1-3 精霊に出会いました
それまでアフタルを担いでいた男が、フォルトゥーナの像の足元に彼女を投げつけた。
背中を打ち、鈍い痛みが走る。
「く……ぅ」
「痛ぇか? よかったな。まだ生きてるってこった」
乱れた金の髪の間から、アフタルは男たちを睨みつけた。
「誰に命じられたのです。言いなさい」
「さぁな。知らない方がいいこともあるさ」
「だよな」
誘拐犯は、顔を見合わせる。
「わたくしの命は、あと少しで失われるのでしょう? ならば、話しておいた方がよいのではないですか? 心残りのあるわたくしが、あなた方を恨んで出るかもしれませんよ」
「脅したって無駄だ」
そう強がりつつも、犯人は微かに身を震わせた。
サラーマ王家には、人ならざる者と通じているという噂がある。フィラの言うような呪いや呪術ではなくとも、脅しをかけるには十分だ。
(わたくしのことが邪魔になったロヴナが、暗殺を依頼したのかもしれません)
婚約破棄の知らせは、まだ王宮には届いていない。ここで自分が死ねば、ロヴナは婚約者を喪った可哀想な青年だ。そしていずれはフィラと問題なく結婚できる。
(でも、それなら婚約破棄の前に、わたくしを暗殺した方が確実なのでは?)
キラド家の使用人から、話が洩れないとも限らない。
(ダメです。これ以上、考えない方がいいです)
存在すらもロヴナに憎まれている方がいい。それ以外の可能性なんて、あってほしくない。
誘拐犯は互いに顔を見合わせた。
「しゃあねぇな。教えてやるから、俺らのところには化けて出るなよ」
「おい、本当に言うのかよ」
「なぁに、どうせあと一刻もしない内に死んじまうんだ。教えてやるのも慈悲ってもんさ」
誘拐犯は、にやけた顔をアフタルに近づけた。
「ヤフダとミトラだよ」
「……姉さま?」
耳障りな声で発せられた名前が、第一王女と第二王女である姉たちのものだと、一瞬気づかなかった。
当たり前だ。王や王妃ならともかく、貴族であれ庶民であれ、王女の名を呼び捨てにする者などいない。
いや、これまでアフタルの周りにはいなかった。
「……姉がどうかしたのですか」
「おいおい、察しの悪い王女だな。その二人が、あんたの暗殺を依頼したんだよ」
「ありえません!」
一瞬の間すら置かずに、アフタルは否定した。
「まぁ、どう思おうがあんたの勝手だけどな。教えてやったんだから、恨むなよ」
「嘘です。嘘に決まっています。絶対に、有り得ないことです」
王女三人で、まだ幼いティルダードを支えていこうと誓ったのだ。
父王亡き後、たった十歳のティルダードにサラーマ国を統治できるはずがない。弟が傀儡にされぬよう、即位する日までこの国を守れるように。アフタルは経済的な支援を求めて、ロヴナに嫁ぐことを決めたのだ。
ロヴナに嫌われていることは、最初から知っていた。お金目当ての王女と、爵位目当ての商人の息子。
この縁談がうまくいくはずはない。
でも……国のためを思えば愛のない結婚も耐えられると思った。
己を立たせる基盤……二人の姉と弟、彼らへの愛情があれば、苦難も乗り越えられると。
「わたくしは信じます。お姉さま方が裏切ることなどないと」
そうでなければ、生きていられない。
自分の考えに、アフタルは苦笑した。
(ああ、愚かなことを。これから豹の餌にされるのに、わたくしに未来があるはずがありませんね)
姉のことは信頼している。けれど卑劣な男の口から、その名が出たことでアフタルは気力を削がれた。
頑張ったところで逃げ切れるはずもない。生き残れるような力も剣技もない。
ぱた、と石の床に雫が落ちた。
「わたくし……泣いているの?」
ぱた……ぱたた。
それが涙だと気付いた途端に、止まらなくなった。
せめて、みっともなく声を上げて泣くことだけはやめよう。
嗚咽を噛み殺し、アフタルは肩を震わせてただ泣いた。手に持っていた箱が床に転がり落ち、中の宝石が投げ出された。
声もなく静かに涙をこぼれさせる王女を、剣闘士たちは申し訳なさそうに眺めている。
誘拐犯は、もう用が済んだとばかりに控えの間から姿を消した。
その時だった。
辺りに光が満ちたのは。
金の粒、銀の粒、水晶の粒、琥珀の粒。それらを豪勢に空中に撒いたかのように、空気が煌めいている。
清浄な光に、気だるそうな剣闘士たちは目を見開いた。
「……まぁ、泣くなよ。可愛い顔が台無しだぜ」
光の中からアフタルに手を差し伸べてきたのは、一人の男性だった。サラーマには珍しい琥珀の肌。伸びかけの髪は金で、顎には無精ひげが生えている。
「嬢ちゃん、名前は?」
「ア、アフタルです」
「俺は、シャールーズ。覚えといてくれ」
シャールーズは、他の剣闘士のように鎖帷子を肩と腕にまとっていない。上下ともに白い服に、腰には金糸銀糸で緻密な模様が織られた布を巻いている。
「あなたは剣闘士ではないのですか?」
誘拐犯の話では、最近は古代の闘技が復活しているとのことだ。
ならば、闘いが終わった剣闘士は命があっても、ひどい怪我をしているものだろうし、闘いのない剣闘士が控えの間にいるのもおかしい。
「剣闘士ってやつじゃねぇな。嬢ちゃんに選ばれたから、出てきたのさ」
「わたくしが?」
「俺を拾い、俺を見つめ、俺を求めた。違うか?」
そんなこと、あるはずがない。こんな印象的な男性と出会って、覚えていないなんておかしい。
「……いえ、違います」
「違わねぇよ」
まっすぐに見つめてくる、深い琥珀に金の混じった瞳。
力強い言葉と視線に、アフタルは言葉を失った。
「あんたが望んだから、俺がいるんだ。それ以外に俺の存在する意味はない」
シャールーズは身を乗りだして、アフタルの耳元で囁いた。
心に直接響くような、低く甘い声。
「俺は、お前のもんだぜ。アフタル」
彼から目が離せない。
こんなことは、生まれて初めてだ。