9-7 彼が王の証
「何を言うの? ティルダード」
思わぬ提案に、アフタルは瞠目した。けれど冗談ではない証拠に、ティルダードの表情は真剣だ。
「ぼくは、エラ伯母さまの操り人形になんてなりたくない」
「それは分かるけれど。話が飛躍しているわ」
「してない」
ティルダードは、むっとしたように頬を膨らませた。
子どもらしいそのしぐさに、なぜかほっとする。
ようやく、元のティルダードが戻ってきたのだと感じることが出来て。
「このサラーマは、カシアとウェドの脅威にさらされ続けてきたんだよ」
「え、ええ。そうね」
「じゃあ、もしもの仮定だけど。カシアとウェドが協定を結んだら、どうするのさ。一国だけでは何ともできないよ」
弟の言葉に、呆気にとられた。素直な感情をぶつける彼を、子どもらしいと思ったばかりなのに。
今のティルダードは、国を治める立場で話している。
「エラ伯母さまがカシアの王子と結婚して、両国の関係が良いかというと、別にそんなこともないでしょ?」
「嫁がれて一年ほどは、良好だったそうですが。今となっては同盟も形骸化していますね」
無理もない。アフタルは肩をすくめた。
形だけの政略結婚。伯母さまは、カシアでは妖婦と渾名されるほど、男性を好むことで有名だったのだから。しかも現在は、サラーマに戻ってきている。
彼女が髪を決して伸ばさないのは、夫に対する貞淑さではなく、今もなお妃殿下であることを誇示するためだろう。
「姉さま、剣闘士の助力を得たんでしょ。それは今だけのこと?」
「いいえ。彼らに安住の土地を与えようと思っています。パラティア地方に」
事後承諾になってしまったが。大臣たちが反対したとしても、アフタルは一歩も退くつもりはなかった。
国が混乱していても、彼らは動こうともしない。ただ遠巻きに成り行きを見ているだけだ。
広間で矢を射かけられた時、幾人かの大臣の姿を見かけた。階段の上の衛兵の後ろに。ただ脅えるような瞳で、アフタル達を見下ろしていた。
「一国だけでは、なんともできないと言いましたよね? ティル」
「う、うん」
アフタルは自分の閃きに、顔を輝かせた。
「ティルダード。あなたはやはりサラーマの王になってください」
「だから、それは」
「わたくしはパラティアに国を作ります。剣闘士達と共に暮らせる国を。そうすれば、わたくし達がサラーマを守ることができます」
「姉さま」
ティルダードは口をぽかんと開いた。それこそ、思いがけぬ提案だったようだ。
「常々思っていました。同盟のため、経済的な事情のために、政略結婚に頼るのは違うのではないかと」
だが、それを口にすると単なる我儘だと言われそうで。黙っていたけれど。
「たとえカシアやウェドが侵攻しようとしても、サラーマに至るには必ずパラティア地方を通らなければなりません。ただの王領地であるよりも、あの地に建国した方が有益だと思いませんか?」
「ぼくがサラーマの王で、姉さまがパラティアの王?」
「わたくしが王というのは、おこがましいですから。なにかそれらしい称号でもあれば」
考えが閃いたのか、ティルダードがパンッと手を叩いた。明るく弾ける音だった。
「大公! 位でいったら王の下で、公の上。大公が治めてる国があるって、習ったよ。パラティア大公国、どうかな」
「パラティア大公国」
その名を口にすると、あの湖を吹き抜ける風を感じた。
滞在していた期間は、そう長くはないはずなのに。さざ波の音と温い風を懐かしく感じる。
そこに、あの人がいればいいのに……と思うのは、未練なのだろうか。
ミーリャには、シャールーズの元へ向かってもらうように頼んでいる。王宮に入ってから一度も彼の姿を見ていないし、気配も感じない。
王宮内に詳しいミーリャと、偵察が得意なカイならば、きっと彼の居場所を探り出してくれるだろう。
「姉さま?」
「あ、ごめんなさい。少しぼうっとしていました」
「この国を二つにするの、賛成だよ。蒼氷のダイヤモンドは姉さまが持つのにふさわしいもの。だから……ラウルは、姉さまと一緒がいいんだよ」
言い終わったティルダードは、びっくりしたように口に手を当てた。
「すごい。言えたよ。全然、ラウルの名前を言えなかったのに」
「光栄でございます、殿下」
ラウルが姿勢を正して、頭を下げる。
扉が開いたままの入り口で、ササンが優しい笑みを浮かべていた。
「バカなことを言わないで!」
けたたましい足音を立てて、部屋に乗り込んできたのはエラだった。
「ササン。あなた、それでも見張りなの?」
「はて、いつのまに王女が侵入したのやら」
それは明らかな嘘だけれど。どうやらササンはエラが来たことにも気づかなかったようだ。
暢気にもほどがある。
「アズレット」
エラがあごをアフタルの方に向けて、騎士団長の名を呼んだ。それだけで、アズレットはずかずかとアフタルに向かってくる。
アフタルとアズレットの間に、ラウルが立ちはだかった。だが次の瞬間、剣を抜いた騎士団長にラウルは斬りつけられた。
左の肩から右の胸にかけて。
「ラウル!」
アフタルは悲鳴を上げた。ティルダードは声を上げることもできずに、がくがくと震えている。
ラウルはよろめいたが、血を流してはいなかった。
足元へ落ちていくのは、薄青い破片。
とっさにラウルが張った結界だ。
「貴様……まさか」
「私が負傷するようなことがあっては、姫さまをお守りする者がおりませんから」
床に落ちた破片をエラが拾い上げた。
「昔、見たことがあるわ。赤毛の精霊がタフミネフを庇おうとして、緑の壁を作った。あの時も、こんな風に緑の破片が散らばって」
「伯母さま、まさか母さまのことを」
なぜ百年ほども前にサラーマに届けられた宝石が、似たような時期に精霊として現れたのか。アフタルはやっと分かった。
王家に危機が訪れたから。
だから王族であるのに、エラには精霊がついていない。彼女が禍そのものであるからだ。
本来ならば王である父につくはずだったラウル。父の急逝にエラが関わっていることは明白だ。
だが、エラにとってほんの半年ほど前まで、父は邪魔な存在ではなかったのだろう。
闘技場での儲け、ワインと引き換えに人身売買を行っていたこと。それらを父に指摘され、禁止されたのだとしたら。
アフタルは、指の関節が白くなるほどに拳を握りしめた。
ぎり、と奥歯を噛みしめ、エラを睨みつける。
「あんたが……蒼氷のダイヤモンド? 王の証なのね」
確認するような問いかけだった。
突然、甲高い笑い声が室内に反響した。
「いいわ。いいわよ、アフタル。素敵なことを考えたわ」
さも楽しそうに、エラが赤い唇を歪めながら笑う。
「池に大潮の蓮を咲かせましょう。タフミネフの時は失敗したけれど。娘のあなたは成功させてあげましょうね」
鼓膜が痛むほどの笑い声を立てながら、エラは閉じた扇をアフタルの方へ向けた。
「……大潮の蓮」
その言葉を口にしたアフタルは、鳥肌が立った。
顔を真っ青にしたティルダードが、アフタルにしがみつく。