6-7 二つの名前
「ミーリャを見つけました」
ラウルが向かったのは、広場だった。
石の束は、女神像が中央に立つ広場に突き刺さっている。
右手に舵、左手に豊穣の角を持つ石像だ。
「女神フォルトゥーナですね」
カシアは神を奉じない国。なのに、女神像がある。そして無人の防衛拠点。
アフタルは走りながらも、思考に耽った。
足下の道はぬかるみ、靴やスカートの裾を汚すけれど、彼女の集中を妨げることはなかった。
かつてここにいた兵士は、どこへ消えたのか。女神フォルトゥーナへの信仰が認められない国。どこへ行けば、その信仰は許される?
「シャールーズ。カイという人は、何か言ってませんでしたか? そうですね、女神に関して」
「女神、か。そうだ。女神の命には、逆らえないみてぇなことを言ってたな」
「馬車……とも言っていましたね」
「ああ」
繋がった。
アフタルは確信した。
「分かりました。このオスティアの兵士がどこへ連れ去られたのか。馬車が……どこへ向かったのか」
「そうなのですか?」
ラウルの問いに、アフタルはうなずいた。
「わたくし達に……好機が、巡って来そうです」
さすがに走りながら喋るのは難しく、言葉も途切れ途切れになる。
広場では、ミーリャと熊のような大男が向かい合っていた。彼がカイだろう。
近寄ってみると、ミーリャがカイを支えている状態だ。
カイは、闘技場で見た剣闘士と同じく屈強な体をしていた。だが今は、肩を落としてうなだれている。
「ミーリャ」
声をかけると、ミーリャが顔を上げた。カイは憔悴し、頼りなさそうに眉を下げている。
「……馬車が来ないんだ。まだ来ないんだ。俺は行かなくてはならないのに……このまま放っておくなんて、できやしないのに」
「馬鹿っ! カイは乗らなくていいのよ」
「俺しかもういないんだ。皆が待っている。こうしている間にも、仲間は一人また一人と倒れていくのに」
溢れるように紡がれる言葉は、カシア語だ。かろじてアフタルは聞き取ることができた。
「俺が、仲間を助けにいかないと」
アフタルは二人の前に進み出た。カシア人の礼儀作法は、確か女性から挨拶をするはずだ。アフタルは優雅に頭を下げる。
「初めまして、カイ。わたくしはサラーマ王家の第三王女、アフタルと申します」
「王女さま? あんたが?」
他国の王女を前にしても、カイにひるんだ様子はない。
やはり、そうだ。
「もっと早くに気づくべきでしたね。ミーリャ」
「なにをですか?」
なぜあたしに? と言いたげに、ミーリャが眉をひそめる。
「わたくしは、あなたをどちらの名前で呼べばよいのでしょうか」
化粧をすると、女性はあれほども化けられるのかと、今更ながら感心する。
ミーリャは顔を隠すように、慌てて背中を向けた。
高慢で、一方的に言いがかりをつけて人を陥れて。でもそれは訳あってのことだと、今なら分かる。
「わたくしのために、ロヴナとの婚約が破棄されるよう動いてくれたのでしょう? フィラ」
もう一つの名前を聞いて、ミーリャはびくっと肩をすくませた。観念したように瞼を閉じて、空を仰ぐ。
「ミーリャ……と。フィラは偽名ですから。どうして分かったんですか?」
「ロヴナがフィラを追いかけてきた時と、あなたが離宮に来てくれた時が、ほぼ同じでした。それと、精霊たちの力を呪術といいましたね」
「あっ」
ミーリャは声を上げた。
サラーマの人間ならば、精霊の力は加護というはずだ。精霊の力は、護りなのだから。
「あたしの詰めが甘かったってことですね」
「髪の長さも、気付くきっかけでした。夫か父を亡くした女性が断髪するのは、カシアの風習ですから」
そう、だから未亡人であるエラも髪が短い。
「ミーリャ。あなたはエラ伯母さまの娘なのでしょう? 王宮でカシア人が勤めるなど、よほどの伝手がないと無理ですから」
それにカシアの王女であるミーリャに慣れているから、カイはアフタルの身分を知っても驚きもしなかったのだろう。
「あーあ。参っちゃいますね」
ミーリャは大きなため息をついた。
「派手な化粧と目をほとんど閉じてることで、かなり顔が変わると思ったんですけど」
「変わってますよ。あなたの化粧法はすごいですね。まるで魔術です」
「お褒め頂き、光栄です」
ミーリャは苦笑した。どこかが痛むような笑顔だった。
「で、あたしをどうなさるんですか? ここでお別れ? それとも拘束しますか?」
ミーリャが好きでもないロヴナを誘惑したのは、アフタルの縁談を壊すためだ。
それはただの善意からではない。
「いいえ、あなたさえよければこのままで。ミーリャ、あなたはわたくしを利用できると踏んだから、フィラという女性を演じたのでしょう?」
「はっきりと言いますね」
ミーリャは女神像の足下にカイを座らせた。その丁寧な手つきから、どれほど彼を大事に思っているのかが分かる。
「あたしは、母の暴走を止めたいんですよ。あの人はアフタルさまを商人に降嫁させ、ティルダード殿下を取り込むことで、このサラーマ王国を手中に収めようとしています」
「わたくしにできることは?」
「母を引きずり下ろしてください」
アフタルは、一瞬の間をおいて頷いた。
「兵士の力を貸してもらえますね。カイに頼めるでしょうか」
「兵士って……ここの男たちはもう」
言いかけて、ミーリャははっとした表情を浮かべた。
その視線はカイに向けられている。
「奴隷状態である剣闘士を解放し、ティルダードを救い、国をエラ伯母さまの手から取り戻す。わたくしとミーリャ、そしてカイ、三人の利害が一致しますね」
アフタルはにっこりと微笑んだ。
けたたましい音が聞こえたと思うと、広場に馬車が停まった。
王宮の馬車とは違い、荷物を運ぶ幌馬車だ。御者台には二人の男が座っている。
「おや、これはこれは。珍妙なことですね」
御者席の隣にいたのは、長髪の男だった。
その姿を見たシャールーズとラウルが、露骨に顔をしかめる。
「ここは確か、カシアのはず。なにゆえ、我が国の王女が越境なさっておられるのかな」
ラウルに似た銀の髪。だが薄い唇をゆがめた表情は酷薄だ。年齢は三十代半ばほど。王亡き後、王宮でエラに付き従っていた騎士団長だ。
「その言葉、そっくりあなたにお返しします。アズレット」
アフタルは、アズレットを睨みつける。震えそうになる手をしっかりと握りしめ、はしたなくとも地面に足を踏ん張って立つ。
「サラーマの騎士団長ともあろう者が、次期国王であるティルダードではなくエラ伯母さまに従い、しかも国境を越えてまで人買いですか」
かすれる声を悟られるな。弱い王女だと侮られるな。
アフタルは、短剣を持つ手に力をこめた。
自分には何の力もない。けれど誇りはある。邪魔者だと排除されるのを、いつまでも易々と受け入れる人間だと思っているのなら、大間違いだ。
「ふんっ。エラさまに逆らおうなど、ゆめゆめお思いにならぬことですな」
アズレットは、アフタルから視線をそらして、ミーリャ達を見据えた。
「それが最後の奴隷ですか」
「カイは奴隷じゃないわ」
「剣奴の補充もままならぬとは。あとは奴らの数は減るばかりですな。まぁ、あなた方は、離宮に引っ込んでおられるのがよろしかろう」
では、と頭を下げるとアズレットは馬車を出すよう、御者に命じた。