8-4 王都へ向かいます
シャールーズが出発してから数日後、アフタルは離宮を抜け出した。
まだ朝靄の残る白い道を、馬に乗って駆けていく。
数少ない御者に馬車を出してもらうわけにもいかず、乗合馬車の存在も知らない王女にとっては、唯一の手段だった。
なびく髪は、すぐにしっとりと湿り気を帯びる。
(彼一人で、どうにかなるものでもないはずです)
近衛騎士団がついているエラに比べ、こちら側は圧倒的に人が足りない、力が足りない。
数日前、カイも姿を消した。ミーリャは彼について多くを語らないけれど。常にそわそわしている様子を見ると、恐らくはシャールーズと共に王都へ向かったのだろう。
(カイは、彼の足手まといにはなりませんものね)
自分が共にいれば、シャールーズはどうしてもアフタルを守らなければならない。危険な目に遭わせたくないのも理解できる。
(でも、だからといって安全な場所で、問題が解決するのを待ってなどいられません)
――ラウル、いらない。姉さま、いらない。
ティルダードの最後の手紙が、今も脳裏に焼き付いている。
アフタルは唇を噛み、馬の速度を上げた。
一刻も早くティルダードに会わなければ。
あの子を残して去ったのは事実。今更何を言っても、言い訳にしかならないかもしれないけれど。それでも……。
考え事をしながら進んでいると、急に前方に光が満ちた。
「えっ、なに?」
馬が驚いて立ち止まり、前足を高く掲げる。
蒼と鮮やかな緑の光の粒が、渦巻くように降りてくる。
「アフタルさま。困りますね」
朝露のような輝きをまとわせながら、音もなく地面に降り立ったのは、ラウルだった。
「お出かけの際は、私に一言申してくださらねば」
ばれていたのかと、アフタルは肩を落とした。
反対されるから、黙って離宮を出てきたのに。蒼穹の聖道を利用されたら、簡単に追いつかれてしまう。
(連れ戻されたら、監視されてしまいますね。次に抜け出すには、どうすればいいでしょうか)
アフタルはすでに脱出方法について、考え始めた。
なので、気付かなかった。ラウルがひらりと、馬の背に飛び乗ったことに。
「手綱は私が握りましょうか? それともアフタルさまが? 私は王都に入ってからは道がよく分かりませんが」
「ラウル?」
それって、つまり。
問いかける前に、ラウルはうなずいた。
「何度もあなたを阻止したり、追いかけるのも時間の無駄ですからね。さ、参りましょう」
「そーゆーことっ!」
どさどさっ! 派手な音を立てて目の前に人が落ちてきた。
足を踏ん張って着地するミトラ。腰には相変わらず釘つき棒を下げ、ミーリャを肩車している。
不思議な光景だ。
ミトラの頭にしがみついたミーリャは、目を回している。人の瞳が、ぐるぐると動くところを初めて見た。
「訳分かんないんですけどっ。なんで回転しながら着地するんですか? ラウルみたいに、こう『すっ』とか『ひらり』とか、降りれませんかね」
ぼさぼさに乱れた短い髪を揺らしながら、ミーリャはがなり立てた。
「あー、うるさい。カイって熊男がいなくなったから、びーびー泣いてたくせに。だから、あんたも連れてきてあげたのよ」
「泣いてません。失礼ですね」
まだミトラは、ミーリャを地面に下ろそうとしない。
姉との付き合いが長いアフタルには、大体の予想はついている。
(言ってあげた方が親切なのでしょうか? それとも黙っておいた方が、いいのでしょうか)
「あたし達は、どうやって移動するんですか? またあの変な空の道を通るんですか?」
「あたし一人であんたを飛ばせるわけないじゃない」
「じゃあ、乗合馬車を使いますか?」
「まっさかー」
ミトラは口の端を上げて、唇をぺろりと舐めた。
(あ、これは本気状態の姉さまです)
「しっかりあたしに掴まってなさいよ。ミーリャ。振り落とされたら骨折じゃすまないわよ。あと、急には止まれないからね」
「へ?」
「行っくわよー」
一度腰を屈めたと思うと、次の瞬間にはミトラは飛び出していた。まるで弓から放たれた矢のように。
ミーリャの悲鳴が、あっという間に小さく聞こえなくなっていく。
二人の姿も、まっすぐな道の果てに消えてしまった。
「えーと、私達も参りましょうか」
呆然としていたラウルが、我に返る。
「ミトラなら、剣闘士にも勝てそうですね」
「本当に」
アフタルは微笑んだ。
また阻止するのが面倒だと口では言うけれど。アフタルの気持ちを尊重してくれるのが、とてもありがたい。
ミトラ達と再会したのは、闘技場の前だった。
ミーリャは、まだミトラに肩車されたままで眠っている。
「快適だったのでしょうか?」
こんな饐えたにおいのする、ゴミの多い場所でよく眠れるものだとアフタルは感心した。
「そりゃそうよ。安全安心な走行を心がけたもの。しかも対向の馬車も、道を空けてくれたわよ」
「ミトラ姉さまにしては、意外ですね」
暴走する猪のようなミトラなのに。乗り心地(という言い方はどうかと思うけれど)は、悪くないらしい。
「そんなわけ、ないでしょ!」
いきなり、ミーリャががばっと飛び起きた。
「寝てたんじゃないのよ。気絶してたの。卒倒してたの。姫さま、あんたもこの精霊に肩車で走ってもらいなさいよ。どれくらいの恐怖か分かるから」
ミーリャの顔は引きつっている。
「そんな危険なことは、私が許しません」
ラウルが、腕の中にアフタルを閉じ込めた。背後から胴の部分にまわされた腕。細いけれど、逃れようとしてもアフタルは動くことができなかった。
「あんた、過保護なの?」
「過保護ですね」
ミトラとミーリャが、揃ってラウルを見上げる。
アフタルもつられて顔を上げると、背後に立つラウルは口を引き結んで、不機嫌そうな表情を浮かべていた。
「シャールーズから預かった、大切な姫さまをお守りするのが、私の役目。たとえ味方であろうとも、危険は遠ざけるべきです」
堅苦しいなぁ、ラウルは。とアフタルは、苦笑した。
けれどミトラとミーリャは互いに顔を見合わせて、納得いかない様子で眉をしかめている。
「まぁ、いいわ。まずはカイって奴を捜しましょ」
ミトラが聳え立つ闘技場を指さした。三層からなるアーチ窓が、ぐるりと建物を取り囲んでいる。
王族専用ではなく、一般の出入り口から中へと入る。
むっとする大気と獣のにおい。割れんばかりの歓声が聞こえてきた。