6-3 心配いりませんよ
カシア側の湖岸には、塔が建っていた。どうやら無人のまま放置されているようで、塔は風化している。
まずは漁師町か漁村を捜さなければならない。アフタルは塔へ向かって歩きだした。
「姫さま?」
後をラウルが追いかけてくる。
「高いところから見た方が、地形も確認できますし。漁師町も見つけやすいと思うんです」
「では、私が行って参りましょう」
「大丈夫ですよ」
スカートの裾を掴んで、アフタルは階段に足をかける。数段昇ったところで、板を踏み抜いた。
(危なかったです)
息を整えながら、手すりにしがみつく。傾斜は急だし、内部は暗いし……心が萎えそうになるけれど。
体重をかけるとぐらつく手すりにも注意を払いながら、なんとか最上部まで上がった。
他に高いものがないからか、塔からは周辺がよく見渡せた。軋む戸を開いて外に出ると、湖面を渡る風が、アフタルの金の髪をなびかせる。
「これは、まさに見張りのための塔ですね」
対岸のサラーマも、ウェドも遠望することが出来る。放置してあった双眼鏡を使うと、サラーマ側から向かってくる舟が見えた。
レンズが汚れているからはっきりとは見えないが。ものすごい速さだ。舟の後方に水煙が上がっている。
「まさか。ミトラ姉さま?」
身を乗りだした時、アフタルは体の均衡を崩した。
「……えっ?」
ぐらりと前のめりになったと思うと、アフタルは宙に投げ出された。
「アフタルさま!」
「ぎゃあああっ!」
ラウルとミーリャの叫び声が聞こえる。耳元で風が轟と鳴る。アフタルの視界に岩の地面が迫ってきた。
ガシッ! と何か硬いもので受けとめられた。どうやら助かったようだ。
「すみません。わたくしったら……」
顔を上げると、周囲を網で覆われていた。
(漁網? にしては木綿でも麻糸でも、藁でもないですね)
指で触れると、パキンと音を立てて儚く割れた。
「お怪我はありませんか? アフタルさま」
「え、ええ。ありがとう、ラウル。これはあなたが?」
「石の力を借りました」
ラウルが手をかざしてアフタルを包む網を撫でる。パラパラと砕けた網がこぼれ落ちていく。
「申し訳ございません。シャールーズでしたら、このような不粋な網など使用せず、姫さまを受け止めたでしょうに」
「ラウル」
「私は腕力がありませんので……」
アフタルを立たせるために、ラウルは手を差し伸べてきた。けれど小刻みに震える睫毛が、アイスブルーの瞳に影を落としている。
「ありがとうございます、ラウル。あなたの加護が、わたくしを救ってくれたのですよ。なぜ恥じるのですか?」
「ですが、私は己の石に見合うほどの力を持ち合わせておりませんので。ダイヤモンドに、か弱さは似合いません」
「か弱くはないでしょう?」
アフタルは立ち上がったが、なぜかラウルは彼女の手を離さない。
「弱いんですよ」
微笑むその表情は、どこか寂しそうだ。
「こうも殿下と離れていると、演じる必要がなくなるのです。強くて正しいお目付け役という立場を。せめてシャールーズがいてくれたら……あの粗雑でいい加減で、だらしない彼を怒ることで、私は正しくいられるのですが」
「心配いりませんよ」
アフタルは、ラウルの手をきゅっと握り返した。今の彼は、一人置いていかれた少年のように思えた。
「わたくし達は、その粗雑でいい加減でだらしない人を捜すために、国境を越えたんですから。あ、そうでした」
「アフタルさま?」
「湖を渡る舟を見たんです。水煙が上がるほどの速度を出せる人って、ミトラ姉さまくらいしかいませんよね」
「まぁ、確かに」
ラウルはうなずいた。ようやくアフタルから手を離すと、髪についた砕けた石の粒を払ってくれる。
とても丁寧な手つきだ。
「……アフタルさまは、私にとっても特別な方です。殿下の姉君でいらっしゃいますし、それに……兄……いや、あの生意気な兄気取りの彼が大事になさっている方ですから」
「ありがとう、ラウル」
先が見えずに不安なのは、自分だけではない。
「大丈夫でいらっしゃいますか? 姫さま」
「ええ。ミーリャ、上から見た感じでは、漁師町も漁村もなさそうですが」
「あ、えっと。そうですね。カシアのことですから、あたしもちゃんと分からなくて」
眠たそうな目のままで、ミーリャが横を向く。アフタルはじっと彼女の顔を覗きこんだ。
「ミーリャ、さっきラウルが使った力のことですけど。見ましたか?」
「あ、はい。すごい呪術でしたね」
ミーリャの答えに、アフタルはにっこりと微笑んだ。
「道案内をお願いしますね、ミーリャ」
町の入り口には石碑があり、朽ちて崩れた石像が二つ立っている。
カシア語の会話本を手に、アフタルは石碑に書かれている文字を読み解く。
「『オスティア。……三……えっと?』」
「オスティアというのは、この町の名前です。堕落と退廃の三女神、ですね。都を所払いされた者が、ここで兵役に就く、でしょうか」
どうやらミーリャは、ヤフダからカシア語の辞書も渡されていたようだ。
「では、この像が女神でしょうか。でも、二柱しかありませんね」
「元は三つあったかもしれませんよ」
カシアは神を信じない国。なのに、なぜ女神像があるのだろうか。アフタルは考え込んだ。
ミーリャはなおも碑文と格闘している。
「この石碑、古カシア語ですね。読みにくいです」
「すごいですね、ミーリャは。わたくしは現在のカシア語は会話程度しか」
むしろ、かつては嫁ぎ先の候補であった、ウェド語の方が理解できる。
「語学は嫌いではないので」
ミーリャは顔の前で、ぱたぱたと手を振る。目立たず、あえて化粧もせず。ぼんやりとした印象のミーリャだが、時折聡明さが透けて見える。
(学や知識を隠しきれないのですね)
徐々に、アフタルの中で確信が強まっていく。ただミーリャの目的が、まだはっきりしていない。
(今ここで本人に尋ねても、素直に答えてくれるとは思えませんし)
顎に手を当ててアフタルは考え込んだ。そんな彼女を案じてか、ラウルが肩に手を置いた。
「姫さま? さっきの落下で具合が悪いのでは? それともまだ船酔いが?」
「いえ、平気ですよ。ラウル」
見上げると、やはりラウルは不安そうな表情を浮かべている。
今は行動を共にしている上に、ティルダードとも離れているからしょうがないだろうが。
ラウルは他のことよりも、アフタルを優先させようとしている。