5-7 遥かシンハを離れて(4)
不気味な地鳴りが響いた。
「もう時間がない」
天の女主人は、シャールーズの背中を押した。
「そなたらと過ごした時は、本当に楽しかったぞ」
「おばさ……ん」
彼女の肩ごしに、遥かな山の頂上では噴煙に混じって緋色の溶岩が噴出しているのが見える。
なぁ、こんなの大丈夫じゃないよな。
シャールーズは、天の女主人にしがみついた。
でないと手の震えが止まらないから。
「だ、だめだ。やっぱり一緒に逃げるぞ、おばさん」
「我儘を言うものではない」
「でも……」
「私は信仰があれば、いずれ復活できる日もあろう。今生の別れとは限らぬ」
「大人はすぐ嘘を言うんだ!」
大声で叫ぶと、喉が痛んだ。
綺麗ごとなんて聞きたくない。シャールーズは何度も天の女主人の腕を引っぱる。だが彼女は、まったく動こうとしない。
もっと自分が大人だったら。大きかったら。力があったら。
そうしたら彼女を担いで、山を下りることだってできるのに。
やれやれ、と女主人は肩をすくめた。
「お前は聡い子だからな。仕方ない、私も真実を告げよう。そなたの考えるとおり、我が身はここで朽ちるであろう。だが、いずれ約束の地にてそなたと再会できるかもしれぬ」
「かもしれぬって。絶対じゃないだろ」
「そうだな。ただの願望だ」
願望? 願いのことか。
「私は会いたいのだよ。誰よりも何よりも大切な主を得た、そなたとな」
「主なら、どっかその辺から連れてくるから。だから……」
「表面上のことではない。幸せになったそなたに未来で出会いたいのだよ」
声を荒げるシャールーズに対し、女主人はあくまでも落ち着いている。
「でも朽ちるって言った。死んじゃうってことなんだろ」
「致し方あるまい。島民はすべて避難し、私を信仰する者はこの島に残らぬ。なぜって? それはこの島の大半が溶岩に覆われるからだ。溶岩の熱が冷めれば、いずれ鳥が飛来し、虫が棲むだろう。だが、それらは信仰を持たぬ。私のこの島での役目は終わりだ」
そんな……でも、島を去ったとしても人は生き続けるのに。
「避難した島民が、おばさんを信じるんじゃないのか?」
「島の者は、火山の噴火を止められなかった私から心が離れる。災害をとめることなど、一介の女神でしかない私には無理だというのにな」
「じゃあ、なんで全然知らない約束の地なら、大丈夫なんだよ」
「そこに希望があるからさ」
約束の地。
その言葉は、シャールーズの心を占めた。
心の変化が分かったのだろう。それまで沈痛な面持ちだった天の女主人が、柔らかに微笑んだ。
「さぁ、お行き。愛しい子」
そっと優しく背中を押される。
「俺、待ってる。約束の地で幸せになって、おばさんに会える時を待ってるから」
「ああ、楽しみにしているぞ」
手を振る女主人を目にやきつけて、シャールーズは走った。
つまずき倒れながらも山を駆け降り、港を目指す。
涙で視界が滲んだけれど、決してふり返らなかった。
もし後ろを見たら、また女主人を助けようと戻ってしまうから。
それは彼女の望みではないから。
自分は幸せにならなくちゃいけないんだ。
港に着いたとき、ラウルがシャールーズに飛びついてきた。
大勢の人にもみくちゃにされて、何度も転びながら、まっすぐに向かってきたのだ。
一人で心細かったのだろう。
口を引き結んでいたラウルは、シャールーズにしがみついて、号泣した。
涙と噴煙と、転んだ時に付着した土で、顔がどろどろだ。
「いい子だったな」
「ぼ、ぼく。泣かなかった」
「うん。泣いてなかったな。俺が来たから、泣いちゃったんだろ」
「ずっと我慢してた」
「うん。えらいぞ」
天の女主人も褒めてくれるぞ、と言いそうになって、シャールーズはその言葉を飲みこんだ。
今、彼女の名を出すことはできない。
開いたばかりの傷口が……ラウルと自分の深い傷が、もっと激しく痛むから。
シャールーズは、腕の中のぬくもりをぎゅっと抱きしめた。
島外に避難するために、港には住民が殺到している。
「キラドって奴はいるか?」
人混みをかき分けながら、シャールーズは商人を捜した。
背中にラウルをおぶって、聞いてまわる。
ようやく見つかった男は、商船にシャールーズとラウルを乗せてくれた。木造の大きな帆船。これまで見たことのある魚を捕る、二人ほどしか乗れない小さな帆掛け舟とは大違いだ。
交易船なのだと、キラドは教えてくれた。
甲板には、着の身着のままで逃げてきた島民が、座りこんでいた。
「避難なさった方を、隣の島まで送ることになったんですよ。この程度の力しか貸すことができんのが、心苦しいのですが」
キラドという商人は、子どもでしかないシャールーズとラウルにも丁寧に接してくれた。
「確かサラーマ王家にお届けするといいんですね。宝石は四種類……いや、三種類だったかな。確認しましょう。あっ」
火山灰のまじった強風に吹かれ、キラドが手にしていた証文が海に落ちた。
海面に浮かんでいた紙は、しだいに水を吸って沈んでいく。
それがラウルと離れるきっかけだった。
証文を失ったことで、シャールーズだけが王家に届けられることがなかった。
商船は隣の島に向かったが、避難民を受け入れる余裕はないと拒否された。
最後に見たシンハは、不気味な赤さと黒さに包まれていた。
溶岩流が海まで達し、大量の水蒸気がもうもうと上がっている。
空は噴煙で暗く、激しい雷が故郷の島を襲っている。
たった一人で残った天の女主人。
もうダメだ。我慢なんてできない。
「いやだー! おばさんっ!」
「うわぁぁぁぁん!」
シャールーズとラウルは慟哭しながら、シンハをいつまでも見つめていた。
水平線の向こうに故郷が消え、空の噴煙が見えなくなるまで。
ラウルは泣きじゃくり、息すらもまともにできない状態だった。
(俺はこいつよりも、お兄ちゃんだから。しっかりしないといけないんだ)
嗚咽するラウルの背中を抱きしめ、頭を撫でてやる。
「泣き虫ラウル。泣き止めよ。俺がずっと一緒にいてやるから」
シャールーズの言葉に反応して、小さい手がきゅっと服を掴んでくる。
そして疲れ果てた二人は、人の姿を保てなくなった。
隣の島が避難民を受け入れずに、また別の島、シンハラに向かったこと。
同時期、サラーマ王家も、大国カシアの侵略を阻止すべく対応に追われていた。
混乱を極める事態の中、人々は宝石に心を寄せる余裕など失っていた。
かろうじて貴重な蒼氷のダイヤモンド、鮮やかな青のサファーリン、とりどりの色を含んだ緑のコーネルピンは、王家へと納められたが。
地味な色合いのシンハライトだけは、キラド家が保管することとなった。
◇◇◇
「約束の地で、俺たちの主が待っている……か」
懐かしく苦しい思いにとらわれていたシャールーズは、腕の中の毛布を眺めた。
自分の体温が低いせいか、いつまで経っても毛布は温まらない。
「アフタル……」
その名を呟くだけで、胸の奥が絞られたような心地になる。
これが好きという気持ちなのだろうか。それとも主を大切に思う感情なのだろうか。
尋ねたいおばさんは、もういない。
「おばさん。いつか、俺の主を紹介するから。だから……」
生き延びていてくれ、というのは女神に対して正しいのかどうか、シャールーズには分からなかった。