1-4 契約します
シャールーズは、誘拐犯たちの出ていった方を一瞥した。
「嬢ちゃんじゃ、どうせ逃げきれないと踏んでんだぜ。甘いなぁ」
「わたくしが逃げられるとは、思いません」
ヤフダとミトラが裏切るはずがない。けれど姉たちの名を騙られただけで、こんなにも心が砕けるなんて。
姉を慕う気持ちを、下衆な男に汚されたことが耐えられない。
「これから、わたくしはどうしたら……」
問いかけたアフタルは、瞬きをくり返した。
確かにそこにいたはずのシャールーズの姿が、消えていたからだ。
「……どうして?」
辺りを見回しても、どこにも彼の姿はなかった。まるで最初から存在しないかのように。
◇◇◇
アフタルの見世物は、建前としては少女と豹の対決だった。
だが実際は、アフタルは闘技場の真ん中で杭に縛りつけられた。
足下は砂だ。アフタルの前の見世物が、剣闘士同士の争いだったのか、獣と剣闘士の戦いだったのかは分からないけれど。
砂に黒々としみ込んだ血の量に、意識が遠のいた。
(忘れていました。今日は最悪な日だったことを)
考えてみれば、初対面の男性が救ってくれるなんて都合が良すぎる。
シャールーズのことをすぐに信じてしまったのは、自分が王女であることに甘えていたからだ。
「さぁさぁ、お集りの皆さま! 本日一番の演目でございます」
司会の男の声が、高らかに闘技場に響き渡る。
「なんと、主役は囚われの姫さま。ああ、幸薄い姫さまの命運や、いかに!」
「姫さまの訳、ないだろ!」
「そうだ、そうだ。いい加減なことを言うな」
観客席からヤジが飛ぶ。
当たり前だ。第三王女が捕らえられ、見世物として猛獣に食い殺されるなんて、誰が信じるだろう。
アフタルの前に、布のかかった檻が運ばれてきた。中から唸るような声が聞こえる。
ばっ、と覆われていた布が取り払われる。
檻の中では、大型の豹がうろうろと歩いていた。
鋭い牙、半開きの口元からは絶え間なくよだれがしたたり落ちている。
「ひ……っ」
アフタルは引きつった声を出した。悲鳴を上げることすらできない。
逃げようと足を動かそうとしても、体も腕も縛られて、身動きが取れない。
「さぁさぁ、姫さまは助かるかどうか。皆さんは、どちらに賭けますか?」
「おい、こんなの単なる惨殺じゃねぇか」
「そうだ、そうだ。賭けにならねぇよ」
司会の男は涼しい顔で「まぁまぁ」と、両手を数度下げる動作をした。
「結果はどうなるか、見てのお楽しみ。瞬きをしている暇もございませんよ」
「瞬きしてる間に食われちまわぁな」
「おーやおや。ほんの一瞬で、華麗に逃げきるかもしれません。さぁ、係の者がお席まで参ります。どちらに賭けるか、存分に吟味なさいませ」
観客席では、不満の声が上がっている。それでも賭けはするようで、コインが箱に投げ込まれる音が、あちこちから聞こえる。
観客たちの中に、頭からフードをかぶった少年の姿があった。暇を持て余した大人たちの間で、その華奢な姿はあまりにも異質だ。
「さぁ、始まりますよ。とくとご覧あれ」
司会者は一礼すると、自分は安全な場所に避難した。檻の戸は、縄で遠隔操作できる仕組みになっている。
軋んだ音を立てて、少しずつ戸が上がっていく。
のっそりと頭を低くしながら、豹が外に出てきた。
もうダメだ。どこにも助かる未来がない。
アフタルはうなだれた。
「……ごめんなさい、ティルダード。ごめんなさい、お姉さま方」
不甲斐ない妹で……無様な死にざまを聴衆の前でさらすことになって。
「だーからよぉ、諦めんなってばよ」
闘技場の中央にはアフタルと豹しかいないはずなのに。なぜか縛られたアフタルの前に、シャールーズがあぐらをかいて座っていた。
「あなた……どこから」
「なぁに、俺はあんたに好かれてるからな。いつでも側にいるぜ」
さっき出会ったばかりなのに、好きも何もない。
殺気立つ豹などお構いなしに、シャールーズは飄々としている。
「だって、消えたじゃないですか」
「あー、それは済まんって。まだ安定してねぇんだよな。けど、安心しな。俺がついてるぜ」
優しい言葉をかけないでほしい。
また簡単に信じてしまいそうだから。
アフタルは思わず手を伸ばしそうになった。だが縄で縛られているせいで、ほんのわずかも手は上がらない。
「なぁ、アフタル。あんたは、こんな所で陰謀にはまって殺されてやるほど、お人よしじゃねぇんだろ」
シャールーズの言葉に重なるように、豹が唸り声を上げた。
そのままアフタルに跳びかかってくる。
「いやぁ!」
顔を背けたけれど、鋭い爪が杭をかすめた。一瞬前まで、アフタルの頭があった場所だ。
シャールーズは、アフタルを庇おうともせずに座ったままの姿勢でいる。
「生きてぇんなら、助けてやるぜ。けど、諦めてんなら駄目だ」
「……生きたいです」
「聞こえねぇなぁ」
アフタルのかすれた声を、シャールーズは無視した。
また豹がアフタルを襲う機会をうかがっている。体を低くして、視線をアフタルから外さない。
観客も司会の男も、アフタルと闖入者のやりとりを黙って見ている。
「ほらほら、どうすんだよ。嬢ちゃん」
「生きたいです! 助けてください! わたくしはお姉さま方や弟のために、こんなところで死ぬわけにはいかないんです!」
にやり、とシャールーズが笑った。
「いいねぇ。そういう悲愴な決意、大好物だぜ。よし、契約だ」
シャールーズが立ち上がった。
両腕を広げると、ピシリと空間に硬質なものが走った。
二人の周りを、目には見えぬ硬いものが取り巻いている。
豹が近づこうとするが、ある一定の距離からは進めないようだ。
「契約は大事だからよ。邪魔されたくねぇんだよな」
「違う次元や世界に引き込まれたのですか?」
「安心しな。ここは俺の石の中さ」
「石……」
「シンハライト。嬢ちゃん、俺の石を綺麗だと言ってくれただろ」
シャールーズはアフタルの顎に手をかけた。
間近に見える瞳の色。褐色と金が混じった落ち着いた美しさは、ロヴナに投げつけられた宝石と同じ色をしていた。
「あなたは宝石の……シンハライトの精なのですか?」
「そうさ。そしてこれからは、嬢ちゃんの僕だ。俺は、他の何よりも嬢ちゃんを優先させる。自分の命よりもな。そして嬢ちゃんの身も心も生涯も、すべて俺のものだ」
それでも契約を結ぶか? とシャールーズは確認してきた。
「はい」
断言すると、シャールーズはにやりと笑った。
「いいねぇ、俺の主にふさわしい。そういう儚さの奥にある、芯の強さ。好きだぜ」
シャールーズは立ち上がると、アフタルの顎に手を添えた。
見上げるほどに高い身の丈。褐色に金が混じったその瞳を、アフタルは知っている。
「俺と行くよな」
アフタルがうなずくと、シャールーズは彼女を拘束する縄を解いてくれた。
後ろ手に縛られていたせいで、手首には縄の痕が残ってしまっている。
「痛かったな」
いたわる言葉に、また涙が出てきた。
今日はおかしすぎる。こんな最低な日はないし、ここまで涙が止まらない日もなかった。
「……契約します。これから、わたくしと共にいてくださいますか?」
「おうよ」
午後の光に照らされ、閉ざされた宝石の中の空間は、淡い琥珀色の光の筋が幾本も交差している。
シャールーズはアフタルの前にひざまずいた。
「天の女主人より命を授かりし、我が名はシャールーズ。光満ちるアフタル・サラーマの影として、我が石が砕け、光が失せるその日まで、常に己より彼女の益を優先することを、天の女主人に誓う」
凛とした声が響く。
聞いているだけで、心が酔いそうだ。
シャールーズは自分の親指を噛んだ。指先に滲む血。立ち上がると、その血をアフタルの額と左右の頬、そして唇に塗りつける。
精霊の血だ。
猛禽を思わせる鋭い目つきで、アフタルを見据えてくる。
次の瞬間、シャールーズはアフタルとくちづけを交わした。
唇に塗られた血が滲み、口の中に入ってくる。
人の血のように鉄の味はしない。宝石を口に含んだことも、舐めたこともないけれど。味がするというよりも、ひんやりとした感触だ。
「……んっ」
息ができない程に、くちづけは長く深い。
アフタルは思わず、シャールーズの背にしがみついた。
「俺の主。もう誰にも渡さねぇ」