9-4 王宮へ参ります
ミトラとの約束通り、剣闘士は王宮に突入することを了承してくれた。
翌朝。アフタルは二十人ほどの剣闘士を引き連れ、王宮の見える広場に立った。
「侵入経路の確認がしたい。見取り図を見せてもらってもいいか?」
たった一晩なのに、カイは流暢なサラーマ語を喋っている。
アフタルが呆気にとられていると、ミーリャが苦笑した。
「カイは、サラーマ語の基礎はできてるから。昨日、猛特訓したのよ」
「どうして、そこまで」
尋ねるアフタルに、カイが向き直る。
「あなたは俺達のために、未来と安住の地を約束してくれた。ならば力を尽くすのは当たり前のこと。そんな時に敵……あなたにとっては身内かもしれんが。奴らの会話を聞き逃すことがあっては、事がうまく運ばないだろう?」
「だな。消えちまったが、俺も赤毛の姉ちゃんとの約束は果たすぜ。カシアの妃殿下っつうか、妖婦から王子を解放すりゃいいんだろ」
アフタルの背中を叩いたのは、ミトラに負けたゲラーシーだ。
本人は軽く叩いたつもりだったろうが、何しろ鍛え上げられた剣闘士の力だ。アフタルはよろけてしまった。背中もじんじんと痛む。
「姫さまっ!」
倒れるアフタルの体を、ラウルが両腕で抱え込む。もう少しで地面に顔をぶつけるところだった。
「無礼な」
ラウルが冷ややかな瞳で、ゲラーシーを睨みつける。
「いやー、すまんすまん」
「『すまん』で済ませてよいことではありません。姫さまにお怪我があれば、どうするつもりなのですか」
巨躯のゲラーシーに向かって、ラウルは一歩も退かない。こんな所で揉めている場合ではないと、アフタルは二人の間に割って入った。
「わたくしは大丈夫ですから」
「そうだぜ。本人がこう言ってるじゃないか。兄ちゃんは、過保護なんじゃないのかい?」
ゲラーシーに指摘されて、ラウルは不機嫌そうに唇を引き結んだ。
「過保護なくらいで、ちょうど良いのです」
ラウルはアフタルを、自分の背中に隠した。だが、彼らの口論に付き合っている暇はない。アフタルは王宮の見取り図を手に、カイに近寄った。
「姫さま。勝手に離れないでください」
どうやらラウルは、アフタルとの距離を一歩以内と決めているようだ。常にぴったりと傍に寄り添っているし、わずかでもそれを越えると、慌てて駆け寄ってくる。
「気にしなくても平気ですよ」
「いいえ。私はシャールーズから、姫さまをお預かりしてるのですから。もしものことがあってはなりません」
ふと、ラウルは考え込むように自分の顎に手を添えた。
「もしや、暑苦しいですか?」
「いえ、そんなことはないですけど。むしろ、涼しさを感じるくらいですが」
圧迫感がすごいのだ。
あと、剣闘士の皆さんに興味本位にじろじろと眺められている。
「これが王宮の見取り図です。参考になると思います」
アフタルが一枚の紙をカイに手渡す。
カイは真剣に目を通すと、見取り図の上を何度も指でなぞった。
表門に衛兵は何人いるのか、裏門の警備状況や、近衛騎士団について事細かに説明を求められる。
アフタルだけでは分からない部分は、ラウルが補足してくれた。
ティルダードに仕えていただけあって、近衛騎士団に関しては、ラウルの方が詳しい。
「あの、ありがとうございます」
「別にあなたの為だけではない。俺達としてもこれ以上の犠牲は避けたいんだ」
紙から視線を外さずに、カイが答える。
「カイは熊みたいに図体が大きいから、体力馬鹿だと誤解されやすいんですけどね。どちらかというと偵察や索敵が得意なんですよ」
ミーリャの説明に、人は見かけによらないものだと、アフタルはうなずいた。
剣闘士達が、闘技場を抜け出すのは簡単だったらしい。これまで剣闘士が従順だったせいで、まさか一斉に蜂起するとは思わなかったようだ。
信仰の自由を餌に、身体を拘束されて理不尽な闘いを強いられていたのだから。
その自由が約束されたなら、彼らには従う理由もない。
闘技場の支配人がどうなったかは、聞かない方がいいだろう。そんな気がする。
「裏門から侵入するとして、表門の衛兵を足止めしたいところだ」
「いい考えがあります。囮を使いましょう」
ぱん、とアフタルが手を叩いた。
そして茂みの方へと向かう。むろん、すぐにラウルが後を追いかける。
「姫さま、何をなさるのですか?」
「可愛い侵入者を、まず捕獲しましょう」
地面に開いた穴を確認すると、アフタルは紙を丸めた。筒にした紙を、穴に当てている。
「説明していただいてもよろしいでしょうか?」
「しーっ。静かに」
アフタルは、唇の前で人差し指を立てた。
しばらく待っていると、のそのそと筒の中に目的のものが入ってきた。
「捕まえました」
そっとてのひらに載せたのは、ハリネズミだった。
ハリネズミは可愛い。とくに小さなハリネズミが道をうろついていたりすると、つい抱き上げて保護したくなるほどに。
「でも、ハリネズミ派だけではないでしょうから」
ラウルにハリネズミを預けると、アフタルは周囲に視線を走らせた。
「あ、あの。私は、こういう珍妙な怪物に触れるのは初めてなのですが。噛みませんか?」
「怪物ではありませんよ。でも、驚かせば、噛みますよ」
「あの、背中一面に針が……」
「刺されないように、気を付けてくださいね」
「……っ」
ラウルが声にならない悲鳴を上げる。
次にアフタルが見つけたのは、猫だ。白くてしなやかで、なのにもふもふ。
(ああ、なんて綺麗なんでしょう)
うっとりしながら抱き上げると、猫の胴が伸びる。そうそう、猫はこうでなくては。
「姫さま。これも怪物ですか?」
「まぁ、失礼ですね。こんなに可愛い猫なのに」
「ですが、ありえないほど伸びています。そのまま、にょいーんと伸びて、うねうね地面を這って進みそうです」
「……面白いことを考えるんですね」
どこまでも長く胴を伸ばして、両手両足を地面にぺたりとつけて、蛇のようにうねる猫とは。ラウルの発想は、なかなか独創的だ。
アフタルの目論見通り、表門にまずは猫を放した。門の左右に立つ衛兵が、にっこりと笑みを浮かべる。
(そうでしょう、そうでしょう。「可愛い」は最強ですものね)
門の番をするにあたっては、厳格でなければならないとか、無表情であるべしとの教育は受けていないようだ。
「ふふふ、ここからが本番ですよ。さぁ、お行きなさい」
猫の姿で、ほどよく気持ちが癒されたところに、庇護欲をかきたてるハリネズミを投入する。
とてとて、といかにも頼りなさそうに歩くハリネズミ。
「おいおい、どうしたんだ。危ないぞ」
「お前さん、大丈夫か?」
衛兵の二人が、慌ててハリネズミを抱え上げる。
アフタルは、にやりと口の端を上げた。
「パンを食うかな」
「どっちかっていうと、虫か?」
もうハリネズミに夢中だ。巣穴から出してしまったのは申し訳ないけれど。おいしいものを、たっぷりと食べさせてもらえるだろう。
剣闘士達は、その隙に裏門へと向かった。
裏門の衛兵は一人。ならば彼らは、衛兵を誰にも気づかれることなく気絶させ、王宮に侵入することが可能だろう。
(まぁ、緊迫感が欠如しているというか。護りがゆるすぎるのは大問題ですが)
明るい空に、まるで蜉蝣の翅のように、青白い満月がうすぼんやりと見える。
今日は大潮だ、とアフタルは気付いた。
三王国では月の引力が大きく、満月の日には海の潮位が変化するだけではなく、湖や池でも水面が上がる。
ふと、予感めいたものが頭をよぎった。