6-1 間違いないです
よく晴れた朝だった。
夜半に激しい雨が降っていたけれど。今朝は大気が洗われたからなのか、とても清々しい。離宮の庭の木々は、まだ雨粒を宿しているせいで、緑がきらめいて見える。
「姫さま。お早うございます」
食堂に降りると、侍女が増えていた。王宮でアフタルの世話をしてくれていたヴェラとミーリャだ。
「二人とも、わざわざ離宮まで来てくれたのですか?」
「今の王宮には、私がお仕えする方がおりませんから」
「ヴェラ先輩の言う通りです、姫さま。殿下のお世話をする者は決まっておりますし……エラさまに関しては……ちょっと」
ミーリャは言葉を濁した。
あっさりとした顔立ちのミーリャは、王宮に勤める侍女の中でも印象が薄い。目が糸のように細く、眠そうな顔をしているからだろうか。
ヴェラが椅子を引いてくれたので、アフタルは席に着いた。
正妃パルトは朝食はとらないそうで、昼食には同席してもよいそうだ。ゾヤ女官長は、離宮での滞在が長くなることを見越して、用意に忙しいらしい。
「あの、王宮で姫さまと一緒にいらした精霊のことですが」
ミーリャが遠慮がちに、アフタルに話しかけた。
「離宮にいらっしゃらないんですね」
「こら、ミーリャ。姫さまのお気持ちを考えなさい」
先輩のヴェラが語気を強める。
「いえ、いいんです。確かに彼は今、おりませんから」
「そのことなんですけど。あたし、シンハライトの精霊に似た人がいると聞いたので」
「どこでですか!」
アフタルは思わず両手でテーブルを叩きつけるようにして、立ち上がった。その反動でグラスが倒れてしまう。
「み、湖です」
ミーリャは、おどおどと視線を泳がせる。アフタルはグラスを直しながら、彼女の言葉を待った。
ヴェラが慌ててテーブルを拭いてくれる。
「ミーリャ。なぜあなたが三王国の湖に?」
「あの、魚を買いに行ってたんです。湖の近くに漁師が住んでいて、捕ってきた魚を売っているので」
「どんな噂をされていましたか?」
「えっと……その、琥珀色の肌と瞳。髪は金色で、口が悪い……と」
「シャールーズで間違いありませんね」
アフタルは、ほーっと安堵の息をついた。
だが、腑に落ちない部分がある。椅子に腰を下ろし、アフタルは考え込んだ。
湖に落ちた時、巨大な影が見えた気がした。あれが魚ではなく、漁師だったなら。シャールーズはすぐに引き上げられたことになる。
(でも、気になります。楽観はできません)
無事であるなら、彼のことだ。すぐに離宮に来ようとするだろう。
(まさか、動けないくらい怪我がひどかったのでしょうか)
いや、助けてくれた漁師に頼めば、離宮に伝えに来てくれるだろう。それすらもないとは、どういうことなのか。
ヴェラが驚いたように目を丸くして、アフタルを眺めている。彼女が深く思考に集中する時、両肘をテーブルについて左右の指を組み、その上に顎を乗せ、一点を見据えている。その深緑の目は、とても鋭い。
王女というよりも、獲物を狙って草の中に身をひそめる猟師の雰囲気に近い。
もちろん、アフタル自身は気付いていないが。
(シャールーズの意識がない……とか?)
いや、そんなことはない。口が悪いとミーリャは話していたではないか。
あと少しで、何かが繋がりそうなのに。頭の奥に靄がかかったみたいに、答えにたどり着けない。
「姫さま、変わられましたね」
グラスに新たに水を注いだヴェラが、驚いたようにアフタルを眺めた。
「いえ、姫さまは凛々しい方ですよ。ヴェラ先輩」
「そうなの? でもミーリャ、あなたの方が王宮にお勤めして短いじゃない」
「え、ええ。まぁ、あたしがそう思ったというだけで……間違ってるかもしれませんし」
ミーリャは、慌ててうつむいた。
「分かりました!」
アフタルはまた立ち上がった。
せっかくヴェラが入れ直した水が、またこぼれてしまった。
「どうして気づかなかったのでしょう。三王国の湖だというのに、サラーマ側からしか考えていませんでいた。だめですね、こんな偏った見方をしていては」
「は、はぁ」
ヴェラは気圧されてしまっている。テーブルを拭いたが、またグラスに水を注いでいいかどうか……そればかりが気になっている様子だ。
湖に近く、木々が多いパラティア地方は水がおいしい。さらに香りづけにライムをピッチャーに入れてあるのだが。アフタルがその味に気付くのは、まだ先になりそうだ。
レンズ豆を煮こんだスープも冷めてしまったとばかりに、ヴェラはため息をついた。熱々がおいしいのに。
「わたくし、国境を越えます」
「は?」
「なにゆえ、でございますか?」
ヴェラとミーリャが、揃って首を傾げた。
「よい考えですね。私がお供いたします」
庭に面したテラスから、食堂に入ってきたのはラウルだった。
冷涼な朝の大気をまとわせたような立ち姿。彼が歩くだけで、食堂に涼風が吹く心地がする。
ヴェラは、ぽうっとした様子でラウルを視線で追っている。
だがすぐに首を振り、自分の頬を軽く叩いた。
「姫さま、あのロヴナという男を追い返してまいりました」
「ありがとう、ラウル。門の外に追い出してくれたのですか?」
「いえ、王都に戻しました」
外の風で乱れたのか、さらりとした銀の髪を右手で直しながら、ラウルが答えた。
左手には荒縄を持っている。
まったくもって清々しくなかった。
「納得しなかったでしょう? フィラに会えなかったのですから」
「ええ。ですから有無を言わさず、王都行きの馬車に乗せました」
(な、なにをしたのでしょう)
「堕落と退廃的な遊びは、彼の心をくすぐるようです。私の存じ上げていた商人キラドは好人物でしたが。時を経ると、同じ血筋でもこうも成り下がるのかと思うと遺憾ですね」
「あの……具体的に言ってもらってもいいですか?」
「はい、姫さまがお望みならば」
ラウルは礼儀正しく、頭を下げる。
「まず両手首と両足を縛り上げます。抵抗されましたが、構うことはございません。さらに布で目隠しをして、ちょうど通りかかった荷車に王都まで届けるよう頼みました。私はキラド邸の場所を知りませんので、さすがに猿ぐつわを噛ませるのは不憫であろうと、喋れるようにはしておきましたが」
訊くのではなかった、とアフタルは肩を落とした。
「でも、ちょうど折よく王都行きの荷馬車がありましたね」
「なんでも途中でワインの樽を積むそうです。葡萄畑まで荷車が空というのももったいないので、魚の干物を運んでいました」
「そうですか」
またワインだ。
この間から、ワインのことが気にかかる。
お父さまが運河を建設なさっていたら、それが広い運河ではなくとも、手漕ぎの小さな舟でワインを運搬していただろうに。
「姫さま。あの、お食事の前にまずはお召替えを」
ヴェラに勧められて、アフタルは席を立たされた。
気づけば、なぜかドレスのスカートの部分が湿っている。
「あら、不思議ですね。なぜ濡れているのでしょう」
「水がこぼれたんですよ」
「どうりで冷たいと思いました。いつ零れたのでしょうね」