2-1 弟に見られました
カシャン……。
硬く儚いものが砕け散る音がした。それまでアフタルとシャールーズを守っていた宝石の結界が解かれた。
煌めく欠片が、はらはらと地面に落ちていく。
行く手を阻まれていた豹が自由になり、二人へのっそりと向かってくる。
アフタルは、シャールーズの背にまわした手に力をこめた。
「さて、どうする?」
「逃がしてください」
「仰せのままに、我が主」
シャールーズはアフタルの肩を膝の裏に手をかけると、そのまま横抱きにした。
「しっかりと掴まっておけ。跳ぶぞ」
命じられるままに、彼の首にしがみつく。
一度身を屈めると、シャールーズは高く跳躍した。
アフタルの汚れたドレスの裾と、シャールーズが腰に結んだ布が風にはためく。
観客も司会者も呆気にとられたのか、広い場内を静寂が支配した。
一瞬の後、大気を震わせるどよめきが起こる。
観客席と中央のアリーナを隔てる壁に、シャールーズは降り立った。
「騎士かい? あのお方は、姫の窮地を救いに来た騎士なのかい?」
「野外劇場でこんなの、見たことがあるよ」
女性客たちが、興奮気味に声を上げる。
「よかったな。受けてるぜ」
「……どうしてそんなに余裕があるんですか?」
まだ怖くて震えているアフタルと違い、シャールーズは楽しそうだ。
「お待ちなさい! まだ見世物は終わっていないんだ」
司会の男が、慌てて駆けつける。
「馬鹿かよ。待てと言われて、待つわけねぇだろ」
「その娘を返しなさい」
司会の男が伸ばした腕が、アフタルのスカートを握った。
「きゃあっ」
ぐいっと体が引っ張られ、アフタルはシャールーズの腕から落ちそうになった。
「おい、こら。おっさんよぉ。誰がアフタルに触れていいと言った」
シャールーズは不機嫌そうに眉をしかめた。
「これ以上、アフタルに汚ねぇ手で触ってみろ。てめぇ、殺すぞ」
「その娘は今日一番の目玉なんだ」
「無力な娘が、豹に食い殺されるのを眺めるのが娯楽か。ふん、趣味が悪いな」
「違う。あの杭の足元が奈落になっていて、まるで魔法のように……」
そう言いかけて、司会の男は口をつぐんだ。シャールーズが「へーぇ」と意地の悪い笑みを浮かべたからだ。
「聞いたか、アフタル。面白い仕掛けがあったみたいだぜ」
アフタルの耳元で、シャールーズが囁く。
「仕掛け?」
「そうさ、アフタルが今にも食われそうになったら、あの杭ごと地下に落ちるっつうわけだ。大半の観客は豹が勝つ方に賭けるわけだから、そりゃ大儲けだな。偶然、地面が陥没しました、不可抗力ですって言い訳するんだろ」
「なっ!」
図星だったのだろう。司会者は顔を真っ赤に染めた。
「んじゃ、その仕掛けとやらがうまく作動するか試してみないと、いけねぇよな」
シャールーズが、司会者の額を蹴とばした。思ってもみない場所への攻撃だったのだろう。司会者はそのまま、砂に黒いしみの残るアリーナへと落下した。
「じゃあな。頑張れよ」
ひらひらと手を振ると、シャールーズはアフタルを抱えたまま踵を返した。
一斉に熱狂する観客の歓声と、司会者の悲鳴。とてもアリーナの方を見る気にはなれない。
(もしかしてわたくしは、早まったのでしょうか)
守ってくれたから、手を差し伸べてくれたから。アフタルは迷うことなく、シャールーズと契約を結んだ。
けれどたとえ血が流れていても、それは人のものではない。
精霊と間近で接することのなかったアフタルは、シャールーズの過剰な愛情と徹底した無関心に背筋が凍えた。
「姉さま!」
ざわめきの中、はっきりとした声がアフタルの耳に届いた。
まさか……まさか。あの子がいるはずが。
顔を上げたアフタルの目に飛び込んだのは、弟ティルダードの姿だった。
頭からフードをかぶり、その柔らかな金糸のような髪も、つぶらな緑の瞳も隠しているけれど。間違えようがない。
次代の王だ。
「なぜ、ここに?」
「姉さまこそ。キラド家を訪問していたはずです」
「わたくしは……」
なんと言えばいいのだろう。見世物に売られたこと? 誘拐されたこと? 婚約を破棄されたこと?
どれも情けなくて、口にできやしない。
ティルダードが座っているのは、王族専用の観覧場所ではなく、平民用の席だ。席同士の幅も狭く、ティルダードの細い体は、隣に座るでっぷりとしたおばさんに押された。
「大丈夫ですか?」
よろけるティルダードをとっさに支えたのは、美しい青年だった。
銀色の髪に、アイスブルーの瞳。
護衛でも、家庭教師でも、使用人でもない。一度でも会ったことがあるなら、決して忘れることのできない冴えた美貌だ。
「平気だよ、ラウル」
「ですが、お召し物が汚れてしまいました。こんな席を使うのはよしましょうと、申し上げたはずですが」
「いいんだ。ぼくは表に出ない方がいいから」
ラウルと呼ばれた青年を押しのけて、ティルダードがアフタルの方へと進む。
観客席の通路を、警備の男たちが走ってくる。もちろんシャールーズめがけて。
「姉さま。一緒に逃げましょう」
「なりません」
制止したのはラウルだった。
「だって、姉さまが捕まってしまうよ。またひどい目に遭っちゃうよ」
気丈に振る舞っていたティルダードが、目に涙を浮かべる。
腕を握りしめるラウルの手をほどこうとするが、大人と子どもでは力の差は歴然だ。
「離してっ!」
「放っておきなさい」
ラウルに腕を掴まれたティルダードは、彼をきつく睨みつけた。けれどラウルの表情にも、薄青の瞳にも感情の揺らぎはない。
「ぼくが姉さまを助けたいのに。それでも、ラウルは駄目だって言うの?」
「……ティルダード」
アフタルは感極まって、弟の名を呼んだ。
いつも大人や家庭教師ばかりと接しているせいで、ティルダードは十歳という年齢の割には、大人びていたり妙に子どもっぽかったりと、均衡がとれていない部分がある。
体が弱くて優しい弟。いつも王宮にいて、滅多に外出することもないのに。
(これは偶然なの?)
アフタルの疑念は、冷ややかなラウルの声にかき消された。
「ティルダードさまが、姉上をお助けする必要はございません。ご自分のことのみをお考え下さい」
「できるわけないじゃないか! そんな自己中心的なこと。ぼくは将来……しないといけないんだから」
ティルダードが呑みこんだ言葉が「即位」であると、アフタルには分かった。
「アイスブルー。お前、弟くんの教育係になったのかよ」
気軽に声をかけたのは、シャールーズだった。
「ラウルです。いい加減に覚えなさい」
「はいはい、頭の固い兄さんだねぇ。弟くんも大変だ」
「あなたのような、ずぼらな男にはなりたくありませんから」
「へっ。久しぶりに会ったくせして、言いやがるぜ」
シャールーズは、口の端をゆがめた。まるで旧知の仲のような口調だ。
「天の女主人も趣味の悪いことをなさる。聖なる石に宿る清らかな精だけに、命と姿を与えればよいものを」
「清らかじゃねぇか。ほら、見てみろよ、この澄んだ目」
えらそうに上から見下ろされて、ラウルは眉間に深い谷を刻んだ。
「まず、その汚らしい無精ひげ。衆人環視の中で主を血まみれにし、卑猥にも接吻をする! それのどこが清らかなのですか」
口にするのもおぞましいという風に、ラウルは口もとを手で払った。
「契約だから、しゃあねぇだろ」
「……契約はくちづけという行為を必要としませんが?」
「え?」
二人の口論に口を挟んだのは、アフタルだった。
「ばれちまったか。ま、役得って奴さ。じゃあな、アイスブルー。どうせまた会うだろうけどな」
「私は会いたくありません」
「いやー、俺の主が弟くんでなくて、よかったぜ」
シャールーズがアフタルを抱えなおした時のことだった。
上方の離れた席で、爆発音がしたのは。
アリーナでは、豹に跳びかかられた司会者の姿が消えたことに、観客が驚いたり抗議の声を上げたりしている。
空席の一角が煙に包まれているが、興奮した観客は、自分たちから遠い席のことにあまり興味を示さない。
「あの席は……」
アフタルは、ぞっとした。
そこは王族専用の、ティルダードが座っているはずの席だった。