8-5 説得が難しいです
闘技場の中は、熱気に満ちていた。
飛び交うヤジに耳が痛い。賭けに負けた人が捨てたのだろう。通路の端には風に吹かれた紙片が、盛り上がっていた。
「以前よりも、荒んでますよね」
「そうですね。私が殿下と訪れた時よりも、ひどい状態です」
ヤケ酒をあおったのか、壁にもたれて眠りこけている男の姿もある。
剣闘士の控えの間に向かうと、カイはすぐに見つかった。
カシアの辺境であるオスティアから、剣奴として連れてこられた兵士達。女神への信仰を捨てぬが故に、奴隷として利用されている。
(彼らを売買しているのも、エラ伯母さまの指示なのですね)
カイに任せておけば、きっと剣闘士たちも大丈夫だろう。こんな苦しい状況から、逃げ出すはずだ。
けれど、その考えは甘かった。
「戻ろう、国へ。こんな所で見世物になって殺されて。そんなのおかしすぎるだろ」
カイが、カシア語で剣闘士達に訴えている。だが熱意ある彼の言葉を、まともに聞こうとする仲間はいない。
「……別にいい。ここなら、女神フォルトゥーナを崇めても、誰も文句を言わない。カシアのように、女神を信ずるだけで弾圧されることもない」
体中に傷痕の残る剣闘士は、倦んだ目で女神像を見上げた。重そうな鎖帷子が、じゃらっと音を立てる。
「どうせどこへ行っても、自由なんかない。このサラーマでは異国の奴隷、母国のカシアでは異端。体の自由を封じられるか、心の自由を封じられるか。その、どちらかだ」
「そうだ。なら、せめて信仰だけでも邪魔されない、この場所にいたい」
彼らの言葉をかろうじて聞き取ることができたアフタルは、胸の前で拳を握りしめた。
「心も体も、縛られてほしくないんです」
剣闘士に向かって、アフタルは話しかける。カシア語は聞き取れるけれど、うまくしゃべることが出来ない。
「ここにいても、未来はありません」
「どこにも未来なんかない」
剣闘士達がアフタルを見る目は冷たい。
(やはりわたくしが、世間知らずの王女だからでしょうか。彼らが剣闘士よりもカシアに戻る方を、厭うているなんて。考えもしませんでした)
剣奴から解放すれば、手を貸してもらえると。疑うこともなく思い込んでいた。彼らの事情も考えぬままに。
アフタルは、うずくまる剣闘士達の前に進んだ。
「それでも、ここにいてはいけないんです。仲間同士、あるいは獣と闘う毎日が、日常であっていいはずがありません」
杭に縛られ、あのアリーナの真ん中で豹に襲われそうになった時のことを思うと、今でも足が震える。
あの時、シャールーズに助けられなければ、この命はとうに失われていた。
膝を折って、汚れた石の床にしゃがみ、剣闘士の手を握る。
「あなた達の力を見世物などに、使わないでください。お願いです。わたくしに力を貸していただきたいのです」
「……嬢ちゃん。どこかで?」
アフタルに手を握られた剣闘士が、まじまじと顔を覗きこんでくる。
「いや、どこかじゃない。この闘技場だ。無駄に色気をふりまく兄ちゃんと逃げ延びた嬢ちゃんだ」
それまでだるそうに俯いていた剣闘士達が、次々に顔を上げる。どんよりと曇っていた彼らの瞳に、光が宿る。
「おお、無事だったんだな」
「カシア語を喋ってるから、分からんかったぞ」
剣闘士達は立ち上がると、アフタルを取り囲んだ。サラーマ語で語り、頭を撫で、肩や背中を軽く叩いてくれる。
たぶん彼らにしては力を抑えているのだろうが、やはり鍛え上げた肉体は違う。
アフタルは触れられるたびに、体が右によろけ左によろけた。
慌てて支えてくれたのは、ラウルだ。
「ついこの間は、弱々しく見えたのにな。いっぱしの面構えになったじゃないか」
「あの兄ちゃんはどうしたんだ? 一緒じゃないのか? あの時の忌々しい司会の男は、仕事を辞めたぞ。相当怖かったんだろうな」
司会というと、シャールーズがアフタルの仇として、豹のいるアリーナに突き落とした男だ。
剣闘士達に親し気に語りかけられるアフタルを見て、驚いたのはカイだった。
「おい、なんでサラーマの王女さまと面識があるんだ? 俺だってアフタル王女の世話になってはいるが。お前ら、気安すぎやしないか?」
一瞬にして、控えの間を沈黙が支配した。
剣闘士たちは、互いに顔を見合わせた。
「そういや、聞いたことがある。サラーマの王族は精霊と契約を結ぶと」
「じゃあ、あの兄ちゃんに公衆の面前で襲われていたのは。あれは契約だったのか」
「襲われた」との言葉に、ラウルが眉をひそめた。
沈鬱そうに、額を指で押さえている。
「だから言ったのです。彼の行動は破廉恥だと」
「でも、そのおかげで剣闘士の皆さんに覚えてもらってますし」
「アフタルさまは、彼を甘やかしすぎです」
まぁまぁ、とラウルをなだめて、アフタルは剣闘士達に向き直った。
「どうか力を貸してください。カシアに居場所がないと仰るなら、このサラーマにあなた方が安心して住める土地を用意します」
「力を貸すって、俺達はなにをすりゃいいんだ?」
アフタルはミーリャへ視線を向けた。ミーリャは表情を硬くしたが、はっきりと頷いた。
決意のこもった顔だった。
「サラーマの王宮は、カシアに嫁いでいたわたくしの伯母、エラによって支配されています。エラと近衛騎士団から王宮を解放し、王太子であるティルダード殿下を救いたいのです」
声が震えないように、かすれないように、一言一言に力を入れる。
この提案が受け入れられれば、ミーリャの母親を、アフタル自身の親族を追い落とすことになる。
軽ければ王家からの追放。もしエラが大罪を犯していたならば……。
アフタルは、唇を噛みしめた。
考えたくはない。けれど、あまりにも事が急に動きすぎた。
「いい、よな」
「ああ、そうだな。どのみち剣闘士を続けていても、いつかは死んじまう」
「辺境に追いやられ、しかも剣奴として売られた俺らの力が役に立つのなら」
話し合う剣闘士達の声に、アフタルはほっとした。彼らの助けを得ることができそうだ。
「俺は反対だ!」
突然、和んでいた雰囲気をぶん殴るような野太い声が上がった。
ふり返ったアフタルが見たのは、剣闘士達の中でもひときわ傷痕の目立つ男だった。
顔にも、鎖帷子がついていない方の腕にも、ひきつれた傷や縫合した痕がある。
「おいおい、ゲラーシー。悪い話じゃないぞ」
「ふん。安心して住める土地? どうせ痩せこけた荒れ地か、岩山にでも押し込めるんじゃないのか?」
「わたくしが申し上げている土地は、パラティア地方です。三王国の湖の畔は、カシアから見れば辺境かもしれませんが。サラーマにとっては離宮のある王家直轄の地。葡萄がよく育つ肥沃な大地と、あなた方の家族がいらっしゃるカシアへ渡るのも容易な地です」
この提案は不満ですか? という気持ちを込めて、アフタルはゲラーシーという剣闘士を見上げた。
「ふん。気にくわねぇな。なにが王女だ。剣闘士の解放だ。単に俺らを利用しようとしているだけじゃないか」
「利用はさせてもらいます。ですが、あなた方にも、わたくしを利用してもらえばいいと思っています。互いに与える物があるので、それを交換しようと提案しているのです」
ゲラーシーは頭が固そうだ。
これまでに何度か騙されたことがあって、用心深くなっているのかもしれない。提案を却下するばかりだ。
(このまま言葉を重ねても、きっと理解してもらえません)
アフタルはミトラが控えの間にいるのを確認した。
「ミトラ姉さま、手伝ってもらえますか」
「へ? いいけど。何をすればいいの? あたし、説得は苦手よ」
ミトラは呆気にとられた様子だったが、アフタルは力強くうなずいた。
「ゲラーシー。わたくしからの提案です。あなたと、わたくしの姉ミトラ。二人が闘い、もし姉が勝利すれば協力していただきます」
「決闘? この俺が女と?」
いきなりゲラーシーは笑い出した。よほどおかしいのか、腹を抱えて肩を震わせている。
「いいぜ。そのかわり、一瞬で殺しちまっても文句は言うなよ」
「言いませんよ」
アフタルはミトラに、双子神の短剣を手渡した。
たとえ見た目は普通の女性でも、馬車で半日の距離を、ミーリャを肩車して駆け抜けたミトラの体力を舐めてもらっては困る。
ゲラーシーのようなタイプを説得するには、力で勝るしかないのだ。