7-4 正妃の願い
早朝、アフタルはベッドから降りた。
辺りはすでに明るいが、まだ太陽は姿を現していない。
シャールーズは上半身裸で眠っている。もちろんアフタルのベッドで。
「わたくしったら……なんてはしたないことを」
酒量が多くなかったせいで、昨夜の記憶はしっかりと残っている。
「ふ、ふふふ……あり得ませんよね。王女たる者が、守護精霊に迫るなど」
あの記憶はきっと夢。シャールーズは暑くて、きっと服を脱ぎ捨てただけ。
朝日を浴びて妙な夢のことは忘れよう。
そう考えて、ベランダへと出る。
ベランダのテーブルには、ミントとレモンの入ったグラスが残されていた。
「…………っ!」
声にならない悲鳴を上げて、部屋に飛び込む。そしてソファーに頭を抱えて丸まった。
「何してんだ?」
あろうことか、シャールーズが顔を覗きこんできた。
「来ないでください。見ないでください。せめて服を着てください」
「脱がしたのは、アフタルだろうが。おはよう、エロアフタルさん」
「きゃーーーっ!」
クッションを次々とシャールーズに投げつける。もちろん、全部受けとめられてしまったが。
「そんなに後悔するんなら、なんで俺を襲ったんだ?」
「襲ってないです。手当てをしたかっただけなんです」
「ああ、そうだな」
低く落ち着いた声。ソファーに腰を下ろしたシャールーズが、アフタルの頭を撫でてくれた。
「アフタルのおかげで治ったぞ」
「……嘘です。わたくしは何にもしていません」
「心のこもったキスをしてくれた」
恥ずかしさに、顔を上げることが出来ない。まだうずくまったままでいると、シャールーズに髪をいじられた。
「……他の人にキスしないでくださいね」
「するわけないだろ。っつーか、その言葉、そっくりそのままアフタルに返すけどな」
「う……ううっ」
シャールーズは、アフタルの髪を指先でくるくると巻いて遊んでいる。
「あの……他の人を抱きしめて眠ったりしないでくださいね」
「有り得ないな」
ようやくアフタルは顔を上げた。
「わたくしだけですよ?」
「当然」
シャールーズは指をまっすぐにして、てのひらをアフタルに向けた。約束の印だ。アフタルも同じようにして、二人のてのひらを重ね合わせた。
二人の時間が、いつまでも続きますように、と。
「わたくし、もうお酒は飲みません」
「飲んでもいいんじゃねぇか? 面白いから」
「面白くありません!」
「まぁ、こっちも忍耐力が試されるけどな」
忍耐力? アフタルは首を傾げた。
「俺がアフタルの夫なら、本当にすべて独り占めできるのにな」
「独り占め、ですか」
「そりゃそうさ。昨夜みたいに、お預けを食らわなくて済む。夜の間中……いや、一日中でもいいな、アフタルを抱けるし。またエロアフタルさんに会えるだろ」
直截的な内容だったので、アフタルは背中を向けた。
(でも、抱くとか抱かないは別にしても。あなたがわたくしの伴侶になってくれるのなら、どんなにか嬉しいでしょう)
実現の可能性が低いからこそ、余計にそう望んでしまう。
朝食後、アフタルはシャールーズを伴い、正妃パルトの元へ向かった。
庭の池に面したあずまやに、パルトとヤフダ、そしてラウルが座っている。
「よく来てくださいましたね。アフタル」
ゆったりと髪を結い上げた正妃パルトは、面立ちがティルダードによく似ている。
「お元気そうで、安心しました」
ヤフダに椅子を勧められて、アフタルとシャールーズは腰を下ろした。
こうして池を眺めるあずまやにいると、王宮を思い出してしまう。
たった馬車で半日の距離なのに。遠いところまで来てしまった。
「あなたに、これを見ていただきたいのです」
正妃は円形の机に、紙片を並べた。小さいが手紙のようだ。どれも両端がくるりと丸まっている。
「私が離宮で静養するようになってから、伝書鳩でティルダードと文の遣り取りをしているのです。これは、あなた方が離宮にいらしてからのものですが」
――お姉さまたちとラウルが、お母さまの元に向かったよ。ぼくは大丈夫だよ。
正妃の細い指が、次の一枚を示す。
――ササンがお母さまの手紙を持ってきてくれたよ。エラおばさまにばれないように、ないしょにしてくださいって。
「ササンというと、騎士団の副長ですか」
「ええ。私の従弟に当たります。今はティルダードの護衛として、常に傍にいてくれるようです」
アフタルは次の一枚に目を向けた。
――なんでラウルもお姉さまも、ぼくをつれていってくれなかったの?
その内容にアフタルは言葉を詰まらせた。
「分かっていますよ、アフタル。あなた方がティルダードを救おうとしてくれたことは。ラウルが身を呈してあの子を守ってくれたことも」
正妃は慰めてくれるけれど、小さな紙の上の群青色の文字は震えた手で書かれたのか、歪んでいるではないか。
――ラウル、いらない。姉さま、いらない。
それが最後の手紙だった。
「これ以降は、いくら私が手紙を送ってもティルダードからの返事が来ないのです」
「鳩だけが戻ってきているということですか?」
「ササンが、王宮の様子を知らせる文を寄越してはくれますが。ラウル。こちらへ」
正妃パルトに命じられ、ラウルが前に進む。元々色は白いが、顔色はさらに青白くて儚げだ。
「正妃さま。このままだとラウルは」
「蒼氷のダイヤモンドに戻る可能性があります。ですが、それは回避せねばなりません。エラに王の証である宝石を渡すわけにはいきません」
続く正妃の言葉が何であるかを察したのか、シャールーズが腕を組んで顔をしかめた。
「正妃さま。わたくしは、信じられません。ティルダードが、ラウルを見捨てるなんて」
「信じる信じないの問題ではないのです。現にラウルは弱ってきています。このままでは人の姿を保てません」
さすがにアフタルも、正妃が何を言いたいのか理解した。あずまやの中に立つシャールーズを見やったが、彼は無言のままだ。
互いの感情を優先させるな、と言葉にはならない声が聞こえた気がした。
(あなただけと誓ったのに)
アフタルは瞼を閉じ、続く正妃の言葉を待った。
「お願いです、アフタル。ラウルと主従の契約を結んでください」
願いと言われても、これは命令だ。
(大丈夫です。どこかに嫁ぐように言われたわけではありません)
なのに、どうしてこんなにも心がざわざわと騒ぐのだろう。
ああ、とアフタルは納得した。
(シャールーズとの関係が、主従として正しくないからなのですね)
そう、自分たちはまるで恋人同士だ。だからさらにラウルとの契約を結ぶことに、躊躇してしまう。
どうして忘れていられたのだろう。
いずれまた政略結婚の話が持ち上がり、シャールーズの前で、誰かに嫁がなければならないかもしれないのに。