9-6 思わぬ提案
ティルダードの部屋の前には、護衛が立っていた。
近衛騎士団副団長のササンなのだ……が、やる気なさそうに剣を床につき、それを杖代わりにして体重を支えている。
彼は正妃パルトから、ティルダードのことを託されている。こちらの味方のはずだ。
「ようやく来おったか」
アフタルとラウル、そしてミーリャの姿を認めて、ササンは目を細めた。
若く見えるのに、妙に老成しているというか。なんとも不思議な雰囲気の青年だ。
「ティルダードに会わせてください」
「ふむ。彼は幽閉されておってな。我は手を出すことができぬ」
「幽閉って。エラ伯母さまにですか?」
アフタルはササンに詰め寄った。
エラとティルダードの関係が良好であるはずがない。それは分かっていたけれど。まさか閉じ込められるなんて。
「開けてください」
「できぬ。しがない副団長の身では、団長の命令には背けぬからな」
ササンはアフタルの願いを、冷たく突っぱねた。
「だが、我が瞬きをしている間に、そなたらが突入するのを止めることはできぬ。我は眼が乾燥しやすいのでな、少々瞬きが人より長いやも知れぬが」
そう告げると、ササンは瞼を閉じた。瞬きというには、一向に目を開く気配がない。
これは、つまり……。
アフタルはササンの足下に鍵が落ちているのを見つけた。それを急いで鍵穴にさしこむ。
カチャリ、と音がした。
「ティルダード。アフタルです。入りますよ」
ためらいがちに声をかけてから、アフタルは扉を開いた。
室内は散らかっていた。本やクッションが床に散乱している。机の上も紙やペンが乱雑に置いてある。
何かを書こうとして失敗したのか、紙が何枚も丸められて床に落ちている。
ベッドは整えられているから、侍女が部屋を掃除した後に、ティルダードが散らかしたのだろう。
ラウルは床から本を拾い上げ、本棚に戻していった。
ティルダードが無言で、ラウルを見つめている。その瞳は、何か言いたそうなのに。ただ口を噤んでいるだけだ。
「殿下。片づけはちゃんとなさらないと。あと、苛立つことがおありになっても、物に当たり散らすのはおよしなさい」
ラウルはまるで以前のままのように、ティルダードをたしなめた。
だが彼は、座ったまま背中を向ける。
「なんでだよ!」
壁を見つめたままで、ティルダードは大声で叫んだ。
その声は、小刻みに震えている。
「なんでぼくを置いていったんだよ」
「ティル……」
事情があったのだ。仕方がなかったのだ。そんなことはティルダードも分かっているだろう。
理解はしていても、感情が納得していないことは、アフタルにも分かる。
何を言っても、言い訳にしかならない。
アフタルは足を進めて、ティルダードを背もたれ越しに抱きしめた。
「離してよ」
「いいえ。離しません」
「今更だよ。ずっとぼくのことを放っておいたくせに」
ティルダードがもがくけれど、アフタルの腕から逃れることはできない。けれど、実際はアフタルの力程度なら、十歳の少年であっても、ふり払うことはできる。
でも、ティルダードはそれをしない。
「大好きですよ。ティル」
「ぼくは嫌いだよ」
「ええ。嫌いでもいいんです。わたくしは好きですから」
「ぼくは、その……そこの姉さまの僕を、捨てたんだよ」
ティルダードはラウルへと視線を向けた。
「姉さまが拾ったんでしょ? よかったよね、君。姉さまのそばにいることができて、うれしいでしょ」
「ティルダードさま」
ラウルが困ったように、眉を下げる。どこまでティルダードに近づいていいのか、距離をはかりかねているようだ。
仕方のないことだ。かつての主とはいえ、一方的に契約を解除され、しかもティルダードはラウルのことを名前で呼ぼうともしないのだから。
「アフタルさまがティルダードさまのことをお好きでいらっしゃるように、私もティルダードさまのことを慕っておりますよ」
「嘘だ! 嘘だよ……嘘って言ってよ」
ティルダードの声は、徐々に小さくなっていく。
「ぼくのことを恨んでよ。嫌いだって言ってよ。じゃないと……ぼくは」
わななく唇を噛みしめて我慢していたが、とうとうティルダードは泣きだした。
「ぼくは……君を恨むことができないじゃないか」
膝の上でぎゅっと握ったティルダードの拳に、ラウルは手を添えた。
椅子の前にひざまずいて、ティルダードの涙をぬぐう。
「たとえ一時であったとしても、私はティルダードさまにお仕えできたことを、光栄に思いますよ」
ラウルはティルダードをじっと見つめ、一言一言を大事に紡いだ。
「君の名前も、君が何であるかも口にできないのに?」
「理由がおありなのでしょう」
「君のことを嫌いすぎて、忘れたんだもん。シャールーズが、ぼくが君を人として扱わないから、縁が切れたって言ったんだもん」
ラウルとアフタルは顔を見合わせた。
シャールーズの言うことは、間違いではないだろう。だが、寂しさに囚われた少年にかける言葉としては、配慮に欠けすぎている。
「でも、さすがにやりすぎた……気がする。シャールーズに毒を飲ませるんじゃなかった」
「ティル?」
突然の告白を理解するのに、アフタルは少し時間を要した。
「すぐに吐いたから……平気だったけど」
「そうね。平気だから、問題がないというわけではないですね」
シャールーズが毒をあおったという事実に心は乱れるけれど。平常心ではなかったティルダードにそれを問い詰めても、意味がない。
ひどく叱られるだろうと覚悟していたはずのティルダードは、拍子抜けしたように肩越しにアフタルを凝視した。
「……ごめんなさい」
肩を小刻みに震わせ、歯を食いしばっている。
「ごめんなさい、姉さまの大事な人にひどいことをして。ごめんなさい、君のことを憎んで、名前すら忘れて……知ってるはずなのに、口にもできないし、文字で書くこともできないんだ」
「気になさることはありません。それは、恐らく外的な力によるものだと思います」
丸めて捨てられた紙。きっと何度もラウルの名前を書こうとしたのだろう。
「鳩が襲われてるって聞いたのに、それでも姉さまや母さまを恨んでたんだ」
食いしばったティルダードの歯の間から、嗚咽が洩れる。
「許して、ぼくを……どうか、許して」
ティルダード小さな両手で顔を覆って泣きだした。
守られるべき存在。なのに守ってあげることができなかった。
アフタルは、ティルダードの頭に、そっと額を寄せた。
「これからはわたくしが、ティルを支えますよ。今はまだその時ではありませんが、あなたはこの国の王となるのですから」
「……いいんだ、もう」
「ティル?」
握りしめた拳で涙をぬぐうと、ティルダードはアフタルをまっすぐに見つめた。
強い瞳。何を決意したのかと、身を引き締める。
「姉さま……ううん、アフタル王女。あなたが王になってください」