9-2 夢を見ました
その夜、アフタルは何度も寝返りを打った。
ここは女神フォルトゥーナの神殿。以前、泊めてもらった簡易宿泊所とは部屋が違う。
いや、同じ部屋で良いと言ったのだが。神官と巫女がひざまずき、地面に額を付けるほどに頭を下げて「どうか、貴賓室をお使いください」と申し出てくれたのだ。
王宮や離宮で使っているような、大きくてふかふかのベッド。それぞれに一部屋ずつ用意してくれたが。ラウルは、心配だからとアフタルと同じ部屋を使っている。
(前回は、これで失敗したんですよね)
神殿で聖娼にされそうになったことも、今では遠い出来事のように思える。
ラウルは「私は姫さまの護衛ですから」と、何度も神官に念押ししていた。
貴賓室に簡易ベッドを持ち込んで、ラウルは横になっている。
「姫さま、眠れませんか?」
「ええ、そうですね」
さすがに巫女と顔を合わせるのはバツが悪かったが。生憎、空いている宿もなく。
ここは遠慮するよりも、相手の後ろめたさを利用しなさい、とミーリャにたしなめられた。
蝋燭に灯された室内のには、壁画が描かれている。たわわに果実を実らせた木々、その下に憩うように座る三神。すべて女神だ。
相当古いものらしく、色あせて剥げている部分も多いが。鼻が長く、耳の大きな動物を従えている女神と、女神フォルトゥーナ。そしてカシア側の湖畔の防衛拠点である、オスティアで見たことのある女神像と同じ姿。
ラウルは、簡易ベッドに上体を起こして、壁画の女神をじっと見つめた。
蝋燭が照らす横顔が、愁いを帯びて見える。
「これはプリミゲニアの女神たちですね」
プリミゲニア。始祖の神。
「離宮にいる時に、書物で読みました。フォルトゥーナは今も信仰が盛んですが。マグナ・マテルはこの地を去り、キュベレーは信仰そのものが失われました」
「マグナ・マテル……ですか」
「いつかこの地に戻ってくると書かれていましたよ」
アフタルが付け加えると、ラウルは柔らかな微笑を浮かべた。
「そう遠くない未来だと、よろしいのですが」
「ラウル。もしや、あなた方に生命を吹き込んだのは、マグナ・マテルなのですか?」
「はい。その名前は初めて聞きましたが。私達は、天の女主人と呼んでいました。……いえ、正確ではありませんね。私は彼女のことを『おばさま』シャールーズは『おばさん』と」
始祖の女神と、宝石の精霊たち。とても親しく、近い間柄だったのだろう。
ラウルが語っているのは、女神というよりも肉親のような関係に思えた。
「でも、どうしてこの壁画で分かったのですか? かなり劣化して判別しにくいと思いますが」
「……女神の使いが描かれています」
「はい?」
「ぱお……」
奇妙な言葉を口にしかけたラウルは、突然顔を赤らめた。蝋燭の仄かな明かりでも、はっきりと分かるほどだ。耳まで赤い。
「いえ、すみません。間違えました。象でした」
なるほど、あの動物は象といい、さらに別名があるのだとアフタルは納得した。「ぱお……」とは、どこかで耳にした記憶があるけれど。
あまりこの話題を続けない方がよさそうな気がして、ラウルには尋ねなかった。
天の母神がマグナ・マテルなら、地の母神はキュベレーだ。キュベレーは両性具有であったが去勢された女神で、自らの体を刃物で傷つけることが信仰の証とされていた。それゆえ、古い時代に信仰を禁じられたと書物には記してあった。
「精霊は、神話の時代から生き続けているのですね」
「私達四人が最後ですよ」
ラウルの声は寂しげだ。
まるで彼らが、神話が静かに終わりゆく存在そのものであるかのように。とても儚い。
窓の外からは、虫の鳴く声がする。離宮のあるパラティアよりも、王都の方が涼しい。
ラウルは立ち上がると、横たわるアフタルの首元まで毛布を掛けた。
「どうぞ、ゆっくりとお休みください」
促されて、瞼を閉じる。
ひどく疲れていたらしい。アフタルはすぐに眠りに落ちた。
これが夢だと分かったのは、辺りに色がなかったからだ。
白い靄の中を、アフタルは歩いていた。
ぼんやりと見える木々の影は黒。黒と白、そしてその濃淡だけで出来ている世界。
裸足のまま歩いていると、前方に誰かが倒れていた。
「大丈夫ですか?」
アフタルは思わず駆けよった。その人は、アフタルに向かって手を伸ばしている。
靄がかかって、その人の姿ははっきりとは見えないが、輪郭から男性であることは分かった。
手を差し伸べようとしたアフタルは、瞠目した。
彼の手が鮮血で染まっていたから。
白黒の世界で、その血だけが目に痛いほどに赤い。
風が吹き、白い靄が晴れた。そこに倒れていたのは、口から血を流したシャールーズだった。
「きゃああああっ!」
自分の悲鳴で、目が覚めた。
「大丈夫ですか。アフタルさま」
ラウルがかけつけ、飛び起きたアフタルを支えてくれる。
がくがくと体が震えて、止まらない。寒いわけではないのに、寒気を感じる。
(シャールーズが……)
手で顔を覆い、きつく瞼を閉じる。思い出したくもないのに。血を吐いた彼の姿がまざまざと甦る。
「ラウル。わたくし、王宮に行かなくては」
来るなと命じられた。もう興味がない、つきまとわれると迷惑だ、とも。
「アフタルさま、今は夜中です。動くことはできません」
「でも……」
あれがただの夢とは思えない。
シャールーズにすでに嫌われているのなら、さらに嫌悪されても同じこと。
「せめて朝までお待ちください。姫さま一人を向かわせることはできませんし。ミーリャやカイも疲労がたまっているでしょう」
たしなめられて、はっとした。
そうだ、自分は王女なのだ。個人の気持ちだけで動けば、何人にも無理を強いることになる。
「分かりました。わたくしも眠って体力を残しておきます」
「あ、ありがとうございます」
自ら提案したのに、あっさりとアフタルが承諾したことを、ラウルは意外に思ったようだ。
(視界が狭くなってはいけません)
アフタルはうなずき、ベッドに横たわった。
◇◇◇
「あー、参ったぜ」
石の床にごろりと寝転がったシャールーズは、服に染み込んだ酒のにおいにうんざりしていた。
口にした毒の酒は飲みこむことなく、手首まで覆う袖の中に吐いた。こぼれ落ちた分は、膝の上に落とした布巾に染み込ませて。
「目眩がするんだよな。あと気持ち悪ぃ 」
少しは毒を吸収してしまったのだろうか。
「っていうか、どこだよ。ここ」
小部屋なのだが。入り口にあるはずの壁はなく、代わりに金属の格子が天井から床まで嵌めてある。
鈍く痛む頭を手で押さえながら、窓から外を覗く。
「……まじぃな」
まず目に入ったのは、屋根だ。しかも上から見下ろす状態で。
見慣れた庭は遥か下方にあり、やたらと夜空が近い。門番なんてまるで昆虫のような小ささだ。
「俺、もしかして囚われの身ってヤツか?」
おいおい。普通は塔に囚われるのって、お姫さまとかじゃねぇのか?
こんな筋肉質の姫は、聞いたことがねぇ。