後のは罵倒なのか?
一瞬呆気にとられたが、シャールーズは、ミーリャが涙を浮かべているのを見て表情を引きしめた。
「何があった?」
「カイ! ここを開けて」
「おう」
曲刀を手にしたカイが、格子を斬りつけた。塔も牢も古い時代の物だから、鉄以外の金属が混じっているのだろう。
格子が斜めに斬られ、カイが腕力に任せて隙間を開く。
「池にアフタルさまが連れていかれたのよ。窓から見たの。でも、あんたを捜すように彼女に頼まれたから」
「池?」
シャールーズは窓に駆け寄り、庭を見下ろした。
絶句した。自分の目に映る光景を、信じることができなかった。
池の中にアフタルが立たされていた。いや、正確には杭に縛られた状態になっている。
普段よりも水面が高く、アフタルの口や鼻の辺りまで水が押し寄せている。
風が吹くと池に波が起こり、アフタルの顔が水面に沈む。
音は聞こえないが、苦しそうに咳きこむ姿。濡れそぼり、ぐったりとしたアフタルの様子に、シャールーズは胸を槍で突かれたような激痛を覚えた。
(嘘だろ。なんで)
池のほとりで倒れているのはラウルだ。
背にも手や腕にも矢が刺さっている。
水にひたったラウルの手は、アフタルに向かって伸ばされていた。
なんてことだ。良かれと思って、お前の安全を願って、突き放したというのに。冷たくしたというのに。あれほど来るなと言ったのに。
シャールーズは剣の柄で窓ガラスを叩いた。手が小刻みに震えて、力が入らない。
「くそっ!」
許さない。アフタルを殺そうとする奴を。彼女を害そうとする奴は、すべてこの手で 葬り去ってやる。
ガラスが、硬質な音を立てて割れた。柄で破片を落とし、シャールーズは窓に足をかける。
「待って。こんな高さじゃ、あんたが死んじゃうわ」
「階段なんか使ってられるか」
まだ割れたガラスの残る窓を乗り越え、シャールーズは飛び降りた。
ミーリャの悲鳴がすぐに小さくなった。吹きすさぶ風の音しか聞こえなくなる。
王宮の屋根が、あっという間に上方へと流れ去る。地面が近くなる。このままだと激突してしまう。
(石の力を借りるなんざ、やったことねぇけどな)
迷っている暇はない。
シャールーズはてのひらを下に向け、口の中で詠唱を唱えた。
「石よ、岩よ。我が友よ。よく分かんねぇが、とりあえず網を張りやがれ」
目を開けているのもつらいほどの風圧。だが、しっかりと見据えていると、地面から細い繊維が幾本も立ちのぼった。
石の糸だ。糸は網を張り、シャールーズを受け止めた。
次の瞬間、石の網はもろく崩れ落ちた。
シャールーズは双子神の剣を手に、立ち上がった。体にまとわりついた石の糸が、はらりと落ちていく。
「シャルちゃん! あなた、何してるの」
「うるせぇ」
走り寄ってくるエラを突き飛ばし、アフタルの方へ向かう。
エラはよろけて尻もちをついた。
だが駆け寄って彼女を支えようとする者はいない。
池の水位はやたらと高く、今にも溢れんばかりだ。
午前の早い時間に咲いていた蓮も、すべて水面下に沈んでいる。
金の髪が広がらぬよう一つにまとめられたアフタルも、その中の一輪であるかのようだ。
「ササン! いるんだろ。ラウルを守ってくれ」
シャールーズは周囲に視線を走らせた。ティルダードの護衛だけれど、ササンならラウルを見捨てはしないはずだ。
「ミーリャ! 聞こえるか。契約を」
塔を見上げ、シャールーズは叫んだ。この声が届くかどうか、分かりはしないが。
◇◇◇
大潮の蓮。
それは古い時代の拷問だ。
大潮の日、池や湖に杭を打って人を縛りつけ、池の水位が上がるのをただ待つ。
波と波の間でだけ、ちょうど呼吸ができる高さ。かろうじて窒息は免れても、水中に留め置かれることで体温の低下は避けられない。
咎人の罪の重さにより、どの程度で水から引き揚げられるかが決まる。
過去には、人目につかぬ郊外の池で行われたことが多く、これまで王宮の庭で行われたことは一度もない。
あくまでも、そう公表されているというだけだが。
どこか遠いところから声が聞こえた気がして、アフタルは意識を取り戻した。
「アフタル」と、何度も耳になじんだ低い声。幻かもしれないけれど。
波と波の合間に、アフタルはかろうじて息をつなぐ。普段の池と違い、月の引力に引っ張られた水面は高く。吹く風に波も高い。
体が冷えて、すでに指先の感覚がない。
(もう、だめです……)
何事も為すことができぬままに。ここで朽ち果ててしまうのか。
また波が押し寄せ、アフタルの顔にかかる。
息を吸おうとしていたアフタルは、水を飲みこんでしまった。
苦しい。苦しくてしょうがない。
咳きこむ力も弱くなってきた。
霞む視界に、倒れるラウルの姿が映った。
「ラ……」
その名を呼ぼうとしたけれど、また水が口に入りこむ。
夢見た未来は、確かにあったのに。手を伸ばせば、届くと思ったのに。
たとえ議会で反対されようと、何年かかろうと、実現させるつもりだったのに。
この国を守ろうとすること自体、自分には荷が重かったのだろうか。
「アフタル! アフタル!」
近くで愛しい人の声が聞こえた。
(幻聴が、こうも明瞭に聞こえるなんて)
褐色の肌と、金の髪が見えた気がした。
(神さまが、最後に見たいものを見せてくれているのですね)
マグナ・マテル。ラウルたちの母たる天の女主人。サラーマの古き神が、憐れんでくれているのだろうか。
その時、アフタルを縛める縄が断ち切られた。
ふわりと体が浮上する。アフタルは力強い腕に抱きしめられた。