7-3 手当をするんです
約束というと、傷の手当のことか?
シャールーズは首を傾げながらも、アフタルをベッドに降ろした。
「もうほとんど治ってるぜ? アフタルと離れていたから回復が遅かったが、再会してからはずっと一緒だろ」
精霊の糧は、主の愛情と信頼だ。離れていても気持ちは通じ合っているが、やはり傍に控えている時が最も力が満ちる。
「わたくしの手当てが気に入らないと?」
拗ねたかと思うと、次の瞬間、アフタルはシャールーズの胸にもたれてきた。
頭をこすりつけて、まるで猫のようだ。
コンコン、と控えめにドアがノックされた。
動けないので「なんだ?」と訊くと、ミーリャが顔を覗かせた。
「あの、姫さまに疲れがとれるようにと、蜂蜜酒をお持ちしたんですけど。ゾヤ女官長から、姫さまはお酒に慣れていないと伺って」
今のミーリャは、侍女の顔に戻っている。
「えーと、いかがですか?」
「まぁ、大変宜しいというところか」
シャールーズにべったりとくっついているアフタルを一瞥して、ミーリャは「あちゃー」と言いながら、額に手を当てた。
なんだよ「あちゃー」って。カシアの言葉か?
「酔っちゃってますね。水をお持ちします」
「これが酔うって奴か。どれくらい続くんだ?」
「そうですね。たいして飲まれていないようなら、そう時間はかからないと思いますが」
「了解。水だけ持ってきておいてくれ。俺がついているから、心配するな」
ドアの隙間から顔を覗かせたミーリャは、不審そうに目を細めた。
「大丈夫。襲わない」
「本当ですかー?」
「なんで、お前まで俺に信頼がないわけ?」
まったく失礼だ。シャールーズはため息をついた。
「隙あらば、姫さまを襲いそうだからですよ」
「おいおい、現状をよく見ろよ。襲われてんのは俺だぜ」
「よかったですね」
そーっと扉が閉められた。
◇◇◇
ミーリャの声が聞こえた気がする。薄暗い部屋で、アフタルはぼーっとした頭で考えた。さっきまではいろいろと思考を深めることができたのに、今は頭に靄がかかったみたいにぼんやりしている。
(そうそう、シャールーズの傷の手当てをするんでした)
まずは傷を確認しないと。彼の服のボタンに手をかけ一つずつ外していく。
油断すると、眠くなるのは難点だ。頑張らないと。
アフタルの頭上で、息を呑む音が聞こえた。
目の前に現れる引き締まった体、たくましい胸と腕、なめらかな琥珀の肌。
納得したアフタルは「後ろを向いてください」と促した。
「なんで俺、上半身をひんむかれてんだ?」
「服の上から、傷の確認なんてできるはずがありません」
まったく口答えばかりする。
月明りに照らされたシャールーズの背中を見て、アフタルは瞠目した。
確かに傷はふさがっている。けれど傷痕が多すぎるのだ。
矢が刺さった箇所といい、馬車の割れたガラスからアフタルを守ってくれた時の傷といい。見ているだけでも悲しくなってくる。
「消毒薬がありません」
黙っていると涙がこみ上げてきそうで、アフタルは慌ててサイドテーブルに手を伸ばした。
消毒薬の入った瓶や包帯は、以前は確かにここに置いてあったのに。
「困ります。包帯もないんです」
「今更、消毒しても意味ないと思うぜ」
肩越しに、シャールーズの声が聞こえる。その低い声が聞こえることが、とても嬉しくて。
アフタルは、彼の背中に顔を寄せた。
「美しいあなたの肌に、傷が残りませんように」
そう願いを口にしながら、そっと傷痕にくちづける。
シャールーズが体を硬くしたのが、伝わってきた。痛かったのだろうか。今度は羽毛のように、唇で撫でる。
「……アフタルさん。これは新手の拷問ですかね」
「手当ですよ? シャールーズはわたくしをいつも守ってくれるでしょう? わたくしは精霊のように、加護を与えることはできませんから。せめて気持ちだけでも、と」
「気持ちはありがたいんですけど。アフタルさんの気持ちに応じると、たぶん何人にも殴られてボコボコにされるんですがね、俺は」
どうして今日に限って丁寧語なのだろう。アフタルは首を傾げながら、身を乗りだした。後ろを向いたままのシャールーズの顔を覗きこむ。
「シャールーズに怖いものがあるんですか? 意外です」
「……そりゃ、あるよ」
よかった。言葉遣いが元に戻って。アフタルは、にっこりと微笑んだ。
「俺はアフタルに契約を解除されるのが怖い。いや、違うか。契約とかじゃなくても、俺のことを必要としない、もういらないと言われることが一番怖い」
「傍にいてほしいですよ?」
「今はな」
シャールーズは体の向きを変えて、アフタルを抱きしめた。
「約束の地で、俺は主を得る。それだけが俺の心の支えだった。けどな、ラウルみてぇに主から突き放されたくない。もっと怖いのは、ラウルが俺が思っているほど傷ついていないってことだ」
「ティルとの絆が弱かったということですか?」
「ティル? ティルダードのことか。ああ、ラウルは緊急事態だから姿を現し、ティルダードを守るために慌てて契約を結んだのかもしれない」
シャールーズは深い琥珀の瞳で、アフタルをじっと見つめた。
まただ。またその目に深い寂しさが宿っている。
「契約を解除したら、精霊はどうなるのですか?」
「仕える主もおらず、主の命が遺されているわけでもないのなら、宝石に戻るんだろうな、きっと。愛でられない宝石がただの石であるように、主のいない守護精霊は存在する価値がない気がする」
ラウルの姿が消えてしまう?
アフタルは考え込んだ。シャールーズが推測で話しているのだから、詳しいことは彼も知らないのだろう。
あるいはこれまで契約を解除した者が存在しないということか。
「わたくしは、あなたとの契約は間違いではなかったと思います」
「俺のこと好きか?」
少しの間をおいて、シャールーズは再び問いかけた。
「俺のことを好きでいてくれるか?」
当たり前のことを聞かないでほしいと思ったが。たぶん、その当然のことに答えが必要なのだろう。
「好きですよ。あなただけです」
アフタルは囁くと、シャールーズと唇を重ねた。
王女からキスを望むなんて、はしたないと頭の隅では気付いているけれど。
シャールーズがためらいがちに、アフタルと指と指を絡めた。
「味が……する」
「味、ですか?」
ようやく唇を離したシャールーズが、小さく呟いた。
「ジャスミンはアフタルの香り。じゃあ、これはレモンか。アフタルの味なのか」
「わたくしがレモンというわけでは……」
また確認するように、キスされる。
「すーっとするのは、ミントか」
「ええ。グラスに入っていました」
「これもアフタルの味だ」
くちづけは頬や首筋、そして胸元にも落ちてきた。
「……んっ……」
思わずシャールーズの首にしがみつく。
すると今度は耳にキスされた。
くすぐったくて、思わず声が洩れてしまう。
「だから、そんな陶然とした顔は俺だけに見せろよ」
「だって、他の誰もわたくしにこんなこと、しません」
「されたら、俺が困る」
アフタルをぎゅっと抱きしめて、シャールーズは横になった。
「やっぱり毛布とは抱き心地が違うな。腕に隙間がないから、落ち着く」
「褒めてません、それ」
「アフタルがいいってことさ」
湖から波の音が聞こえてくる、静かな夜。
心臓がどきどきするのは、抱きしめられながらキスが降ってくるからなのか。それともお酒のせいなのか、アフタルには分からなかった。